161:蛇は囁く
「――ところで、紅茶とショコラータのお代わりを頂いても良いかね」
室内にいる人間が二人だけになり、どちらがどう切り出すかと身構えていたラトニの耳に聞こえてきた第一声はそれだった。
この状況下でガルシエ爵とて相当緊張していただろうに、全く空気の読めていない発言をしたブランジュード侯に、ラトニも若干半目になる。
いや、これは空気を「読むつもりがない」と言った方が良いのだろうか。権力者たちの話し合いというものは、往々にして回りくどい。
まるで目の前にいるのが一見温厚そうなちょび髭ぽっちゃりおじさんではなく涎を垂らした熊か何かで、今にも食いつかれるのではないかと言わんばかりに表情を固くしていたガルシエ爵も、言われて僅かに肩の力を抜いたようだった。
テーブルには上品なベルがあったが、彼はそれを使ってメイドを呼びつけることはしなかった。
目の前にある濃厚なチョコレートのケーキを自らカットし、ポットから紅茶を注ぐ。ガルシエ爵からのサーブを、ブランジュード侯は当然の顔で受け取り、機嫌良く笑った。
「いやいや、娘は王都でショコラータを大層気に入ってね、私も久々に食べたがこれは確かに美味い。良かったらうちにもレシピを教えてもらえないかい?」
「ええ、勿論ですとも。後でレシピを書かせましょう、是非オーリリア嬢にも作って差し上げてください」
「そうだな、あの子も我が家のためによく頑張ってくれているからね。最近は特に」
不快な話題に移ったことを察して、ラトニの顔からうっすらと表情が削げ落ちる。
最近は特に、婚約のこととかね。そんな副音声が聞こえた気がして、急激に気分が低下した。
「我が家の一人娘として立派に役割を果たしているオーリリアに、美味しいお菓子は良いご褒美になるだろう。今日も自分で婚約者を訪ねたいと言い出してね、結婚するという自覚が出てきたようだ」
「嬉しいことですね。あの年頃では、恋物語などに憧れる少女も多いそうですが……流石にオーリリア嬢は教育がしっかりしておられる。もう学科もかなり進まれたとか?」
「ああ、何の授業でも文句を言わず真面目に受ける生徒だと、家庭教師からの評価はなかなか高いのだよ。尤も成績自体は、並より少し上程度だがね」
「なに、それくらいなら上々でしょう。マナーやダンスなどは別ですが、オーリリア嬢が義息子に嫁いでくださった後、苦労しない程度の学があれば充分です」
一般のご令嬢の中には、学科など嗜み程度にしか学ばない方も多くおりますし。そう告げるガルシエ爵に、ブランジュード侯は「私もそう思っていたよ」とにこやかに頷いた。
「学科よりも、オーリリアには求められている役割がある。それを果たしてくれるのなら、煩いことは言わないつもりだった」
「ええ、オーリリア嬢はよくよく理解してくださっています。今日もこうして義息子を訪ねてきてくださった。末長く添うのですから、仲睦まじいに越したことはない」
(――既にオーリさんが嫁に来たような物言いをするな、クソ忌々しい裏切り者の分際で……!)
にこやかに続く会話に耳をすませながら、ラトニは喉から剣呑な唸り声が洩れそうになるのを抑え付けた。
オーリの人生を右から左へ受け渡すようなブランジュード侯の発言にも腹が立つが、追従するガルシエ爵には更に苛立ちが募った。
お前は絶対に引き摺り下ろしてやるからな、と再度心に誓う。こんな男の血縁にオーリが組み込まれるなんて、いっそ死んだ方がましだ。勿論死ぬのはガルシエ爵だ。
(絶対にこの男が「黒いローリエ」事件の首謀者だと立証して、豚箱にぶち込んでやる。万が一司法の無能のせいで罰を逃れようものなら、僕がこの手で念入りに殺す)
オーリが縁組に逆らわないと決めた理由は、「それがブランジュード家とシェパのためだから」という彼女自身の信念が故だ。
ガルシエ爵が売国奴だと判明した時点で、オーリの中で大人しくこの男の家と縁組する選択肢は失われた。となれば、その後ラトニがこの男をどう料理しようと、オーリの信念には抵触しない。
(ただし、バレさえしなければ、という注釈はつきますが……僕なら病死でも事故死でも好きに装えますし)
オーリはラトニを信頼している。ガルシエ爵が死んだ後、ラトニが何も知らない顔で驚いてみせれば、疑うこともしないだろう。そしてラトニは、愛する人相手にも嘘は必要だと割り切っている。
(尤も、後腐れがなくリスクも低いのは、やはり司法の手で裁かれる方だ。オーリさんとしても「正当な」幕引きを望むだろうと分かってはいますが……)
――散々煮湯を飲ませてくれた相手なのだから、できればこの手で殺してやりたいなぁ、とか。
存在すら知らない相手にポケットの中から虎視眈々と殺人計画を練られていることも知らず、ガルシエ爵はケトルからティーポットに湯を追加した。
薔薇の模様が描かれている美しい陶器のティーポットは、それ一つで一般市民の一家族が何ヶ月も生活できそうだ。湯の温度を保つためにケトルにも何かしらの仕掛けがしてあるのか、白い湯気が濛々と立ち上がった。
余程に気に入ったらしく、そこそこ厚みのあったショコラータをブランジュード侯が綺麗に平らげ、大皿に最後に残っていた一切れを所望する。
良ければ一本お土産に包みましょうか、というガルシエ爵の提案に、ブランジュード侯が満足そうに礼を述べた。
「いや、私もオーリリアも、甘い物には目がなくてね。妻もそうなのだが、最近また屋敷を留守にしているから、残念ながら味わう機会はなさそうだ」
「ブランジュード邸の料理人なら、レシピを再現できるでしょう。少々理由あって、完璧に再現というわけにはいかないでしょうが……」
「ふむ。……何なら料理人の方をくれれば、手間が省けるのだが」
「それは、お許しください。あれには色々と責任ある仕事も任せておりますので」
申し訳なさそうな苦笑で如才なく拒否するガルシエ爵に、ブランジュード侯は機嫌を損ねた風でもなく。
小さな銀のフォークでショコラータを切り取り、口に入れる。滑らかに練り上げられたチョコレートの舌触りに満足した様子で目を細めた。
「料理人……王都で見つけた人間だったね。どこかの店からスカウトを?」
「いえ、例の年末の騒動の際、仕えていた家が取り潰しになったとかで、就職先を探していたところを紹介されまして。菓子作りの腕も良い料理人だというので雇い入れたのですよ」
ついでに園芸に関しても知識がある、と付け加え、ガルシエ爵は紅茶を口にする。
ガルシエ爵のポケットの中で、ラトニはぱち、と小鳥の目を瞬いた。
年末の騒動、と言えば、思い当たるのは王都で発生した集団魔力欠乏事件だ。あれの解決にはオーリとラトニも関わった。
終結の際、関与を疑われて一部の人間が責任を追及されたと聞きはしたが、詳細を知らされることはなく、興味もなかったため、今回の話は寝耳に水である。
取り潰された家とやらがどんな立ち位置にあり、本当に関与があったのかは分からないが、「仕えていた料理人」がこのタイミングで流れてきたのは偶然か?
「――シェパの街は、南方領で最も栄えている街の一つだ。必然、多くの人間が流入し、流出する」
ラトニの思考に同意したように、ブランジュード侯が呟いた。
彼は、目を閉じてゆっくりと紅茶を味わっているように見える。すう、と香りを楽しみ、それまでと全く変わらないトーンで続けた。
「人の出入りには注意を払わなくてはならない。君も分かっていることだろうがね」
ガルシエ爵の顔が緊張に強張った。小さく震えた手が、無意識にカップをソーサーへと置く。かち、と硬い音がした。
「勿論です。あの料理人も、よくよく経歴を調べました。前の勤め先でこなしていた仕事からしても、間諜などにはなれるまいと」
「グレン君が戻ってきているそうだね」
ガルシエ爵の弁明を遮って告げられた言葉に、彼の声が止まった。
それが、ブランジュード侯の発言を待つ以外の理由のためだと、ラトニには容易に想像できた。
――君は勿論知っているだろうがね。
そんな意図を含めた問いかけに、ガルシエ爵は嘘をつけなかったようだった。
「……いえ。存じませんでした。その、失礼ですが、それは、確かに……?」
この状況下でブランジュード侯相手に疑義を呈することを甚だ不敬と理解しながらも、信じたくない気持ちが上回ったガルシエ爵は、次の瞬間、瞼の下から覗いた瞳に射抜かれて竦んだ。
オーリとは似ていない、焦げ茶色の双眸。決して怒りなど乗せていない穏やかなそれが、ただうっそりとガルシエ爵を眺めていた。
「残念ながら、事実だよ。グレン君は戻ってきた。このタイミングで、このシェパに」
「申し訳ありません。バーグマンからは、何も報告を受けておりませんでしたので」
「ふむ。それは、警備隊を完璧に掌握できているわけではないということかね?」
「滅相も! ただ、決して警備隊がシェパ全域を網羅できるわけではないことをご考慮頂ければと……!」
「……まあ、それもそうかね。それができているなら、先日の火事騒動はとうに蹴りがついているはずだ」
弁解に同意されると同時に、以前の失態を改めて突きつけられて、ガルシエ爵が言葉に詰まった。
焼失した倉庫の中身についてブランジュード侯が知っているのかは分からないが、自身の所有する物件を燃やされ、その下手人が未だに見つかっていないだけでも、充分ガルシエ爵の面子は潰れている。
バーグマンというのは、恐らくガルシエ爵が警備隊に忍ばせている部下だろう。警備隊は、街の出入りから治安維持まで、シェパの内情に広範囲で関わっている。
グレンの方はよく分からないが、彼らにとって都合の悪い人間だということだけは間違いないだろう。
「ガルシエ卿。私の耳目になってくれる者は、君が思っているより幾分か多いよ」
ブランジュード侯は笑っていた。唇だけで和やかに。
穏やかそうな目だけが、ちっとも笑っていなかった。
ガルシエ爵の顔から、じわじわと血の気が引いていく。青白い頬を、冷たい汗が伝って落ちた。
「グレン君が戻ってきたことは、百歩譲って置いておいてもいい。
問題は、いつから、だ。もしも長期間シェパ近郊に留まっているのなら、『気付いて』いる可能性がある」
はい、とガルシエ爵が掠れた声を絞り出す。
「――ところでガルシエ卿、女の子が当主としてそこそこ大きな家を継ぐには、どの程度の学があれば良いと思う?」
「は――は?」
(はぁ?)
唐突に変わった話題に、ガルシエ爵の声が滑った。
もう完全に振り回されている。聞いているだけのラトニですら話題の転換についていけないのだから、真っ向から会話に応じなければならないガルシエ爵はどれだけ混乱しているだろうか。
「まずは学院だね。元々年頃になったら入学させるつもりだったが、選択する講義には少々口出しをせねばならないか。最初は必要最低限の学科を取れば、あの子の興味に任せれば良いと思っていたが、次期当主となるとそうもいくまい」
問いかけておいてガルシエ爵の返答は必要としていなかったらしく、ブランジュード侯はにこやかに続ける。
まるで、娘の将来を心底案じる優しい父親であるかの如く、これまでの経緯とは明らかに矛盾する未来像を描いていく。
「何なら、どこかの家に実務の補助にやっても良い。我が家で私の仕事を見せても良いが、それより女性当主が立っている家にやる方が良いだろう。数は少ないが、そういった家は我が国にも幾つもある。
ああ、本人が望むのなら外国に留学させるのも良いな。他国との貿易も盛んだし、特にうちの領は新ルシャリとの距離が近い。当主となれば必然、国際交流の機会も増えるだろう」
楽しげに紡がれる言葉に、ガルシエ爵は最早言葉もないようだった。
瀕死の魚のように口を開閉させるばかりのガルシエ爵に、ブランジュード侯は笑いかけた。一片の悪意も見えない、人のいい笑顔だった。
「先程言ったね。オーリリアにはそこそこの学があれば、煩いことは言わないつもりだったと」
――過去形だったのだ、とラトニは思った。
「君には期待していたんだよ。八年前に見せてくれた手際、思い切り、狡猾さ、そして私に対する忠誠心。だがほら、大切な一人娘が関わるとなると、私としても色々と考えることがあるわけでね」
なにしろ換えが効かないもので、という副音声が聞こえた気がした。
「今、あの子をどこに据えるか、私はとても迷っている。
よくよく考えてみると、何だか、外に出すのは惜しいように思えてきてね。
あの子の産む子供に期待するか、或いはあの子自身に期待するか……慎重に、慎重に見極めないといけない」
凍りついた顔で引きつった呼吸音を立てるばかりのガルシエ爵に、ブランジュード侯は穏やかに告げた。
「頑張ってくれ、ガルシエ卿。私の可愛い一人娘に、相応しい結納品を贈ってくれることを願っている」