16:いつか来るべき日は遠く
森の中を走る街道を、大きな馬車が進んでいた。
馬車と言っても、繋がれているのは馬ではない。青銅色の羽を持つ、二羽の大型の鳥だ。
ロックダルという名の飛べない鳥は、爬虫類のそれに似た三本の脚が特徴の魔獣である。気性が荒く調教は難しいが、馬より力があり険しい岩山でも踏破するため、よく訓練を受けたものは貴人の乗り物としても重宝されていた。
その馬車の中に、現在あるのは複数の人影。進路を王都に据えて、今朝方シェパの街を出てきた、領主一家の馬車だった。
彼らの主な目的は、王都にある大神殿である。もうすぐ誕生日を迎える一人娘に、八歳の祝福を与えてもらいに行くのだ。
(そう言えば、領地の外に――と言うか、屋敷から堂々と出るのって、これが初めてだったっけ)
窓の外を流れていく景色を興味深げに眺めながら。
大人しく座席に身を預けた少女――オーリは、ふかふかのクッションを胸に抱え込んだ。
オーリが住まうフヴィシュナには、子供が八歳になった時、神殿で祝福を授けてもらうという習慣がある。天地を創造した十二の神々から、神官を通して八個の祝福を与えられるそうだ。
勿論、今回のオーリのようにわざわざ王都の大神殿まで出向くことは稀である。神殿すら無い小さな町や農村等に住む民のほとんどは、年に数回巡回してくる神官が訪れた折り、その年八歳になる他の子供たちと纏めて祝福を受けておくし、貴族でも中級以下の家なら、自分たちの住んでいる街の神殿をそのまま利用することが多い。
余談だが、神が十二柱いて何故祝福は八個なのかと言うと、神々のうち八人が番とされていることに由来する。番の二人を一組として、四組の番と四人の独身神で、計八組。独身神の中には縁切りの伝承がある神がいたりして、妙な人間臭さを感じて可笑しくなったものだ。
先日、家の都合で遠出をすると伝えた時のラトニの顔を思い出すと、オーリはちょっと背中が寒くなった。あの時のラトニは、一瞬死んだ魚のようにハイライトの消えた目をしていたから。
(これは帰ったらご機嫌取りが大変だろうな……)
ラトニと出会って約半年、屋敷にいない時は常に彼と共にいたから、何となく隣の空間が寂しいような気もする。
土産で機嫌を直せたら良いのだが、物欲の薄いラトニではそれも難しいだろう。物凄く胡乱な眼差しで、某携帯獣の「くろいまなざし」が使えたならば使っていたに違いないと思える目付きでじいっと見てきたラトニは、最後まで口に出しては何も言わなかった。何一つ言葉にされないというのが、想像以上の恐怖を煽るものらしいとオーリは初めて知った。
けれどそんなことを思いながら、今生初の遠出に、やっぱり好奇心を刺激されているのも確かなことで。
家が上級貴族でなければ今回の遠出はなかったのだろうと思いつつ、初めて行く王都に彼女は心なしか浮足立っていた。
秋も終わりが近付いて、山の木々は色を落としたものも多い。
オーリは初冬の生まれだから、誕生日は王都で迎えることになるだろう。彼女は八歳になり、自分が死んだ時の年齢にまた一つ近付くことになる。
――七歳までは、神のうち。
どこの世界でも似たような習慣はあるものだと、ガタガタ鳴る馬車に身を揺らしながら、オーリはふと考えた。
現代日本では、「通りゃんせ」等を例に挙げれば分かりやすいだろう。一説によればあの童謡は、神の元から人間の子供になるにあたり、神に了承を得るためのお参りについて歌っているという。
この世界も昔の日本と同様に、幼い子供が健康に育ちにくい場所だ。このような符合を見つけるたびに、オーリは懐かしいような息苦しいような、奇妙な気分に襲われた。
「――お嬢様、宜しければこちらをどうぞ」
オーリが黙り込んでいたからだろう。揺れが静かになったのを見計らい、傍らに座っていたアーシャが、細長いガラス瓶から薄黄色の液体を注いでオーリに渡してきた。
どうやら乗り物酔いを起こしたとでも思われたらしい。冷えたそれを有り難く受け取って、オーリはカップに口を付けた。
向かいの座席にいた中年の男が眉を下げ、人が良さそうな顔で笑った。
「おお、そう言えばオーリリアは馬車は初めてだったね。具合が悪くなったら言うのだよ、すぐに馬車を止めさせよう」
「はい、お父様。でも、もうすぐ次の村でしょう? そこまで我慢できます」
即座に思考を切り替えて、にこー、と愛らしく笑ってみせたオーリに、今世での父親――オルドゥル・フォン・ブランジュードは、満足そうに頷いた。
オルドゥルは、ふっさりした茶髪とちょび髭の男だ。今年四十歳になったはずの彼は、一見小太りで気の良いおじさんだが、身に着けているものは質・値段共に一級品のものばかりである。
こんな格好で出歩いていたら、即座に強盗の餌食だろうな、と余計な心配をしながら、オーリはもう一人の人間の方に視線を向けた。
「お母様、お母様もポウのジュースは如何ですか? 今年の初物だそうです」
「いいえ、ありがとう。わたくしは遠慮しておきますわ」
無邪気(を装った)なオーリの言葉に、オルドゥルの隣に座っていた美女が、一瞬衣装に目を落として淡々と答えた。
オレンジがかった金髪を持つ彼女の名をレクサーヌといい、こちらはオーリの実母に当たる。前世ならモデルにもなれそうな、すらりと背筋の伸びた美女であるため、やや背の低い夫と並ぶと余計に身長が際立って見えるのが複雑なところだ。
無感動ながら美しい声に、多分服を汚すことを厭うたのだろうと思いながら、オーリは「そうですか」と大人しく引き下がった。
ニコニコしながら汚職の書類にサインが出来る父も読みにくいが、淡々としてあまり表情を動かさない母の方は父に輪をかけて対応が難しい。何せオーリは生まれて七年、未だに生母の笑顔を見たことがないのだから。
(母上様にも、別に疎まれてるって感じじゃないんだけど。やっぱりあんまり関心があるようには見えないんだよなぁ……)
シェパの街を出てまだ一日も経っていない。
お世辞にも居心地が良いとは言えない空気に溜め息を押し殺しながら、オーリは努めて呑気な笑顔を作った。甲斐甲斐しく気を遣ってくれるアーシャが唯一の清涼剤である。
――あー、顔が攣りそう。
次の村に到着するまで、まだまだ時間がかかる。村の話に想いを馳せて、オーリは顔をぐにぐに揉みたい気持ちを抑え付けた。
アーシャに聞いた話によれば、どうやら次の村は馬やロックダルを育てていることで有名らしい。貴族のように自分の馬車を持っていない旅人や移動客は、そこで馬車を雇うことが多いそうだ。
車も鉄道もないからこそ、栄える村もある。ロックダルは意外と愛嬌のある顔をしているので、牧場があるなら是非近くで見てみたいものだ。
「そう言えばオーリリア、もうすぐお前の誕生日だが、何か欲しいものはあるかな」
思い出したように聞いてきた父に、オーリは考え込む振りをしてみせ、それから困ったように首を傾けた。
思い付かないのはいつものぶりっこではなく、常日頃から強請れば大抵のものは与えられるためである。新しい絵本もぬいぐるみも、取り立てて欲しがるほどのものではない。
そこにどんな感情があるにせよ、オーリの両親はオーリに関して金をけちったことは一度もなかった。
物品然り、教育然り。惜しみなく投資してくれる存在がいるのは有難い話である。出来ればその一部を領地に回してくれればもっと良い。
一瞬「お小遣い」という単語も浮かんだが、誕生日のプレゼントに現金を強請る七歳児というのはどうなのかと思ったので諦めた。
「何だ、思い付かないのかい。本というのは……この前も贈ったばかりだったね。ならば綺麗な装飾品でも……」
オルドゥルもまた、娘の反応に些か悩んでいるようだった。日頃本くらいしか欲しがらないオーリに、何を与えれば良いのか分からないらしい。
「お父様、じゃあ私、王都で珍しいお菓子が食べたいです!」
ぶつぶつ独りごちている父に任せて本気で高価な宝石でも贈られたら困ると思ったオーリは、慌てて明るい声で口を挟んだ。
勿論、オーリだって人並みに宝石は好きだ。真っ赤なルビーも艶やかだけれど、複雑なカットを施されたダイヤモンドも美しいと思う。涙のような真珠も好きだし、最古の植物宝石である琥珀にもロマンを感じる(あと、夜逃げする時の手軽な資金にもなる)。
けれど、デビュタントもまだの年齢からそんなものを持っていても仕方ないだろう。売れば大金にはなるだろうが、領民の血税で購入したものを売り払って娯楽に投じることはできなかった。
「今、シェパではマフィンってお菓子が流行ってるでしょう? きっと王都に行けば、もっと珍しいお菓子があるよ! ね、アーシャ」
「はい、お嬢様。王都は国の中心地ですし、何より王族のおわす土地ですもの。珍しいお菓子も果物も、きっとどこより集まっておりますわ」
「菓子か。しかしそれだけでは何だな……そうだオーリリア、ならば新しいドレスを作ってあげようか。それを着せて、少し早いがあれに同行させれば良い。構わないだろうレクサーヌ」
「ええ、良いと思いますわ。オーリリアはマナーの成績も良いと聞いておりますから」
淡々と言葉を返すレクサーヌは、相変わらず話に興味がなさそうだった。窓の外に視線を固定し、感情の薄い双眸で時折瞬きをするくらいだ。
オルドゥルは妻の態度にも慣れた様子で、ドレスをどこに注文しようかと早速思考を巡らせ始めたらしい。両親がそれぞれ自分の思考に戻ったのを確認して、オーリはそっとアーシャにカップを返した。
窓の外を見れば、馬車の傍をロックダルで駆ける護衛たちの姿がちらちら見える。もう少し速度を上げて欲しいと頼もうかと思ったが、ロックダルにかかる負担を考えてやめた。
退屈な馬車旅だから暇潰しに会話をしてくれただけで、オルドゥルの方もいざ王都に着けば、またどこかを渡り歩いて帰らないようになるのだろう。別邸では相変わらず一人の生活が待っているのだろうな、とオーリは何となく思った。
――いつもニコニコしているオルドゥルの目が、時折レクサーヌと同じくらいの無感情を湛えて淀むことを、オーリは知っていた。
例えば彼らのその目が愛人の前でどう瞬くのかなど、オーリには分からない。けれど、こんな家庭に生まれた以上、自分が早々に前世の記憶を取り戻したことは何よりの幸運だったのだろうとオーリは思っている。
だってそうだろう。さもなければ、この世に生まれ出でたまっさらな子供は、どんな風に成長していたことか。
例えば両親の望むまま、何一つ疑問に思わず木偶人形と育ったか。
或いは見る見る思想と価値観を染め上げられ、今のオーリが殊更嫌う『貴族らしい貴族』と化したのか。
更には、何も分からないまま流れに流されてデッドエンドを迎えた可能性も非常に大きい。革命→下剋上→断頭台(←イマココ!)などということになったなら、流石のオーリも開き直れないだろう。
――かつて日本で生きていた頃、オーリの――鷺原桜璃の両親は、今の両親とは比べ物にならないほど平凡な人達だった。
会社勤めの父親は酒が苦手で、飲み会のたびに顔を真っ赤にして帰ってきた。在宅ワークをしていた母親は、室内で飼える利口な小型犬を欲しがっていた。
人間、何か一つは楽器が出来た方が良いからと、両親は一番近くに教室があったピアノを、一人娘に習わせた。小学校に入る前から始めたそれは中学で部活が忙しくなったのを契機に辞めて、親戚から譲られたスタンドピアノは、月に二度開けられれば良い方になった。
新聞のスクラップが趣味だった父は、時々母が読む前に記事を切り取ってしまって喧嘩になった。桜璃も新聞は毎日読む方だったし、学校の課題に新聞が必要になった時には少し困った。
料理が好きだった母は、ルゥから作るカレーより自家製のタイカレーを好む人だった。香辛料を利かせたタイカレーより箱入りルゥのカレーが好きだった桜璃は、時々駄々を捏ねて好みのカレーを作ってもらった。
二時間ドラマになるような特別なストーリーなんて何一つない両親の出会いも、生い立ちも、至極平均的な顔立ちも、一人娘にかける手間も、突出したものなんて何一つ持ってはいない人達だった。けれど、「満たされない」なんて娘に思わせたことも、やっぱり一度もない人達だった。
家計に合わせて桜璃の高校は公立になったけれど、教科書や部活の費用で渋られたことなど一度もなかった。誰かの誕生日には、誰かが丸いケーキを焼いた。成績が下がれば叱られて、上がれば小遣いも一緒に上がった。朝と夜の食事に、家族が揃わない方が珍しかった。
普通だった。ありふれていた。けれど、確かにオーリを愛してくれた人達だった。
真っ直ぐに。当たり前のように。欠け得ない日常の一つとして、血の繋がった家族として、守ってくれた人達だった。
記憶を保持したままでの、異世界への転生。家庭環境に領地の内情に将来への不安。真っ当な愛情からはかけ離れた、新たな家族。
けれど、度重なる異常にもオーリの精神が変わらず均衡を保ち、『桜璃』と『オーリ』を上手く噛み合わせて生きていけるのは、普通に、平凡に、けれど確かに愛された記憶があるからかも知れないと、彼女はひっそり考えている。
――自分は、最後まで『ブランジュード』の家族で在れるのだろうか。
日本にいた時は思い付きもしなかったような疑問が、オーリの中にはいつだって、ふつりふつりと泡のように揺蕩っている。
オーリは、今の両親を愛せない。愛してくれない相手を「親だから」という理由で無条件に愛せるほど、オーリは幼くも孤独でもないからだ。
それでもオーリは、自分を産み、笑いかけ、会話をし、何の不自由もなく生かしてくれる今の両親に、彼女なりの情があることを信じている。
心の中で、クソ親父、なんぞと呼んでいても。
困った気持ちで、対応し辛い母上だなぁ、などと思っていても。
それは愛情ではないかも知れないが、限りなく愛情に近いものではあるのだろう。当の両親の方からもまた、オーリに愛ではない何らかの情を向けているのと同じように。
――けれど。
それはきっと、いつか天秤に掛けられてしまう程度のものなのだ。
自分が今の両親を全力で愛することが出来ないように、今の両親もまた、オーリを絶対の位置に置いてくれてはいないだろう。
かつて桜璃が死んだその時、桜璃の両親は泣いてくれたと信じている。
なのにオーリは、今の自分が死んだその時、オーリの両親が泣いてくれると信じることが出来なかった。
オーリには、守りたいものが複数ある。
それは大切な相方だったり、自分を生かしてくれる領地の民だったり、自分の芯となる前世の価値観だったりする。
けれど、いつかオーリが己の信念と価値観に従い、守るべきものを守ったその時に――己が行うべきと定めた全てを果たしたその時に、ブランジュードの両親が健在でいる確率は、一体どれほど高いのだろうか。
両親に愛されないことよりも、切り捨てられることよりも。
自分がその手で生みの親に害為す選択をすることが。両親の骸の傍らで、涙も流してやれない自分に気付くことが。
かつてただの平凡な娘であったオーリリアは、きっと何より恐ろしい。
※くろいまなざし:敵を逃げられなくする技。
オーリは対外的には上品に「お父様」「お母様」と呼ぶけど、内心ではちょっと砕けて「父上様」とか「母上様」とか呼んでる。
でも砕けてはいても心の距離は開きまくっているので、「お父さん」「お母さん」とは呼べない。きっとずっと呼べない。