149:突撃、あの子の婚約者
婚約者についてオーリが伝え聞いていた話に、ガルシエ爵が庭道楽というものがある。馬車から見える景色の限り、それは真実であるようだった。
貴族街でも一際優美なその造形に感嘆の息を吐く前に、一体何人の庭師を雇えば維持できるのかと思ってしまう広大なガルシエ邸の庭は、国内外問わぬ様々な花が咲き乱れ、緑のアーチや動物型に整ったトピアリーなどが丁寧に刈り込まれている。
勿論その中でも最も隆盛を誇っているのは、今も街中で花吹雪を舞わせている黄色とオレンジの花々だから、その気になればこの庭だけで小規模な春告祭が行えそうだ。
いつまで滞在するか分からないから帰りはガルシエ爵に送ってもらうと告げて馬車を帰し、オーリはドレスを翻して豪勢な館に相応しい巨大な扉に向き直る。
扉の前には仕立ての良い上下を纏った執事が控えており、馬車が離れたのを確認してオーリのもとへ歩み寄ってきた。
丁寧に髪を撫で付けた執事は腰を折って一礼し、にこりと微笑んでみせる。
「ようこそいらっしゃいました、オーリリア・フォン・ブランジュードお嬢様。主よりお出迎えを命じられております。本日は是非、ごゆっくりなさっていって下さいませ」
「お言葉に甘えさせて頂きます。私、今日のご訪問を楽しみにしておりましたの」
オーリを自宅に迎え入れ、社交辞令だろうが「ごゆっくり」の言葉が出てきたのなら、今日は他人と面会する予定などはないらしい。負けじと可愛らしく笑顔を浮かべ、オーリは滑らかに開かれた扉の中へと足を踏み出した。
ガルシエ家の『大切な婚約者』がやって来ることが周知されていたのだろう、入室して真っ先に目に入ったのは進路の両側にずらりと並んだ使用人たちの姿。彼らが一斉に頭を下げてくるのに笑顔を返しながら、オーリは邸内の観察を始めた。
家に関して見栄を張るためにはまず真っ先に客の目につく玄関ホールを飾り立てねばならないと言うが、ガルシエ邸のそれは確かにその方式に則っているようだった。
爵の地位に許される限り豪奢に仕上げた館は、下位の者から見ればある種威圧的にも映るだろう。
絨毯、置物、花瓶に飾り、窓にカーテン、ドアの意匠。どれも豪奢でありながら、オーリの知る中で最も豪奢な屋敷――即ち、ブランジュード邸とは全く印象が被らない。
(多分ガルシエ爵は、かなりバランス感覚が優れてる)
同じシェパに住み、同じ上級貴族の館であれば、余程の拘りがない限り、所々意匠が似るのはおかしくない。絵画一つ、花一つでも、その時々の流行というものがあるのだし、同じ品物、同じ職人や芸術家の作品を使用するのは珍しくないからだ。
けれどガルシエ爵の館には、ブランジュード邸を想わせるものが一切見当たらない。
尤もオーリとて他の貴族の館を見た経験はほとんどないので、考えすぎと言えば言えるのだが――
(飾りの絵画一つとっても、価値こそとんでもないけど、ブランジュードには『一歩及ばない』。
館の造形や調度品は、当主の思考や立ち位置を判断するにおいて格好の判断材料だ。そうと理解した上で、もしも敢えてブランジュード家に『届こうとしない』姿勢を積極的に貫いてみせているとしたら――それはいっそ病的なまでにブランジュード家を意識していることになりはしないか?)
鷹揚に見えて、あの父は己を、或いは己の所有する何かを切り捨てることを躊躇わない、ある意味非常に貴族らしい性質だ。
そんな父に気に入られ、一粒種の娘を嫁に出す決定をさせるとしたら、確かにそのくらいのバランス感覚と謙虚さ――腰の低さとも言う――を持ち合わせていないとならないだろう。
同時に、そうもブランジュードに気を使う裏に、一体何があるのかと勘繰ってしまう。
シェパ随一の権力者であるというだけで、果たしてここまで徹底して阿るだろうか?
――ガルシエは、ブランジュードに、一体『何を』見ている?
もぞ、と服に隠したクチバシが動き、フリルの隙間から室内を見回した。
貴族的な視点での感覚が分からないラトニは、怪しげな魔力が隠れていないか探知することを優先したようだった。
庭道楽にかこつけて植物を収集しているなら、もしもその中に魔力を持つ薬草が大量に隠されていた場合、ラトニが探り出すこともできる。
執事に案内されて応接間に通されると、愛想の良いガルシエ爵に出迎えられた。
美しくもさりげなく飾り付けられた室内に、オーリのドレスと同じ色の花がないのは偶然だろうか――流石に穿ち過ぎかとは思うが、今のオーリにはガルシエのやることなすこと怪しく思えてしまう。
「本日は、お招き頂きありがとうございます。急な訪問の打診にも快くご配慮を頂き、爵の寛大なお心にとても感謝しております」
「いいえ、可愛らしい婚約者殿をお迎えできるというのはいつなりとも嬉しいことですよ。その可愛い方が、我が家との交流に積極的だというならなおのこと」
頭を下げて謝辞を述べれば、ガルシエ爵は笑顔でソファを勧めてくれた。
「南方領主会議が始まる前から、ブランジュード侯爵家には何度か訪問させて頂いておりますが、オーリリア嬢とお話しする機会はあまりなかったのが気にかかっていたのですよ。今日は良い機会です」
テーブルに並んでいるのは、雲のような飴細工を載せられたケーキや、花の形の砂糖菓子。王都で食べたことのある貴重なチョコレートケーキである『ショコラータ』が並んでいるのも見えて、思わず生唾を飲み込んだ。
ガルシエ爵が、はは、と笑う。年端も行かぬ少女が好むだろうと用意したものが正しく当たったと判断して、少女の正直な反応に機嫌を良くしたようだった。
「まあ、まずはお座りください。オーリリア嬢は日頃あまり屋敷から出られないと聞いております、ここまでの移動でさぞお疲れでしょう」
「とんでもない、こんな素敵なお茶会を催して頂けるのなら、国の端っこからだって飛んできますわ!『ショコラータ』って、私ずっと食べたかったんです。もしかしてガルシエ様もお菓子が好きなんですか?」
「残念ながら、わたしはあまり好みませんな。菓子職人は昨年末たまたま王都で見つけたのがショコラータを作れると言っていたので、丁度良い機会だとやらせてみたのです。さ、良いお茶の葉があるのですが、オーリリア嬢は紅茶はお好きですか? それとも温かいミルクにチョコレートを溶かしましょうか?」
「ありがとうございます、紅茶を頂きたいわ」
にこりー、と礼儀正しくも愛嬌三割増しで笑ってみせ、オーリは早速お菓子に手を伸ばした。
いきなり尻尾振ってんじゃねぇと言わんばかりに、服の下からげしっとクチバシが蹴ってくるが、これは捜査の一貫でもあるのでオーリは全く遺憾の意である。
美味しいお菓子は高級品。つまり、その味、質、作る手間、嗜好、流行の取り入れ方などを分析することで、ガルシエ家の財力、情報収集力、付き合いのある店、迎えた客をどの程度重視しているか、などのことが分かるのだ――お菓子に心を鷲掴まれたなんてことは断じてない。ないったらない。
目の前にいたならじろりと据わった目で睨んできただろうラトニのことは他所に置いて、まずは生クリームとカスタードを交互に挟んだミルフィーユを、ぱりぱりとパイ生地が散らばるのも構わず口に入れる。
(んンンンン! 我が家のコックに勝るとも劣らない腕! 自分が好むわけでもないお菓子のために大枚叩いて菓子職人を雇うとは、やっぱり資産には相当の余裕があると見たー!)
料理や菓子作りがまだまだ発展途中のフヴィシュナだが、格や資産に自信のある貴族は、こぞって腕の良い菓子職人を雇い入れる。
特にその傾向があるのは、当主自身が菓子を好まないなら、その妻子が菓子好きだったり、頻繁にお茶会を開いたりする場合だが、当然ガルシエ卿には当て嵌まらない。
ツンツンツンツンツンツンツンツンつつきまくってくるクチバシを全力で無視して、切り分けたショコラータを一口。舌にねっとりとろける悦楽に、きちんと修行を積んだ職人なのだろうと判断する。
美味しい。文句のつけようがないほど美味しい。クチバシの前で独り占めするのが申し訳ないくらいだ。申し訳ながったってどうしようもないから遠慮なく食べるけど。
「美味しいです! すごく美味しいです、ガルシエ様! それに、この仄かな柑橘類の香りは? チョコレートの香りに奥行きが出て、王都のショコラータにはありませんでした!」
「さて、わたしはあまり詳しくありませんが、オレンジを混ぜたのでは?」
「あら、知らないんですか、ガルシエ様。ショコラータには普通の柑橘類は入れられないんですよ。ショコラータの原材料の一つが成分に反応して白っぽくなってしまうし、香りが妙に甘ったるくなってしまうとかで。ドライフルーツを入れる時も、オレンジやレモンは使えないんです」
うふふと自慢げに胸を張るオーリに、ガルシエは少し黙ってから感心したように瞬いてみせた。
「おや、オーリリア嬢はよくご存知なのですね。それに鼻も良い。思い出しましたが、そう言えば確か職人が、うちの保管庫から持っていった小枝がありました。材料のミルクに浸したいと言っていたような気がしますから、恐らくそれでしょう」
「保管庫……ああ、ガルシエ様は植物がお好きでしたね。柑橘類の香りの枝なんて素敵です。名前は何ですか?」
「ははは、ご令嬢が知るほどもないものですよ。香りがするだけのつまらない枝です」
「でも、お部屋に置いておけば良い香りがするかも知れませんもの。きっと毎晩良い夢が見られます」
「本当に可愛らしい方ですな。しかしあれは外国の知り合いから試しに譲ってもらった品で、今日使った分を最後に切らしてしまったのですよ。はて、名前は何だったか……次に仕入れたら一番にお贈りしましょう」
言葉を濁され、オーリは「わあ、ありがとうございます!」とあっさり引いてみせた。
皿の上には、まだまだ沢山ショコラータが残っている。
新鮮で上等な素材に、職人の腕。下手をすれば、王都で食べたものより上かも知れない。
――だが、だからこそ。
密やかに密やかに、違和感が忍び寄る。
(……そこそこ広まったとは言え、ショコラータはブランジュード家のコックにもまだ作れない、珍しいお菓子だ。王都でも販売数は限られてたし、特定の店でしか買えなかった。
わざわざ『ショコラータ』を売り込んでくる菓子職人を数ヶ月以上も前に雇っておきながら、実際に作らせたのは今日が初めてとなると、人材を遊ばせてるようにしか思えないんだけど……)
そしてもう一つ、フォークを咥えて内心首を傾げながら、オーリは記憶を探る。
菓子に柑橘類の香りをつける枝の話はオーリの知識にはないが、ガルシエが名前を言いたがらなかったことは何を意味するのだろう。敵ならぬオーリに食べさせるものなのだから、毒でないことは確かだろうが。
(菓子職人に使わせるくらいなら、問題の枝はそこそこ量を保有してると思うんだけどなぁ。単純に、名前を知られたくなかった、とか?)
さりげなく世間話を促せば、話題が変わったことを好都合と思ったのか、ガルシエは積極的に舌を回してくれた。
コックの話、王都の話、春告祭の話。話題が南方領主会議のことになった時、ようやくガルシエの笑顔が少し崩れた。
「――ああ、どうでしょうねぇ……今年の会議はいつになく長引いていますから」
早く会議が終われば、お父様は私ともっとお話してくれるでしょうか。
無邪気を装って問うた言葉に、ガルシエは浮かない表情でそう返した。
「そうなのですか? そう言えば私、以前公爵家のリーゼロッテ様に教えて頂いたことがあります。『浮島』の管理権が浮いているせいで、領主様方はとても困ったことになっているんだって」
「リーゼロッテ様ですか、ああ確かに、オーリリア嬢はあの方とも交流があるのでしたね。他には何かお聞きしたりは?」
「……そうですね。ザレフ帝国や新ルシャリがきな臭いとか、そのくらいでしょうか。私はまだまだ勉強不足で、難しい話にはついて行けませんから」
「向上意欲があるのは良いことですよ。上級貴族の奥ともなれば、王城に上がり、部下や友人から情報を収集し、公私ともに夫を支えなければなりませんからね」
「はい、リーゼロッテ様もそう仰るんです。……ああ、でも一つ、よく分からないお言葉がありまして」
きゅう、と眉尻を下げて、オーリは言葉を紡いだ。
紅茶のカップを唇に当てながら、ガルシエ爵が首を傾げて。
「私、リーゼロッテ様に、もっとシェパを歩いてみるべきだと言われたんです。外に出たことがあまりないと言ったら、自分の家が治める街のことをよく知らないのは良くないわって」
「そうですか……まあ、我が子が誘拐でもされたらという侯爵閣下のご不安も分かりますがね。それで?」
「それで、近いうちにお父様に頼んでみますって言ったら、それが良いわって。
――でも、外に出る時は気を付けてね、って。『わたくしとあなた』『どちらなのか分からないから』って」
ガルシエ爵の表情は変わらなかった。
魑魅魍魎跋扈する貴族社会に生きる男は、目の色すらも変えなかった。
ただ、一拍置いてこくりと紅茶を飲み下し、申し訳なさそうにオーリを見下ろした。
「はて……わたしには前後の話題も分かりませんし、見当がつきませんね。言葉遊びか何かでしょうか? あの方や兄御は、存外そういったものを好むと聞きます」
「そうですか。ええ、そうかも知れませんね。嫌ですわ、私、やっぱりまだまだ勉強不足で、気の利いたお返事もできなかったんですね」
苦笑して恥ずかしがってみせると、ガルシエ爵もトーンを変えて優しく慰めてくれる。
やがて空々しい茶番に終わりを告げたのは、オーリが空になった皿にフォークを置く音だった。
「ああ、随分と話し込んでしまいましたね。私などの世間話で、オーリリア嬢は退屈なさいませんでしたか?」
「とんでもないですわ! ガルシエ様はお話がとてもお上手ですもの。お菓子も美味しかったです!」
「楽しんで頂けたなら幸いですよ。しかし、今日はあなたの婚約者に会いにいらしたのだと聞いていますよ。長く引き留めてしまって申し訳ない」
「そんな、滅相も――――え?」
なんか今、話運びが妙だったような。
不貞寝していたクチバシが婚約者の単語を聞いた途端に苛立ちを纏うのを抑えるのも忘れて、オーリは眉根を寄せた。
「……あの、ガルシエ様。今のは私の勘違いでしょうか? その言い方だと、なんだか私の婚約者とガルシエ様が別の人間であるように取れるのですが……」
その問いに、ガルシエ爵は一拍置いてぱちくりと目を瞬かせた。ほどなくきゅうっと口の端を吊り上げ、堪りかねたように笑い始める。
「――っははははは! なんだ、そんな勘違いをしていたのですか! 違いますよ、オーリリア嬢。確かにあなたとガルシエとの婚約ではありますが、相手はわたしではありません」
えっマジで。
唐突に投げ込まれた事実に、オーリはぎょっと目を見開いた。