169:11日目はまだ終わらない
「――ヴィアレンフィル様、お時間です」
声帯にまでアイロンをかけたようなぴしりとした近侍の声に、レン――フヴィシュナ王弟、ヴィアレンフィル・ロア・フヴィシュナは、淀みなく走らせていたペンをぴたりと止めた。
この時期国のどこにでも飾られている黄色とオレンジの花は、彼の私室にも例外なく咲き誇っている。
兄王から贈られた花束を生けた豪奢な花瓶の前、静かに佇む馴染みの近侍が、小さな箱を手に指示を待っていた。
「ああ、もうこんな時間か。なら頼むよ」
「畏まりました」
近侍が箱を開けると、中には一枚の封筒が入っていた。封蝋で閉じられたそれをペーパーナイフで開け、中身をレンに渡してくる。
何の変哲もない一枚の紙だ。少年の手に渡った瞬間、それはふわりと浮き上がり、パタパタと折り畳まれていった。
たちまちのうちに形作られた紙製の蝶々が、デスクの上に留まってゆっくりと羽を羽ばたかせた。
『――やあ、ご機嫌麗しゅう、フヴィシュナ王弟殿下。今回はお話しする機会を頂けて光栄ですよ』
顔も口もない蝶が発したのは、まだ若い男の声だった。
最低限礼儀正しくはあるが、どことなく人を食ったような雰囲気を感じる声だ。無表情で傍らに控える近侍の視線を感じながら、レンは美しい顔に微笑を浮かべたまま、物珍しそうに蝶を指先でつつく。
「面白い魔術を使うんですね。使い魔とは違うようだ」
『詳しくは秘密です。すみませんね、そちらは勉学の真っ最中だったようで』
「構いませんよ。提出は五日も後だし、どうせまだ半分も残っているんです」
どういう仕組みになっているのか、蝶はデスクに広げた課題――外国語の古典文学の翻訳――の内容もきちんと見えているらしい。外見さえ何とかできれば、密偵の仕事にも役立ちそうだ。
実際、色々と薄暗い仕事に利用しているのだろう、とレンは考えた。
敬語を使ってはいるが、恐らく普段はもっと崩した言葉に慣れている様子だ。畏まった場にはあまり出る機会がない、どちらかと言えば現場で汚れ仕事をやることが多い側。
非公式とは言えレンとの会合に駆り出される程度の地位であると同時に、最悪の場合切り捨てても良い程度の立場でもある人間。
「アウグニス神国にも、綺麗な花は咲いていますか?」
問えば、蝶の向こうにいる男は苦笑したようだった。
『咲かせようと必死で足掻いてるお方々が沢山いるから、こうして他国のお家騒動にまで躍起になって目を凝らさないといけないんですよ』
「花を咲かせようと肥料を撒き過ぎて、枯らせてしまわないと良いですけれどね」
『肥料の塩梅を決めるのはオレじゃないもので』
殿下、と近侍が唇だけ動かして催促してきたので、レンは無駄話を切り上げた。
この後は兄王との予定が入っている。それに、今日の会合は前哨戦に過ぎない。長引かせる意味はなかった。
「――それで、あなたの名前は? あまり長い付き合いにはならないかも知れないけれど、まずは礼儀に則っても良いんじゃないかな」
促せば、男は笑みを含んだ声を返した。
愛想が良く、幾分か惚けた印象のある――シェパに住む、ある二人の少年少女が聞いたなら、数秒開けてから顔色を変えるだろう声だった。
『王弟殿下にお目文字しておいて申し訳ないですが、家名があるような身分じゃないんですよ。――オレのことは、ジルとだけ呼んで頂ければと』
※※※
「そんじゃ、今日はここで解散ってことで。お疲れ様でしたー」
「バイト終わりみたいな挨拶しますね。もう少し名残を惜しんで欲しいところです」
「明日も会うじゃない」
診療所にジョルジオとサラを残して、子供二人でとことこ歩く街の中。
別れ道に来たのをきっかけに、オーリは呆気なく手を振ってみせた。
「私は屋敷に帰って、貴重品の部屋とか漁ってみるよ。ほら、精霊の髪レベルのものがあるとしたら、この街じゃウチくらいだし」
「妥当ですね……なら僕は、ノヴァさんのところにでも聞きに行きましょうか」
期待はしていませんけど、と付け加えるラトニに、オーリは頷いて溜息をつく。
期待できないのはブランジュード家も同じだ。国が買えるような宝物が万一あるとして、子供が探れるような所に放り出しておくとは思えない。
「勝負は明日だよ、今日はもう、できることだけやろう。あ、このまま真っ直ぐ帰るから、クチバシは付けないでね」
「………………」
「付けないでね」
物凄く不満そうな顔をされたので、言わなければクチバシをストーカーさせていたに違いない。胸元ですっかり寝入っているサテを恨めしそうに見た後、ラトニは不承不承といった様子で頷いた。
――わあっ、という歓声が聞こえて、二人は何となく振り返った。
見れば少し向こうで、道化師が気取ったお辞儀をしている。手にした艶のないナイフがくるりと上に投げられたと思った次の瞬間、ナイフが弾けて可愛らしい桃色の花弁になった。
大量の花弁に紛れて、観客たちにちらほらと、色とりどりのリボンを巻かれた小袋が降り注ぐ。離れた位置にいた二人のもとにもそれらは一つずつ降ってきて、手のひらに握り込めるほどのそれをふわりと受け止めた。
「素敵、小鳥の形のクッキーが入ってた!」
「私のは流行りのポプリだわ、これ枕元に撒くといい夢を見られるのよ」
同じように贈り物を受け取った娘たちがきゃいきゃいとはしゃぐ声を聞きながら、オーリも袋を開けて、顔を綻ばせた。
「わ、可愛い。薔薇の形の飴だ」
リボンを解いた中にあったのは、艶のあるピンクの飴だった。繊細な細工の薔薇は食べるのが惜しいほどで、そのままアクセサリーにもできそうだ。
「僕のはポプリでした。良かったらあげますよ」
どうやら好みでなかったらしく、ラトニがリボンを結び直してオーリに渡してくれた。彼はこういった洒落たものには、あまり興味がない。
「ありがと、じゃあ代わりに私の飴あげるよ」
「いいえ、お気持ちだけで。飴は一粒しか入っていませんし、僕にはちょっと可愛すぎるようですから」
「そう? じゃ遠慮なく」
素直に貰っておくことにして、オーリは今度こそ屋敷へ帰ろうとラトニに手を振った。
もう一度道化師の方を見れば、そこにはもう誰もいなかった。
小さく目礼だけして歩き去るラトニに背を向け、二つの小袋をポケットに仕舞った。
※※※
ブランジュード邸は今朝方出て行った時と変わらない様子で、ぱたぱたと立ち働くメイドたちの間をこっそり擦り抜けても、誰も気付かないようだった。
さっさと着替えてサテを枕元に放り出し、自分もばすんとベッドに仰向けになる。
(さて、貴重品の部屋にはどうやって入ろうかな。父上様のとこで鍵を探すのが先? でももし防犯設備とか仕込んであったら、場所が場所だし大騒ぎになるかも)
まだこっそり街に出られなくて、日がな屋敷の探索に精を出していた頃も、貴重品置き場――要するに宝物室のような場所は見かけたことがない。
流石に隠しているのだろうか? しかし、掃除くらいはしている人間がいるはずだし、いっそ執事かアーシャに聞くべきか。
(精霊の髪、羽、毛……今は精霊自体がほとんど見かけられなくなってるからなぁ。誰かが所有してるとしても、値段は間違いなく吊り上げられてる。オセロの権利を丸々使えたとしても、買い取るのは無理だっただろうな)
うーん、と手の甲を額に当てる。サラとの共同、商業ギルドとの駆け引き。今朝から目まぐるしく動かしていた頭が、今更熱を持ち始めているような気がする。
ごろん、とクッションを抱えて転がった時、ポケットから出してあった二つの小袋が目に入った。そのうちポプリの方を開け、香りを嗅いでみる。
「ん、ラベンダーかな。確かによく眠れそう」
ふう、と立ち昇る花の匂い。
観客の娘たちは、確か枕元に撒くと言っていたから、遠慮なく使わせてもらうとしよう。
(リーゼロッテ様が今日来る予定になってたら良かったのになぁ。そしたら精霊の髪のことも聞けたのに)
紫色のポプリを袋から出し、ぱらぱらと撒く。一気に強くなった香りに、眠っていたサテがむずかるように身動きした。
むぐむぐと尖った口を動かして薄目を開ける。きょろりと頭を動かした雛は、体をシーツに擦り付けるように転がった。
「サテ、まだ眠いなら寝てていいよ」
手を伸ばしてサテを撫でるが、サテは反応しなかった。ただ聞いたこともないような、唸るような軋むような声を上げ始める。
「……サテ?」
フーフーと息が荒くなり、ビー玉のような目が鋭くなっていく。オーリが身を起こした瞬間、サテが高く罅割れた鳴き声を上げた。
「サテ!?」
ポプリの散る枕に飛びかかって暴れ出したサテに、オーリはぎょっとした。
信じ難いことに、未成熟な雛の爪や嘴が、まるで成獣のそれのように容易く枕を引き裂いたのだ。詰められていた白い羽が部屋中に飛び散る中、興奮の収まらないサテがクッションやぬいぐるみに飛びかかる。可愛らしい熊や犬が見る見るうちにズタズタになり、綿と内布をはみ出させていく。
「やめなさいサテ! どうしたの!?」
慌てて両手で包むようにサテを捕まえたオーリの手を、針のような爪が容赦なく引っ掻いた。小さな体を潰さないよう隙間を開けていたのが悪かったらしく、咄嗟に緩んだ手からサテが飛び出し、また枕元に着地する。
「ギギギギギギ!」
歯軋りするような異音を上げるサテがシーツを引き裂くと同時に、小さな袋が破けた。
リボンを巻いた、飴の袋だ。転がり出た薔薇の形の飴を吊り上がった目が一瞬映し、
「あっ、ちょっ!?」
一飲みにした。
オーリはぎょっとした。あんな細い喉でボコボコしたものを飲み込んだら窒息する!
そして次の瞬間、
――ゴゥッ!
サテの全身が炎に包まれて、オーリは今度こそ真っ青になった。
「サテ!? なに、何が起こってるの!!」
燃え上がる雛を反射的に片手で捕まえ、もう片方の手で水差しの中身をぶち撒ける。しかしここで更なる異常事態。赤い炎に触れた水が、蒸発するような音を立てて水蒸気と化したのだ。あまつさえ、ベッドにコロコロと転がったものは――氷かこれは!?
「熱っ……くない!? いや冷たい!? どっち!?」
まるで極限まで冷えた鉄の塊に触れて、熱いのか冷たいのか一瞬理解が追いつかないような感覚だ。今自分が負っているのは火傷か凍傷か。知るのが怖いが今はとにかく必死になってサテを抑えるオーリの前で、サテの翼が伸びていく。ふわふわの綿毛だった羽毛が炎を纏って鋭くなり、力強く空を掻いた。
「――キュイイイイ!」
喉を裂いた金切声は、果たして苦鳴か産声か。
一際大きく爆ぜた炎がオーリの目を灼き、サテが身を捩って逃れた。向かう先は、開け放された窓の向こう。
「ーーーーーーーーっ!!!!」
庭へと飛び出したサテを、オーリは黒石を引っ掴み、蒼白な顔で追いかけた。
※※※
一通り必要な話を終えて、二人は会合を切り上げた。
『では、続きは明日ですね。問題なく事が進むことを願っていますよ』
「ええ、ぼくも楽しみにしています」
蝶の向こうでジルが嘯いて、革張りの椅子に座したレンが白皙の美貌を微笑ませる。
互いに決して本音を見せない、ただ必要なものを奪い取るためだけの駆け引き。強欲で、傲慢で、自分以外の全てをチェスタの駒としか思っていない人間たちの争いは、権力がある所にはいくらでも転がっていて、今更感慨を覚えるほどでもない。
『シェパの領主殿の邪魔が入らなければ良いんですがね。オレの上も、あのお人とはあんまり事を構えたくないらしいので』
「大丈夫でしょう。今回に限っては、恐らくあのひとは邪魔をしませんよ。――邪魔をできない理由ができてしまいましたからね」
『……ふぅん?』
ジルが鼻を鳴らすが、レンにそれ以上情報を与えるつもりはないようだった。シェパ領主からの妨害は警戒を薄めて良い、とだけ認識し、話を戻す。
『で、明日の会合は、いつ?』
問われてレンは、少しだけ考える振りをする。
微笑のままで思い浮かべる、青灰色の目をした少女の姿。今まさに舞台の上で、死にものぐるいで踊っているだろう、愚かで可愛くて真っ直ぐな、籠の中から空に焦がれる小鳥のような人。
「そうだな……『浮島』に門が開いたら、かな」
※バラの花言葉
「幸福」「神の祝福」「奇跡」
※ラベンダーの花言葉
「沈黙」「あなたを待っています」「私に答えてください」「期待」「疑惑」
ジルについては10話くらいからちょいと出てました。連載最初期の誘拐事件の首謀者です。