167:子雀は鷹に化けうるか
川辺には、簡素な木箱が三つ用意されていた。
二人が座るために二つ、その間に一つ。
真ん中の木箱には、八×八の直線で区切られた薄べったいボードと、小袋が乗っている。小袋の中身は、じゃらじゃらとした小さな石だった。できるだけ円形に近いものを地道に集めたと思われるそれは、表裏を白と黒の二色に塗り分けられていた。
木箱の一つに座す少女は、手を伸ばして小石を十ほども手元に掴み寄せ、のんびりとリラックスした様子だ。
その膝の上にはあの灰色の奇妙な雛がいて、首元を擽る彼女の指先に懐いては甘えた鳴き声を上げている。
「私をどうやってここに連れて来た?」
佇んだまま見たことのないボードゲームの道具を観察しながら、ブルーノは少女に問うた。
少女はにこりと笑い、懐からちらりと何かを覗かせる。宝石のついた腕輪のようなそれは、ブルーノの審美眼を信じるならイミテーションではないだろう。
「私、貰い物をする機会が多いんです。もう一度だけ転移が使えますから、帰りはちゃんと送りますよ」
ブルーノは無表情の下で僅かに眉を寄せた。
転移の魔術具などと扱いが難しいものに、他人の操作で身を任せるなんて真似はいつもなら拒否しただろうが、どことも知れない場所に連れてこられた以上、一人で帰るのは難しい。
「流石『天通鳥』、顔が広いことだ」
「ご存知でしたか」
「シェパに根を下ろしている商人で、これだけ奇怪な噂を知らない者などいない。前回会った時は、君がそうだとは気付かなかったが、その気で調べれば見当はつく」
「それは光栄ですね、フヴィシュナ南方領・ナナモの寒村出身、商業ギルドシェパ支部副支部長ブルーノ・ギアさん」
天通鳥は正体不明を通していると言われているが、さらりとやり返された所を見ると、実際はこの顔も魔術具でも使って誤魔化しているのかも知れない。
大したアドバンテージにはならないようだが、手札の一つとしては頭に仕舞い込み、同時に少女の情報収集力を一つ上に修正する。
この少女は、ピンポイントでブルーノを狙い撃ってきた。出身地まで知られているのはその証拠だ。
「さて、何の予告もなく誘拐されて、大人しく話を聞くと思っているのなら、君は日向水のような人生でも送ってきたようだ。私はこれでも忙しい身でね、まずはアポイントの一つも取るのが礼儀というものではないか?」
「その件は重ね重ね申し訳ありません。上級貴族との癒着の挙げ句、商業ギルドばかりかブランジュード侯爵家にまで泥を塗るような真似をしている話なんて、人前でしない方が親切だと思ったんですけど」
「……口には気をつけた方が良い。かの侯爵家の威信は、この街では特に計り知れない。人聞きの悪い物言いをされては困るんだ」
「あら失礼。てっきり私は、いっそ戦争が起きても構わないとお考えかと思ったもので」
「一気に話が飛躍したな。子供の妄言に付き合っている暇はない」
「あなたの故郷の村は、南方の隣国であるザレフに近い。随分とご心配でしょう」
それにあなた自身、上司のヘマに巻き込まれて諸共落ちたくはないはずです。
そう付け加えられて、ブルーノは数秒沈黙した。
更にゴネようと思えばできる。実際、相手が同じ商人ならそうしただろう。
しかし今、彼は少女を見定める段階にあると同時に、少女に見定められる立場でもあった。
少女はブルーノに目をつけて交渉の場に連れて来たが、あのルシャリの娘――サラに協力しているのなら、時間的猶予はそうないはずだ。もしも交渉ならずと判断すれば、次は恐らく商業ギルド本部か、権威ある貴族に連絡を取る。
既に仕込みがどこまで進んでいるのか分からないが、ブルーノの極めて個人的な情報を掴み、高価な転移の魔術具を与えられるほどの人脈があるのは確かなようだった。
伸るか反るか。今、支部長の背信と、それによって負う不利益に、ブルーノは歯軋りしながらも手を拱いていたのである。
ブルーノの思考が枝分かれし、無数の仮定と選択肢が返答を迷わせる。
どこまで掴まれているのか。どこまで食い込んでいるのか。
賭ける相手が、鷹に見せかけた雀であってはならない。不良債権を掴んだら、諸共負債を抱えて転がり落ちる。
静かに揺らぐブルーノに、少女は幼気な笑みを浮かべ、こう告げる。
「ファルムルカの不興を買いたくはないでしょう?」
「――ルールを説明してもらおうか」
少女の対面の木箱にどかりと腰を下ろし。
じゃらりと小石を手元に引き寄せながら、ブルーノは人生最年少の交渉人と相対した。
※※※
ブルーノが滑らかに一手目の黒を置くのを確認して、オーリはほっとして右耳に髪をかき上げた。
それを合図に、ラトニの気配が消失する。監視カメラとしてのクチバシを潜ませた彼は、次に合図をするまでは別の役割をこなすだろう。
――では、ここで一度ネタバラシをしておこう。
商業ギルドを利用すると決めた時、オーリは即断で、以前一度だけ顔を合わせたブルーノに的を定めた。
そのために、姿を消したクチバシをギルドに潜入させることをラトニに指示。ブルーノの地位やフルネームを含む個人情報を割り出し、接触するチャンスを窺った。
厄介な支部長とブルーノが同時刻に外出すると知り、敢えて外出の矢先にサラを突撃させることで支部長を足止めする。盛大に騒いでもらって、それを忌避したブルーノが裏口から出てくるように誘導した。
更に、ブルーノを井戸まで誘き寄せるようサテに言い含め、近付いた所で転移を発動したのである。
転移は勿論、ラトニの操る高速移動魔術、【呼び水】を使用した。以前は二人が限界だったが、ラトニは着実に腕を磨き、既に三人を余裕で運べるようになっている。
地下水を伝わって山中の川辺に移動した後は、ブルーノにはオーリが自宅から持ち出した腕輪を意味ありげに見せ、魔術具を使ったと誤認させたが、実はあの場には最初から最後まで、ラトニが姿を隠していたのだ。
また、職員名簿のしまい場所を探し当てられなかったクチバシが、ブルーノ・ギアの出身地などという個人情報を入手できたのは幸運な偶然である。
提出されてきた新商品開拓リストについて、古馴染みらしき部下に「昔ナナモに似たようなゲームがあった」と話していたのをラトニが聞き、地名と踏んで駄目元でジョルジオに聞いたところ、南方の寒村だと発覚。その地方出身者の身体的特徴と当てはまったことで推測を確定し、あたかもブルーノの個人情報を完全に調べ上げているように見せかけたのだ。
時には食うに困るような寒村だそうだが、故郷のことを話す表情からして、決して故郷に忌避感を抱いてはいない。故に揺さぶりに使えると判断した。
加えて、『ブランジュード』の名で危機感を煽った後に、『ファルムルカ公爵家』の名を突きつける。
こんなやり方で接触を図った以上、ブルーノも、これが最初で最後の交渉だとは気付いているだろう。
もしも彼がオーリの言葉を寝言と断じて交渉を蹴った場合、彼にとって最悪なのは、本当にオーリが無能でなかったケースだ。
ブルーノに見切りをつけたオーリが商業ギルド本部や貴族に同じ話を持って行き、そこでも何もできなかったなら問題ない。ブルーノの困った状況は何一つ変わらないが、それだけだ。
だが、本当に彼らを動かせてしまった場合。
その時ブルーノに残るのは、みすみす手元に飛び込んできた奇貨を投げ捨てたという、自らの首を掻き切りたくなるような事実。
そして、一連の騒動からは完全に蚊帳の外に置かれ、たとえ全てが終わった時、支部長と共に全責任を追及され商業ギルドを追われることになろうとも、「だが実際お前は何もしなかったではないか」という言葉と共に一切の釈明を切って捨てられる未来である。
(いやー、前にリーゼロッテ様と商業ギルドの前で遭遇したのを、ラトニが覚えててくれて良かった)
ファルムルカ公爵家の名を挙げたのは半分ハッタリだが、もう半分にはきちんと根拠があった。
以前、まだオーリがラトニと喧嘩をしていた頃、商業ギルドから追い出されたサラが、リーゼロッテ・ロウ・ファルムルカに話しかけられたらしい。
リーゼロッテがギルドに入るところまでは見ていないが、その時支部長は「この後大切な客人と会う」予定があったそうで、なおかつリーゼロッテは従者を連れて馬車を降り、荷物を放り出していたサラに話しかけてくれたらしい。
サラへの親切のためだけならば、従者のみを降ろすだろう。自分も馬車を降りたなら、つまり商業ギルドに用があった――順当に考えて、彼女が支部長の「大切な客人」だったのではないだろうか。
リーゼロッテが何らかの命令を受けてシェパに来ているのなら、その命令者は彼女の父か、兄である。『黒いローリエ』などという代物が関わっている以上、名高いファルムルカ家がむざむざ見過ごしているとも思えない。
ブルーノは支部長の横暴に苦い気持ちを抱いている。進んで乗ったわけでもない泥船で共に沈むなど、全身全霊で拒否するだろう。
弱みに付け込み、テーブルに座らせたなら、後はオーリの交渉次第。
ぱちりと音を立てて、オーリは白い石を置いた。
※※※
十分後。
(やっべぇこの人頭いい)
にこにこ笑顔を貼り付けながら、オーリはだらだら冷や汗をかいていた。
目の前には、黒が中央部に固まり、それを白が囲む形の盤面。一見白の数が多いのだが、実は白が次に打てる場所がないために、パスを余儀なくされる局面である。
この手法の名を「中割り」といい、ラトニは五回目くらいでこれを発見した。ちなみにオーリは今も昔もただのエンジョイ勢なので、ラトニに解説されるまで分からなかった。
お互いを理解するために頭脳ゲームしようぜ、なんてカッコつけたことをぬかしておいて、いきなりピンチである。
と言うか、生き馬の目を抜く商人の世界でギルド支部のナンバー2張っている男に頭脳ゲームで争おうと思うの、割と無謀だったような気がしなくもない。
(チックショー、ラトニにだって一応最初は勝てたのに! あっ、ダメだコレ! 挽回無理だコレ!)
パチン、とまた一つ黒を置かれて、誘導されていると分かっていながら白の置き場がそこしかない。多分、いや絶対、次はパスするしかないだろう。懐の中でぐうすか寝ているサテが羨ましくて仕方ない。
「これは親切で言うんだが、全部顔に出てるぞ」
呆れた顔で指摘されて、オーリは「げっ」と悲鳴を上げた。
ブルーノは膝に片肘をつき、手のひらに顎を乗せて、じっとりした半目でオーリを見ている。
「どんなものかと思ったが、予想外に弱かったな。折角ゲームは面白いのに、初対戦者が君レベルでは、プレゼンとしては下の上だ」
「ヒィん返す言葉もないです! あっパスで!」
盤面を見ながら情けない声を上げるオーリに、ブルーノは深々と溜息をついた。やっぱり交渉拒否して帰った方が良かったかも知れない、などと考える。
「君、同時に難しいことを考えるのが苦手だろう。まさかこのままゲームが終わるまで本題に入らないつもりか?」
「あっすいません本気で忘れてました。五分前くらいまではちゃんと機会を窺ってたんですけど」
「ああ、あの何の意味もない長考が増え始めた頃か。で、本題は?」
「精霊の髪ってあります?」
「あるわけないだろうがそんなもの。話が終わりなら帰るぞ」
「待って待って待ってごめんなさい普通にダメ元でした!」
わあわあと慌てて手を振って、一息ついて本題に入る。
「『浮島』の薬草が欲しいんです」
「ない」
「まだ名前も言ってないのに?」
切り返されて、ブルーノは無言でパチパチと石をひっくり返していく。盤を斜めに横断するように黒が並ぶ。
「……サラ嬢が何を求めてギルドに来たかは把握している。その上で言うが、彼女の求める薬草はギルドにはない」
「ほんの少しも?」
往生際悪く数個の石をひっくり返しながら、オーリは疑わしげに食い下がった。
高値がつくと分かった品物を売り惜しむのは、決して珍しい話ではない。
薬草の使い道を知らずとも、現在それに「価値が付加された」ことを支部長は知っている。
ガルシエ爵を焦らせて、値を釣り上げるのを待つか。はたまた、ガルシエ爵以上にそれを欲する誰かに、更に高額で売り飛ばすか。
少なくともガルシエ邸でちらりと見た様子では、支部長はガルシエ爵に心酔しているようではなかった。利益を目当てに与しているなら、更なる利益を見出せばあっさり転ぶだろう。
しかしブルーノは首を横に振った。
「本当にないんだ。確かに支部長は在庫を置いておきたかったようだが、昨日、酷く怯えた様子で外出から帰ってから、倉庫の現物全てをどこかに持ち出した。相手は分からんが、帳簿を見る限り、売却したので間違いない」
「ふうん……じゃあ、種ならどうです?」
「あってどうする、急速な成長には莫大なコストがかかるぞ。……まあ少なくとも、私はあるとは聞いたことがない」
『――オーリさん、ありました。ギルドの倉庫の一つ、木箱の中です。多種類の種を保管している中に、一袋紛れ込ませていたみたいです』
耳元に届いた声に、オーリは、ふぅん、と呟いた。
薄く目を細め、ブルーノを見る。あると聞いていない、なら、
「それはつまり、『仕入れてはいない』って意味ですよね?」
「ああ……帳簿を見る限りは」
耳元では淡々とした声で報告が届けられている。どうやらサラはうまくやったようだった。
――ギルドに突撃させたサラの役割は二つあった。
一つは支部長への囮。
もう一つは、支部長を薬草の隠し場所へ誘導することである。
無事にブルーノを誘拐し終えたならば、支部長を足止めする必要はない。ラトニからの合図を待って『振り払われた』サラは、足早に去ろうとする支部長に辛うじて聞こえるように、こう呟いたのだ。
――早く手に入れないと、また「火事」が起こってしまう。
問いただそうと支部長が振り返った時には、既にサラは人混みの向こうに遠ざかっている。
不安に駆られた支部長は、もしもまだ薬草があるなら、それを確認しに向かう。追跡するのは、ラトニの『目』であるクチバシだ。
「――なら、仮に薬草の種がギルドにあるとして、それは『商品』ではないということですね」
にっこりと。
オーリは笑った。
『商品』とは即ち、ギルドの金で買い付けられ、ギルドに利益をもたらす、ギルドの所有物を指す。
例えば、帳簿に載せられない後ろ暗い金で、或いは支部長の私財で購入されたものがたまたまギルドの倉庫にあったとして。
それは単に、私物の物置き代わりに倉庫を使っていた扱いにしかならず。
その品物がどうなろうと、ギルドの損にも得にもなりはしない。
ひっくり返すために白い石をつまんだ指を止め、ブルーノが口を噤む。
鋭い視線が、オーリの思考を計って彼女の双眸を透かし見た。
『支部長が種を移動し始めました。小さな魔獣の角らしきものをいくつも出してきて……角の中身はくり抜いてあるみたいですね。数粒ずつ種を隠しています。ぴったりと蓋をして、恐らく魔術具で接着を』
「『窃盗』はしたくないんです。あなたは知らずに、正体の分からない種らしきものの詰まったモノを、客に売るだけ。そこに種が隠されているなんて、あなたは知らなかった」
ガルシエ家の倉庫が燃えたのが故意的な放火であることを、恐らく支部長は知っている。その犯人が、未だ見つかっていないことも。
昨日の支部長はひどく怯えていたという。ガルシエ邸で余程釘を刺されたのだろう。隠し持った薬草を全て吐き出し、なお追い詰められている。
種を手元に残していたのは、どうせすぐには使えないものだからか。それとも、情報を共有させてもらえないながらに、切り札にでもしようと思ったか。
所詮は使い捨ての駒に過ぎない支部長の手札は非常に少ない。
だから、手持ちの札を失えない。
サラの些細な一言に不安を募らせ、隠し場所に走ってしまう程度には。
「……商業ギルドのモットーは『公明正大』」
ブルーノが溜息のように言った。
「対価を受け取り、商品を渡す。相手が誰であろうと変わらない。
確約の前に続きを聞かせろ、注文はそれだけではないのだろう」
パチンとオーリが白い石を盤に置き、残る桝目は五つ。右下に三つ、左上に二つ。
ブルーノは迷わず右下の一つを埋め、オーリが顔をシワッとさせる。
桝目に偶数の空きがある場合、そこに石を置いても、次の手でひっくり返されてしまう。従ってこうした場合は、奇数の空きがある方から埋めていくのが定石なのだが――ゲーム一回目でそれを理解するあたり、実力差があり過ぎてどっちも楽しくないタイプである。ちなみにオーリは一杯ひっくり返せそうな方から埋めるタイプなので、ラトニに指摘されるまで気付かなかった。
もう負けが確定している盤面に次の石を置きながら、オーリは気を取り直して注文した。
「ルシャリから物品を取り寄せたいので、荷物送付サービスの魔術陣使わせてください」
「無理だ」
これもまた即答だった。
「あれは完全にギルドで管理されていて、使えば必ず記録に残る。支部長は新ルシャリ公国とのやりとりを警戒していて、今やあらゆる荷物を独断で開けかねない」
ギルドは魔術陣を利用した密輸や誘拐、テロを警戒しており、依頼客は規則に則って身元を明らかにせねばならない。サラの名は勿論、一介の孤児に過ぎないラトニや、本名も晒せないオーリでは、代わりの依頼はできないだろう。
――ならば依頼人の身元が、確認の必要もないほど確かなら?
「ところでブルーノさん、このゲームどうでした?」
全ての桝が埋まった盤面を指差し、オーリは聞いた。勿論盤面は圧倒的に黒が多い。
ふむ、とブルーノが顎に手を当てる。
「オセロ、といったか。ルールはシンプル、だが真面目に極めようと思えば一生かかる。チェスタやカードゲームよりも遥かに易しく、真冬の室内や子供同士でも簡単に遊べるが、頭脳ゲームの側面が強い。
端的に言って間違いなく売れるだろうな。特許をとった人間と知り合いなら、是非とも紹介してもらいたい」
既に特許登録されているだろうことは疑っていなかった。こんなにシンプルで量産が容易いゲームなのだ、そうでなければ情報だけくれてやることになる。
金のなる木をただ自慢すれば、奪われておしまいだ。
その言葉を待っていましたというように、オーリが紙を一枚出す。下の方に見覚えのある印があった。
「――君が考案者か」
もしやと疑ってはいたが。
管理局の印がはっきりと押されたそれに、彼は唸るような声を上げた。惜しげもなく渡されたそれに、舐めるように目を通す。
「特許登録済みの証明書です。見ての通り、三十年間の独占が認められています」
「通常の倍の期間か。誰のコネだ?」
「何度も言いますが、これでも顔は広いんですよ」
「それに関しては、もう疑っていない」
証明書は二枚組のようだった。もう一枚も見せろと無言で促すブルーノに、少女は「そっちは契約が果たされた時にお見せします」とにこにこ笑う。
「それで? これを商業ギルドの専売にするという話か?」
「いいえ。――特許ごと差し上げます」
さらりと言い放たれた言葉に、ブルーノは固まった。
売り方さえ誤らなければ、このゲームは間違いなく、国内外で爆発的に流行する。それを専売にすることで得るだろう莫大な利益を弾き出していた頭脳が、その数字の巨大さ故に、言葉の理解を一瞬拒んだ。
「――待て。それはつまり、販売権のみならず、製造権も、利益も、全て商業ギルドに明け渡すということか?」
「はい」
少女はにこにこと笑っている。
あれほど感情豊かにブルーノの言葉に消沈し、粋がった割には呆れるほどゲームに弱い、やはり凡俗の幼子に過ぎないのではないかとまで思わせた少女は、この状況に至って尚、にこにこと、温厚に、ただの人懐っこい子供のように笑うのだ。
ドッ、とブルーノの心臓が大きく脈打つ音を聞く。全身から冷や汗が噴き出すと同時に、手にした証明書が一気に重さを増したような気がした。
「待て、待て待て。君はこれを、何かに使うつもりだったんじゃないのか? 特許を取るためにかかる手間もコネも尋常なものじゃない。それを投げ渡すようにして、街に来て十日ほどしか経っていない人間の、行ったこともない故郷のために使うのか?」
「ええまあ。いやーお恥ずかしながら、私ってばちょっと有名人な割には手持ちの財産てほとんどなくて。でもほら、財産て、使うべき時に使われるためにあるもんじゃないですか」
――子供の割り切り方じゃない。
ブルーノは今初めて、『天通鳥』なんぞと太平楽な呼び方をされている子供の異常性を理解した。
持っているだけで一生遊んで暮らせる財産を、たまたま縁のあった女のために使い果たすと言い切ったのだ。
全賭け。
この少女は、あの孤立無援の他国の娘を、本気で勝たせるつもりでいる。
あまりにも多くのものを相手取った闘争に身を浸しているとは、そのボロボロに負けたオセロの盤面からは想像もさせないまま。
彼女はただにこにこと、その怪物じみた灰色の双眸をブルーノに向け続けている。
「……これを使って、私に何をさせたいんだ?」
絞り出すように聞いたブルーノに、オーリは安心したようにぱちんと手を打って口を開いた。
「えーとですね、特許の入手経路をどう説明するかについては、私たちの関与を秘匿してくれるなら、ブルーノさんの判断にお任せします。
それで、この『オセロ』をギルドの独占ってことにして、『大至急、根回しのために偉い人たちに贈呈する高級ボードを作りたい』って建前で、ルシャリに木材を注文して欲しいんです。ほら、あそこの木材、王侯貴族の御用達だから」
貴人に贈る極上のボードを作るために、木材を指定するのはおかしなことではない。
例えばそこに、『ワクチンの製造に関わるある木材』が紛れ込んでいたとして。
ルシャリからの荷を警戒する支部長が、それをはっきりその目に映したとして。
それでワクチンが作れるなんて気付くのは、サラたちだけなのだ。
「……ボード自体も小さいものだ、試作品のための少量の輸入なら一時間もせずに届く。
たまたま『余剰』になるだろうと思われた少量の木材を、たまたま欲しいと探しに来た客に売れば良いんだな?」
「流石話が早い! お願いできますか!?」
「断れば、商業ギルドは二度とこれに関われなくなるんだろう」
剣呑な顔で、ブルーノは証明書を振ってみせる。
懸案事項は、オーリが見せようとしない二枚目の証明書。だが、証明書は二枚揃っていなければ意味をなさないし、この一枚をブルーノに預けるというのなら、タダ乗りしようという魂胆ではないだろう。
逃してはならない大魚、むざむざ失うのはあまりに惜しい。彼女が次に話を持っていく先は、話の分かる貴族か、対立するギルドか。
――何よりオーリの申し出は、ブルーノにとって圧倒的にローリスクハイリターンだった。
誰に追及されても知らぬ存ぜぬで押し通せる一方、いざと言う時は支部長の零落に巻き込まれることを防ぐ一手となる。万が一サラの陣営が勝利した場合、「彼女たちに手を貸した」という事実はあまりにも強い。
「――良いだろう、君の注文は、私、ブルーノ・ギアが責任を持って受諾しよう。その代わり、全てが終わった時――そうだな、王都の大合議が終了すると同時に、君はもう一枚の証明書と特許権を完全に私に譲渡し、以降はその使い道に一切の干渉をしない。これはサラ嬢の趨勢がどう転ぼうが実行されるものとする」
とうとう賭けを決めたブルーノの言葉に、オーリは「オッケーです!」と元気よく笑った。