153:悪即斬を望めども
「――はぶぎゃんっ――ぎゅっ、ぎゃふん!」
本日二度目の転移は、一度目よりかなりハードだった。
眩んだ視界がぐるりと反転した次の瞬間、映ったのはどこかの天井。
虚空に放り出されたオーリはそのまま何の支えもなく床に落とされる――のではなく、聳える壁に背中をぶつけたのち猛烈に前方へ跳ね飛ばされた。普通ならありえないほど、と言うか悪意を疑う勢いで、卓球ラケットにぶっ叩かれたピンポン球のように弾け飛んで頭から壁に激突し、ズダゴゴゴンと盛大に床を転げ回る。
しこたま頭と体を打ち付け、脳味噌をこれでもかとシェイクされる容赦のない所業である。散々転がってようやく落下エネルギーを消費しきったオーリは、しばし白目を剥いて床に突っ伏し、尺取虫のように臀部だけ突き上げた姿勢でぴくぴくと痙攣した。
痛い。素直に痛い。
「――うう……い、一体何が……」
常人であれば粉砕骨折間違いなしの仕打ちに、しかしドン引きものの頑丈さと名高いオーリの体は今回も耐え抜いてくれたらしかった。
涙目になるほど痛いが、打ち身以上の怪我はない。ぐらぐらする視界を何とか宥め、オーリはのろのろと身を起こしにかかる。
ギルファから逃れるために、再びクチバシが転移を使ったのだろう。見回したそこは、無人の部屋だった。
オーリがガルシエ爵に通された応接間よりは狭い。しかし先程忍び込んだ物置のような部屋よりは広く、小綺麗に掃除もされている。
見れば、左の壁側には重そうな本を詰められた本棚があり、その隣に花の入っていない空っぽの花瓶がぽつんと置かれていた。
更に金ぴかの額縁に入った大きな絵画が飾られていて、先程の震動が伝わったせいか、やや不安定にずれている。
その反対、右の壁の半分を覆うのは、大樹を刺繍した見事なタペストリーだった。しばらく使われた形跡のない花瓶を見る限り、この部屋は人が来ない場所なのだろうが、それにしては随分と豪華な飾りである。
正面の壁には飾りはなく、背後には出入り口であるドアが一枚。
(窓……なし。人の気配……なし。人が来る足音……なし。ここが館のどこに位置するのかは分からないけど、さっきの物音は聞きつけられなかったみたいだね)
こそこそとドアに張り付いて聞き耳を立てた後、オーリは「セーフ」と息を吐いた。
「ねえラトニ、さっきギルファの奴、どうやって私たちを捕捉したんだと思う? 私の黒石は発動してたし、本人も『見えてなかった』って言ってたよね」
下唇に指を当てながら、オーリは眉を顰めて相棒に話しかけた。
「隠れても見つかっちゃうなら、そのたびにラトニの転移頼りになっちゃうなあ。転移って凄く高等な魔術だけど、ラトニに負担は――ラトニ?」
いつもならすぐに返ってくるはずの返事がない。口を噤んで周りを見回したオーリは、一拍置いてザッと青褪めた。
――小鳥の姿をした相棒が、どこにも見えない。
「ら……ラトニ? ラトニー……!?」
まさかはぐれたのかと、今更気づき。
焦りを露わに相棒を呼ぶ彼女の声が、小部屋の中に虚しく響いた。
※※※
一方、虚空に投げ出された水色の小鳥は、咄嗟に翼を動かすこともできず、ぽさっと床に放り出された。
クチバシの身体を固めていた拘束は転移の際に置いてきたが、無理な方向に捻じ曲げられていた翼はすぐには動かない。体は魔力の塊だが、身体構造はある程度小鳥のそれに準拠しているためだ――尤も、少し時間をかければ元通りになる程度には融通が利くが。
(オーリさんはいない。転移の拍子に逸れたか……まあ、彼女がいたら流石に見つかっていただろうし、不幸中の幸いですね)
ラトニが落とされた部屋の中には、こちらに背を向けてソファに座る人間がいた。
幸い、体重の軽い小鳥の落下音は毛足の長い絨毯に吸い込まれ、人間が振り向かないうちにとぴょこぴょこ跳ねて棚の下に潜り込む。
(しかし、またガルシエ爵の所に戻ってくることになるとは)
落ち着きなく爪先を鳴らしながら座っている人間――アーロイス・ガルシエ爵を眺めたラトニは、柔らかな水色の羽毛をふわふわと踊らせながらそっと息を吐いた。
ガルシエ爵に気付かれていないのはいいが、最悪なのはここにギルファを呼び出されることだ。
何せ逃げようにも、さっきから妙に転移魔術に邪魔が入る。次もまともな場所に出られる保証はなかった。
(今回だって、この部屋に戻ってくるつもりはなかったんですし)
見覚えのある部屋だ。少し埃っぽく、掃除の行き届いていない――オーリとラトニがガルシエ爵の密談を見つけた部屋である。
今はギルファも商業ギルド長も室内におらず、苛立ちを露わに書類をめくっているガルシエ爵だけが留まっていた。
本当はラトニは、「オーリの婚約者」である赤子の部屋に転移するつもりだったのだ。しかし実際には再び座標が狂い、二人の出現先さえバラける始末。
(オーリさんとの距離は大分離れていると見ていいでしょう。クチバシの姿を隠す幻術は、出現時点で解けていた。つまり僕は今、黒石の効果範囲内に――オーリさんの近くにいない。ガルシエ爵の使用人も、後ろ暗い取引の現場であるここからは離されているはず)
そっとガルシエ爵の様子を窺いながら、ラトニは冷静に思考する。
(つまり今なら、目撃者ゼロで殺れる)
訂正、あんまり冷静じゃなかった。
ラトニはオーリに関しては、心の広さがノミの額だ。誤解が解けても絶好調に殺意満々である。
ここにおいて、ガルシエ爵は結局婚約者じゃなかっただろうが、というツッコミは通じない。本来の婚約者である赤子は、ブランジュード家がガルシエ爵という後ろ盾と手を組むための媒介に過ぎず、つまり婚約の肝がガルシエ爵であることには変わりないのである。
無垢な赤子を始末するのは若干気が咎めるラトニが狙うのは、つまりやっぱりガルシエ爵一択。
『いやダメだって狙うなァァァ!!!!』と脳内のオーリが裏手ツッコミで絶叫しているが、脳内のラトニはよーしよしよしナバナあげるから黙っててくださいねーと目をぎらつかせたスナイプ体勢を崩さない。『だから剛猿じゃねーよ!!!!』じゃあ王剛猿ですか。
(――――とは言え、そううまくもいきませんか)
脳内妄想劇場を打ち切って、ラトニは小さく嘆息した。
散々嫉妬や仲違いに苦しんだ恨みも込めて、ここでガルシエ爵を殺しておきたいのは山々だが、悪事の証拠を掴まないうちにそれをするのはオーリの心象が悪い。
警備隊や軍の兵士でも、怪しい者はまず捕縛して自白を引き出す方針が多い中、「疑わしきは罰せず」とでも言うのか、オーリは確実な証拠が見つかるまでは、容疑者を容疑者のままで保留しておこうとする節があった。
オーリの中でガルシエ爵は、まだ限りなく黒に近い灰色なのだ。有罪の証拠を見つければ追い落とすことに容赦はしないだろうが、養子である赤子の進退にも関わる以上、オーリは確実な証拠を欲しがるだろう。
そのために、わざわざこんな危険な手段をとっているのだから。
(まあ、この上物的証拠の必要性なんて、あってないようなものですけどね。燃やされたガルシエ家の倉庫、不備を異常に恐れる製品、『浮島』を欲しがる言動にサラさんへの妨害――『浮島』の薬草で禁制品の毒薬を作っている、以外に何があるというのか)
ラトニの中で、ガルシエ爵は九割九分クロで固まっている。
ここでガルシエ爵を殺害し、世間にうまく自然死と誤認させることができた場合、婚約解消は元より「黒いローリエ」にまつわる動きは一気になりを潜めるだろう。
警備隊のイアンを始めとして、「黒いローリエ」の件でガルシエ爵に目をつけている人間は多い。そのガルシエ爵が死んだとなれば、司法が介入する理由ができる。
汚職三昧の警備隊総隊長だって、そこまでくればもう保身に走るだろう。ガルシエ爵の仲間は自らが関わった証拠の揉み消しと、ガルシエ爵の遺した証拠品の始末に奔走することになる。
強硬手段をとった結果、たとえ真相が迷宮入りすることになったとしても、シェパに当面の平和をもたらすことができるなら、ラトニは満足なのだ。
フヴィシュナ上層部を悩ませる禁制品の毒薬も、『浮島』の扱いも、サラの公王即位も、自分の預かり知るところではないと鼻を鳴らしてそっぽを向ける。
しかし一方で問題なのは、この事件にブランジュード侯爵――オーリの父が関わっているかも知れないことである。
ラトニはブランジュード侯爵について詳しいことは知らないが、オーリ曰く「上にいられるのがいろんな意味で怖い人」らしいので、人間性には期待ができない。
ガルシエ爵の死によって事件から手を引くならともかく、万が一禁制品の製作を引き継がれたり、もっと危険な相手と手を組まれたりしたら非常にまずい。
――ああ、でもどうせなら中途半端なことをせず、盛大に「やらかして」欲しいものだ。オーリが尻拭いできず、保身に走っても仕方ないほどに。そうすればラトニは、遠慮なくオーリを連れて逃げられるのに。
そんなことを考えて仄暗く目を細める傍ら、ラトニは注意深くガルシエ爵の様子を観察する。
襟元を崩していることから、この後人に会う予定はないようだ。ぶつぶつ言いながら書類に何かを書き込み、時折髪を掻き毟っている。
不意に、ぎし、とガルシエ爵がソファから立ち上がった。
一瞬迷って、ラトニはそっとクチバシを移動させる。
細い脚で跳ねてガルシエ爵の元に辿り着き、ぎしぎしと戸棚を開ける音に合わせて襟元まで飛び上がった。
戸棚の中を覗き込むと、そこにあったのはダイヤル式の金庫だった。
魔術がかかっている気配はないが、床に固定されているから取り外しは不可能だろう。
ダイヤルを回して金庫を開け、書類をしまい込んだガルシエ爵は、声に出さずに何事か呟くと、そのまま舌打ちして部屋を出て行った。
(苛立っていますね……注意力散漫なのはありがたいですが)
ガルシエ爵が部屋を出る寸前に肩から飛び降りたラトニは、さっさと金庫に向き直った。
ダイヤル番号は覚えたが――まあ、素直に開ける必要もない。
ラトニはクチバシに流す魔力量を調整し、クチバシの存在を少しだけ『薄める』。実体を失った小鳥の身体はするりと金庫の扉を通り抜けた。
魔力の塊であるからこそできる壁抜け方法である。
再び魔力量を増やして実体を得た小鳥は、脚と嘴を使って器用に書類を取り上げ、その内容を精査し始めた。