154:情報が繋がる
――結果を一言で言おう。
真っ黒だった。
奥行きのある金庫の中にあったのは、重要書類の束、束、束。
魔力生命体ゆえに光源を必要としない小鳥の眼で、ラトニは次々と書類を確認していく。
手紙の類いは、一般に使用される共通語ではなく、外国語で書かれたものが多いため、早々に分析を諦める。
様々な薬草や木の実が描かれた書類があり、中には薬草オーリがブランジュード邸で写してきたメモ書きと同じ薬草が交じっていた。
几帳面に折り畳まれた紙にずらりと書かれた人名はほとんどラトニの知らないものばかりだったが、斜線で消された名前がいくつかある。
「黒いローリエ」の扱い方の資料――これは加える材料や使用量によっても効力が違うようだ。ガルシエ爵自身実験を繰り返していたようで、清書のされていない雑多なメモ書きが残っている。
(……それとこれは、『浮島』のものではない薬草の、国内外での取引記録ですか。これも「黒いローリエ」に使う材料の一つみたいですね)
この薬草については、オーリと共に薬師のジョルジオから習ったことがある。シェパにも生育する水生の薬草で、診療所にもほんの少量置いてある。
(幻覚作用や依存性が強く、僕らのような半人前の薬師見習いは、扱うことさえ許されていない代物だ。輸出規制がされていると聞いていたのに、これほどの量がシェパから流出している――警備隊が違法に関わっていますね)
流石に、直接的に癒着している相手の名前を記してはいないが、これまでの情報から充分推測が可能だ。
暗闇の中で鋭く輝く目を細め、ラトニは静かに思考を巡らせる。
(元々『浮島』はルシャリ公国の領土だった。しかし、その管理権を得ていたのは、当時ルシャリ公国を支配していたザレフ帝国――恐らく、この頃から既にザレフは、『浮島』から採取した薬草で「黒いローリエ」を作っていたのでは?)
「黒いローリエ」は、一度に大量に摂取すれば急速に心臓に負荷をかけて死に至らせるが、レシピを少し変更し、少量ずつ継続的に投与するやり方もあるらしい。
資料から推測する限り、この薬には重度の依存性があるようだった。
(流石、禁制品指定されるだけのことはありますね。厄介な)
適量を使えば人を救い、適量を越えれば人を壊す。そんな薬は扱いに細心の注意が必要で、けれど時に知識すらない者たちが気狂いのように求める代物。
(軍備と食糧確保に国費を傾けるザレフにとって、「黒いローリエ」は優秀な財源であったはず。けれど三十年前、王国フヴィシュナとの戦争を機に『浮島』を失い、更には最近になってルシャリ公国が「新ルシャリ公国」として独立してしまった。財源を取り戻せる目処が立たなくなったザレフは、さぞかし焦ったことでしょうね)
幸いだったのは『浮島』の薬草がフヴィシュナの環境でも生育できたことだろう。
恐らくその時点で、ザレフは考えたのだ――早急に『浮島』を取り戻すのではなく、『浮島』が戻ってくるまでの三十年間、自分たちの代わりに「黒いローリエ」を作ってくれる内通者を作ることを。
「黒いローリエ」はザレフ内で開発され、ザレフ国内で禁制品指定を受けた薬である。
仮に、製作を禁じた陣営を禁止派、隠れて製作を続行している陣営を継続派と定義しよう。
禁止派は「黒いローリエ」が国内に拡散した場合のリスクを重視し、継続派は「黒いローリエ」によって得られる利益を重視した。
真っ二つに割れた意見の肝は、恐らく「軍費」である。戦争にかける金を「黒いローリエ」で稼ぎ出したい継続派、対して戦争と植民地に頼る国家経営そのものを転換し、軍費を削る方針を打ち出したのが禁止派である――即ちこの「禁止派」と「継続派」は、そのまま戦争に関する「非戦派」と「開戦派」に言い換えることができるのだ。
事実としてここ数年の間に、軍事国家としてのザレフ帝国は急速に力を失っている。ルシャリ公国やロズティーグ王国など、相次ぐ属国の独立が、その噂に拍車をかけていた。
三十年前、ザレフがフヴィシュナに破れて『浮島』まで失ったことを契機に、ザレフで非戦派の発言力が強くなったと考えるなら、「黒いローリエ」、ひいては『浮島』の入手は、開戦派側には状況をひっくり返す絶好の手札である。
その際、仮想敵国であるフヴィシュナに内通者を作っておけるなら、なおのこと得られる利益は大きい。
(摘発される危険を冒してザレフ国内で禁制品を製作するより、国外で他国の権力者に作らせて輸入した方が、コストはかかるがリスクは低い。
ザレフは、利益に転んでくれそうなフヴィシュナ国内の権力者を選択し、「黒いローリエ」の備蓄を密かに流し始めた――野心ある連中にその薬の効果を知らしめ、得られる利益の大きさを吹き込むために)
以前、オーリが言っていた。
麻薬、毒殺。薬を使った犯罪は、一度嵌まると果てがない。品にもよるが、グラム単価は金銀などより余程高値が付き、莫大な財を得て一大流通ルートを築き上げる例もあるのだと。
よく効く劇薬を手に入れた者は、もっともっととそれを欲しがる。用いた先にある黄金の未来を夢見て。
そうして一度味を占めたなら、もう手放すことはできない。ずぶずぶと沼に浸かり、仮令ひと時正気に戻ったとて、最早逃れるすべはない。
使い続けたそれの便利さを、よくよく知っているが故に。
怯懦に負けて逃げ出した道の先、自分の与り知らぬ所でそれを手に入れた誰かの手で、それが自分に盛られることが恐ろしい。
(そんなものをフヴィシュナに流入させたザレフも、我が身可愛さで便利に使ったどこかの誰かも、ふざけた真似をしてくれたとしか思えない。万が一当時の犠牲者にオーリさんの両親が入っていたなら、オーリさんがこの世に生まれていなかったかも知れないんですから)
彼女の家――ブランジュード侯爵家は、命を狙われるに値する権力と血筋を有している。
そうならなかったのは運か、はたまたブランジュード侯爵自身が内通に関与していたか――いずれにせよ、この起こりかけた大事件は表沙汰になる前に記録から抹消された。
その立役者となったのが――
(八年前に放逐された、シェパ警備隊、先代総隊長)
当時何があったのか、詳しいことは知らない。確かなことは当時、「黒いローリエ」の大規模拡散が水際で食い止められたことだけ。
八年前、先代総隊長は、どうやってか「黒いローリエ」の危険性とフヴィシュナ流入を察知した。事態の打開に駆けずり回った結果、最終的に「黒いローリエ」をフヴィシュナ国内でも禁制品指定することに成功し――その代償として何らかの不始末を押し付けられる形で馘首され、シェパの街を去ったのだ。
信頼する右腕、総副隊長イアン・ヴィーガッツァに、僅かな情報を託して。
(イアンさんがあれほど先代を慕う理由が分かりました。これほどの大事件に一時とは言え幕を引いたのなら、盲目的になるのも分かる)
同時に、尊崇して止まない上司を失う引き金になった事件が再発したとなれば、犯人への憎悪は並ならぬものがあるだろう。
いつもは部下たちを守るため、努めて現総隊長を怒らせないような振る舞いに徹しているイアンが、今回は現総隊長に睨まれても、捜査を控える様子がない。
かつての上司に託された「街を守る役目」と、上司の仇を討ちたい思いが、イアンの中で天秤にかけられているとしたら――
(この一件、イアンさんは首を賭けていると考えて良いですね。
ガルシエ爵が八年前、どうやって司法の手を逃れたのかは分かりませんが、今や奴は「黒いローリエ」を改良し、研究を重ねて自分の政敵の暗殺にも使い始めている。八年前は総隊長の馘首で済みましたが、今回また同じように警備隊の人間が事件を食い止めようとしているとなれば、ガルシエ爵が何を考えるかは想像に難くない。
今まだイアンさんが目をつけられていないのは、八年前にはなかった駒――現総隊長がガルシエ爵に内通して、警備隊を掌握していると思われているからでしょう)
獅子身中の虫である現総隊長の存在が、同時にイアンの命を守っているとは皮肉なことだ。あの鬱陶しい男がトップに立っている限り、警備隊はガルシエ爵の障害にはなれない。
加えて上級貴族出の現総隊長は、遥かに劣る生まれのイアンを侮っている。それは無意識下にイアンの能力を低く見積もることに繋がり、翻って「鬱陶しい小虫ではあるが、こいつ程度どうせ何もできやしない」と高をくくるに至ったのだ。
尤もそうでもなければ、イアンの名はさっさとガルシエ爵に報告を挙げられ、「任務中のミス」か「黒いローリエ」で暗殺されていたかも知れない。
イアンの助力なくオーリとラトニがここまで事件に食い込めたかと問われれば、それは間違いなく否だ。
街を去った総隊長からイアン、そしてオーリたちへ。霞のように微かな情報の端切れを、繋いで繋いで、自分たちはここまで辿り着いた。
――ようやく、事件の全貌を掴んだ。
ガルシエ邸から遠く離れた孤児院の自室で、粗末なベッドに胡座をかいていたラトニは腹の中の空気を全て押し出すような深い溜息を吐いた。
ザレフ帝国の領土では薬草生育に必要な環境を保てない『浮島』は、ザレフに持っていくだけでは意味がない。
ザレフにとって必要なのは『浮島』本体と、『浮島』を設置する新ルシャリ公国の領土――しかし、当のルシャリは既に独立し、焦りに焦ってルシャリの公王一族を殺し尽くせば、今度は抑え手を失ったエンジェ大樹海の侵蝕という問題が浮上する。
三十年経てば取り戻せると思っていた薬草がいよいよ手に戻らなくなり、慌てたザレフの開戦派に、ガルシエ爵が付け入った。
『浮島』をザレフ帝国にくれてやれば、ザレフは国外に設置場所を探さなければならないが、所有権を取り戻せるだけ心証が良くなる。
このままフヴィシュナが所有と管理を続行するなら、『浮島』の管理権を持つブランジュード侯爵と強力なコネ――それはつまり、クソ忌々しいが一人娘との婚約という縁のことだ――があるガルシエ爵が直接管理を任される可能性が高い。そうすれば引き続き、金と「黒いローリエ」を手に入れられる。
(――これで決定だ)
込み上げる殺意に歯軋りしながら、しかしラトニは術人形の向こう側で口の端を吊り上げる。
うっすら細めた琥珀色の目をぎらつかせ、白い犬歯を覗かせた笑みは、腹の底でぐつぐつ煮込んだ狂気と鬱屈をどろりと滲み出させていた。
オーリは婚約に関して、それがシェパの利益になる限り逃れるつもりはないと言っていた。
しかし見てみろ、ガルシエ爵は他国の悪意と内通する裏切り者で、シェパどころかフヴィシュナ中に危険な薬をばら撒こうとしている売国奴ときた。
先程見た、ずらりと人名の並んだ紙――あれは恐らく、暗殺対象候補だ。
斜線の引かれた人名に、一つだけ覚えのあるものがあった。上級貴族の一角であったその名前を、ラトニはつい最近、不審死事件の被害者として聞いている。
今はガルシエ爵の利益だけで選ばれている標的は、いずれもっと「黒いローリエ」が拡散すれば、指数関数的にその数を増やすだろう。
暗殺と、中毒。政敵を消し、権力の階段を駆け上がりたい者は、貴族にも商人にも冒険者にもいる。彼らはこぞって金を積み、便利な毒薬を求めるだろう。
――そんなことになったら、国の治安は致命的なダメージを受ける。
ガルシエ爵やその仲間は毒薬を供給し続ける限り守られるだろうが、それ以外の、真っ正直に生きている人々ほど命の危険に晒される。
危険思想を持つ人間が相対的に急増し、事は最早、オーリたちやイアンどころか、国王の手にすら負えなくなる。
仮令それでオーリが事態の打開を完全に諦め、最後の手段である「国から逃げる」を選択してくれたとしても、「黒いローリエ」がばら撒かれている限り、どこに逃げようとも危険性としては同じこと――いや、貴族としての後ろ盾を失う分、リスクは増すかも知れない。
一度成立してしまった「麻薬カルテル」の恐ろしさを、ラトニは他愛ない世間話のように語るオーリの可愛らしい口から聞いている。
婚約に際するシェパの利益は、これで完全に失われた。
オーリが恐れてサラから手を引いた「内政干渉」のリスクにも、それを無視する合法的な理由ができた。
これならオーリが手を出せる。フヴィシュナの人間が、他国の手を借りて明らかにフヴィシュナの国益を侵す行動をとっている場合、それを止めることは罪には当たらない。
――証拠の書類を持ち帰れないのが惜しいな。
もっと術人形の完成度を上げるべきだったと舌打ちしながら、小鳥の姿をしたラトニは、再び金庫の扉をすり抜けて、部屋の中へと舞い戻った。
さて、どうやってオーリを探そうか。考えているうちにガルシエ爵につけたマーキングの気配が近付いてきて、カーテンの後ろに隠れると同時にけたたましくドアが開かれた。
「――ギルファギリム!!」
反動で閉じたドアに背を向け、ずかずかと部屋の中央まで歩きながら、ガルシエ爵が苛立ちに満ちた呼び声を上げる。
数拍置いて、「へーいへい」とやる気のなさそうな声。音もなく部屋の隅に出現したギルファギリムが、ガルシエ爵にギッと睨まれて引きつり顔で両手を挙げた。
「落ち着いてくださいよ、もー……悪ィけど、侵入者はまだ見つかってないんでー」
「何をモタクサしている!? 侵入者を許したばかりか、捕縛すらできないのか!? 一体貴様にいくら払っていると思っているんだ!」
「まあまあ、まだ館内にはいるっぽいからセーフっすよ。侵入経路洗って張っときますから」
「悠長なことを……何を聞かれたか分からないんだぞ! どこの手の者か、何としても容姿と所属を確認しろ! 館から逃げられたらどう責任を取るつもりだ……!」
ヒートアップするガルシエ爵の言葉を聞きながら、ラトニはひっそりと安堵していた。
幸い、オーリの方も捕捉されることなく逃げているらしい。
通常の間諜の侵入経路など洗ったところで、オーリは玄関から入ってきて玄関から出ていけばいいのだから、ギルファとは顔を合わせることなく撤退できる。
わざわざこの部屋まで戻ってきてからギルファを呼んだところを見ると、もしやギルファと即座に連絡が取れるのはこの部屋だけなのだろうか?
部屋が汚れているのはカモフラージュのためだけではなく、重要な機能を全て一室に集めた結果、掃除人すら入れられなくなってしまったのかも知れない。
「先程例の部屋の罠が発動した感触があったようだが、そっちは確認したのか?」
「あー、はい、大丈夫っすよ。あの部屋に侵入者が入ってないか見に行った時、うっかり発動させちまっただけなんで」
「くだらんミスばかり増やすな」
「きょーしゅくでーす」
人差し指で頰を掻き、へらっと笑って嘯くギルファに、ガルシエ爵のこめかみに青筋が浮かぶのがラトニからも見えた。
ギルファは雇い主に媚びるタイプではなさそうだと思っていたが、やはり問題児らしく、ガルシエ爵も扱いには苦慮しているらしい――いいぞもっとやれ。胃に穴開ける勢いで。
「それより別件の報告ですがね。――東の方で『雪』が観測されましたよ」
ふっと真顔になってそう告げたギルファに、ガルシエ爵が硬直した。
「……雪? 待て、まさかそれは――」
「あともう一つ、悪いお知らせが」
「今度は何だ!?」
問いただす暇もなく次の報告を放り投げられて、ガルシエ爵が絶叫した。
「いや、そっちはもうすぐ来ると思うんでー」
言い残してシュタッと消えたギルファに、ぽつんと取り残されたガルシエ爵が拳を握り締めてぶるぶる震える。ラトニにとっては意味の分からない『雪』という単語と、何の躊躇もなく言い逃げされた怒りに、血圧が爆上がりしているようだった。
ウケる、という言葉がラトニの頭に何となく浮かんだ。オーリに教わってから使う機会のなかった言葉だが、今ガルシエ爵の背中を見ていると、その言葉の使い方が分かってくるような気がした。
この状況、めっちゃウケる。
――コンコン。
噴火寸前の火山の如き静寂と、カーテンの陰でプククと頰を膨らませるラトニだけが存在する部屋に、控えめなノックの音が響き渡る。
「――――何だっっっ!!!!」
ありったけの憤怒と苛立ちを叩き込んで返した声に、気の毒なタイミングでやってきた誰かは、ドアの外でビクッと怯んだようだった。
応えはあってもドアを開けることは許されていないのか、数秒躊躇ってからおずおずと声をかけてくる。
「お取り込み中のところ、まことに申し訳ございません。オルドゥル・フォン・ブランジュード侯爵様が、ファルムルカ公爵のご令嬢を伴って、もうすぐこちらに参られるそうです」
――ほんの一瞬。
ガルシエ爵が白目を剥いたのが、ラトニには確かに見えた。
「………………っっっどうしてそんなことになったあぁぁぁあぁぁぁぁぁっっっ!!!?」
頭を抱えたガルシエ爵の絶叫が、狭い部屋の中に響き渡った。