15:共に歩く未来はあるのでしょうか
人で賑わうシェパの街、並木通りに程近い一角に、年取った薬師一人でやっている小さな診療所がある。
十年以上通っている客が多い、黄色い屋根に木造の家だ。薬を買いに来た客や患者の相手をする表の間と、小さな棚が幾つも立ち並んだ奥の仕事部屋、生活スペースや物置など、内部は細々と分かれている。
昨今天通鳥の二つ名で囁かれるようになった少女――オーリが、この診療所に訪れては薬師に教えを乞うようになったのは、今から一年ほど前の話だった。現在もよく掃除の行き届いた奥の一角に腰を据え、薬師に言い付けられた仕事を行っている。
現在彼女がやっているのは、アルコールの抽出作業だ。蒸留酒から採れる、酒精と呼ばれるこの成分は、アルコール類の中では最も身近に使われる物質の一つである。殺菌や消毒に便利なため、この診療所でもよく使われる。
昔受けていた理科の実験を思い出させて、オーリはこの作業が好きだった。けれど今の彼女はくつくつ沸騰する液体を睨み付けながら、むっすりと下唇を尖らせている。
「――やっぱり納得行かないんだけど」
作業台の上に頬杖を突き、彼女はじっとりした半眼でそうぼやいた。
よく感情を映す大きな青灰色の双眸は、今は分かりやすく不満げな色に染まっていた。立ち込めるアルコールの匂いと炎の音、控えめな熱気が彼女の頬を炙る。
傍らで薬草の仕分けをしていたラトニが、オーリの方を見て無表情に切り返した。
「諦めなさい。どんなにやるせないと思っても、その顔面はあなたが一生付き合っていくものです」
「どういう意味だアァァァァ!!」
一瞬で般若の形相に変化したオーリに、ラトニはわざとらしく「おや」と口元に手を当てた。
「顔の話じゃなかったんですか? 失礼、とうとう常の悩みが表に出てきたのかと」
「なに人の悩みを捏造してんの!? 悩むような顔してないよ! え、私結構顔面偏差値高いよね!? 客観的に見て割と可愛い部類だよね!?」
突発的に焦りと疑惑に支配され、オーリは中腰になって抗議した。
だってそうだろう、アーシャも使用人たちも褒めてくれるし、前世基準から見ても今のオーリは将来有望だという自信があったのだ。それを劣化させないため、日に焼けないよう、肌荒れしないよう、自分でも常々気を遣っている。
なのに、そんな事実を真っ向否定されたなら、一体オーリはこれから何を信じて生きていけば良いというのだ。今のオーリを堂々と鼻で笑えるほどの人間など、如何にシェパ広しと言えども、そこらに転がっているわけが――あ、しまった、コイツどえらい美形だった!
記憶の底に焼き付く美貌を改めて思い出し、オーリは戦慄しながらラトニを見やった。
ラトニの外見は、無造作に伸ばすばかりの野暮な髪形と、量産品の簡素な上着。けれど目元を隠すように伸ばした前髪の下にあるその顔を、今のオーリは知っている。
あの日垣間見たラトニの素顔は、想像していた以上に精緻に整ったものだった。
成長すればさぞかし持て囃されるであろう顔立ちは、幼さを残しつつも極めて端正な造りをしており、幾分鋭い目付きに琥珀の瞳がよく似合っていた。淡々とした無表情でさえ、それを浮かべるのが彼であれば、涼しげな容貌に色を添えることだろう。
尤も、氷の精霊が間違って人に生まれてきたのではないかと思わせるような美貌から一々吐き出される言葉が、英雄物語の主人公のような美麗な台詞ではなく心を抉るような毒舌であることは、非常に残念な事実だが。
(確かに隠した方が良い顔だった……。あんなもん晒して歩いてたら、ラトニが真っ先に誘拐されてたに違いないもの)
――あの連続誘拐事件の夜から、既に二日が経過していた。
あの時は憤怒と焦燥のままに首を突っ込んでしまったが、結果的には事件を引っ掻き回しただけで終わってしまったような気がして、オーリはこっそり反省している。
保護した子供たちの世話や事後処理は警備隊に丸投げし、既に収束は確定済みだ。ただしジルの行方だけは未だ知れず、オーリに奇妙な不安と危惧を抱かせていた。
個人的には二度と顔を合わせたくないのだが、どうやら相手は随分とラトニ(と、ついでにオーリ)に興味を持っていたようなので、いずれはまた現れるだろう。願わくば、それが可能な限り先の話であることを祈りたい。
あの日のどさくさで、いつも被っていたフードを復元が不可能なほどに破られてしまったラトニは、もう被り物で顔を隠してはいない。
幸い上着本体は多少の縫い直しだけで着られるようになったが、背中に付いていたフードは取り去らざるを得なかったようだ。今は長い前髪だけで、顔の上半分を覆っている。
そんな少年はいつもの無表情でチッと舌打ちをして、取り分けた薬草をそっと箱の中に寝かせた。如何にも不満ありげな態度に、オーリは何となく心が傷付く。その薬草のせめて十分の一でも良いから、自分のことも丁重に扱ってくれないだろうか。
「どでかい化け猫被ってる時点で素直に容姿を賞賛する気は失せますけどね。今日だって、どうせまた傍付きを騙くらかして出てきたんでしょう?」
「い、痛いとこズケズケ突っ込みやがる……」
騙くらかした自覚はあるので、オーリは反論もできずに顔を引き攣らせた。
両親から贈られた新しい絵本を読む、という名目で館を抜け出す時間を得て来た身としては、自分を信じ切っているアーシャの顔を思い出すと少々居心地が悪くなる。
ごめんアーシャ、今日は無傷で帰るから勘弁して。そしてラトニ、お前におやつのクッキーは分けてやらん。
と、そんなことを思っていた時。
「――さっきからピーチクパーチクうるせェェェェェ!! 作業室ではしゃいでんなら放り出すぞ子雀共ォ!!」
スコーン! と。
入り口から怒声と共に木製の練り棒が飛んで来て、オーリの頭と軽い衝突音を立てた。オーリは顔を引きつらせて振り返り、慌てたように肩を竦める。
「うげっ……! すいませんでした教官殿!」
「誰が教官だァァ! 軍属してたことはねぇっつってんだろうがァ!」
「すいませんでしたお舅様!」
「誰がてめぇみたいなちんちくりんに息子をやるかァァァァ!」
「……いや、あなた独り身でしょう」
雷のような大声で青筋立てて怒鳴る薬師に、ラトニがボソリと控え目なツッコミを入れた。
灰色の髪と髭を逆立てる勢いで、拳を固めて仁王立ちするこの老人の名をジョルジオ。彼こそ二人が師事する老薬師であり、この小さな診療所の持ち主だ。
歳は既に六十を越えていると聞いたか。しかしその体躯は今でも筋骨隆々とし、薬師より傭兵と言われた方が納得できそうな姿でもある。
この街で誰よりも財のない患者を受け入れている辺り、見目は厳ついが非常に人が好い薬師だった。だからこそ、オーリも弟子入り先としてこの診療所を選んだのだが。
聞いたところによると、ジョルジオは少々変わった系譜に属しているそうだ。
ジョルジオ自身の師を始めとして、彼から遡る薬師たちは、元は旅の薬師を兼ねて行商をしながら、生涯で一人、或いは二人の孤児を弟子に取って育て上げるということを繰り返してきたらしい。
ジョルジオもその例に洩れず、孤児であったところを師に拾われ、死別してからは一人で旅をしていたそうだ。
ただし弟子に関しては、未だ取ったことがないようだった。彼が身元もやってくる日も不確かなオーリを(ついでに彼女にくっ付いて来たラトニも)、口は悪くとも何だかんだ放り出しもせず面倒を見てくれるのは、彼がこの老齢になっても独身で弟子もないという理由もあるのだろう(ちなみにオーリは、弟子を取ったことはあるが逃げられた説を支持している。ジョルジオは彼なりにオーリたちを可愛がってくれるが、そのやり方と言ったら口も手も全く控えてくれないのだから)。
蛇足だが、この系譜に連なる者のささやかな共通点として、代々ミツツムリという薬草の印章を受け継いでいることがあるそうだ。このまま正式な弟子が出来なければ、次は自分たちのどちらかがこれを受け継ぐのかも知れないと、オーリは何となく予測している。
尤も、貴族の立場があるオーリが継いだところで次が続かないだろうから、継がせるのならばラトニだろう、とも考えているが。
ともあれジョルジオの怒声で現状を思い出したオーリは、急いで自分の仕事に戻ることにした。蒸留し終えたアルコールを小さな陶製の瓶に移し、手際良く蓋を被せていく。
そして、そんな彼女の傍では、ラトニが最後の箱に蓋をしているところだった。ラベルに番号を振り、名前を書いて、順に箱へと付けていく。
目付きの悪い双眸を更に尖らせて子供二人を見下ろしながら、ジョルジオはケッと鼻を鳴らした。
「ったく、これだから最近の若いもんは。遊ぶんなら作業してから遊べやボケェ。そんなに暇なら台所掃除でもやらせてやろうか」
「すいませんお舅様、以後気を付けます!」
「おい、舅言うなっつってんだろうが。喧嘩売ってんのかコラ。俺の若い頃なんかなァ、毎日毎日助手して家事して勉強してよォ、森で魔獣に出くわした時だってなァ」
「すいませんブルーローズ先生、倒した魔獣の血をインク代わりに勉強した話は二十回くらい聞きました!」
「俺をその名で呼ぶんじゃねェェェェ!!」
「ぎゃふぅぅぅぅん!」
雷ジジイの怒声と拳骨が同時に降ってきて、オーリは真冬の亀のように首を縮めて転げ回った。
どうやらジョルジオの一撃は、オーリの耐久力でも追い付かないほど威力があるらしい。頭を抱えてごろごろ床を転がる姿は、年相応に見えるが非常にアホらしかった。
情けない少女の様子を横目で見ながら、ラトニは呆れたように溜息をついた。
「『ぎゃふん』なんて台詞を現実に言う人間、オーリさんくらいしか見たことありませんよ……」
筋骨逞しい六十越えのご老人、フルネームはジョルジオ・ブルーローズ。彼の最大のコンプレックスは己の名前である。
顔を真っ赤にして憤慨しているジョルジオを見上げ、ラトニはいつものように落ち着き払った声で口を挟んだ。
「ところでジョルジオさん、何か用があったんじゃないですか?」
「おう、そうだった。子雀その2ィ、アオマキソウとシュワナプラントはどこに置いたァ?」
手にしていた薄い皮の袋を作業台に置き、ジョルジオが思い出したようにそう聞いてくる。ぱたぱたと立ち上がって薬草棚へ走ったラトニを視線で追いながら、オーリもようやく身を起こした。
「何ですこれ……ああ、ナナツメグサの赤と、ハイルデリの実ですか。やっと補充分が来たんですね」
「おう、あの野郎、散々待たせてようやく持って来やがったんだ。子雀、お前はまずナナツメグサの薬用成分から抽出しろ。終わったらアオマキソウと合わせて練っとけェ」
「七対三でしたっけ。練るまで一人でやっていいんですか?」
「ちょっと手ぇ離せない調合があんだよ。やり方は覚えてるな?」
「はい。初級ですし、何度も見てもらいましたから」
ナナツメグサの赤は、アロエと似たような匂いを発する、赤い汁の出る草だ。アオマキソウはその名の通り、青みがかった斑点を特徴とする。
この二つを主原料とした練り薬は、効果の高い頭痛薬になる。調合過程には少々神経を使うが、「成功品」と「失敗作」の差が一見して分かりやすいため、初心者が挑戦しやすい薬の一つである。
オーリがジョルジオと出会ったのは、彼女が森で薬草を採取している時だった。
両手の指にも足りないような歳の子供が一人で薬草を睨んでいることに、興味を持ったのはジョルジオが最初。彼が薬師の技術を持っていることが分かってからは、オーリの方から積極的に接触を試みて今に至る。
ジョルジオと出会った当初から、オーリは薬草に関して幾らか基礎的な知識があった。それに肉付けをし、実践に使えるようにしてくれたのがジョルジオだ。
オーリという呼び名一つしか明かさない少女に、最初は「俺も暇じゃねぇんだ」と怒鳴って家から放り出すばかりだったジョルジオも、それが十回を越える頃にはとうとう折れた。相変わらず柄は悪く、怒鳴ったり殴ったりしながら、それでも何やかや作業だの掃除だのに手を出してくるオーリを受け入れている。
――自分に「手段」を与えてくれた一人であるジョルジオに、オーリは心から感謝していた。
ジョルジオが教えてくれたから、オーリは少しずつ高度な薬を作ることができるようになった。どうしても医者にかかれない人間に薬を処方する時、微かに付き纏う不安に手を引っ込めたくなることがなくなった。
――尤もオーリの場合、どうしても顔を出すのが不定期になるので、その分上達が遅いのは避けられないことでもあるのだが。
代わりに、訪問日が多いのがラトニの方だ。オーリの現れない日をここで過ごすことも増えてきたらしく、そのうち追い抜かれやしないかとオーリはこっそりひやひやしている。
年期だけは費やしているのに、一つとは言え年下の少年にそうそう越えられてはたまらない。今度また蔵書室で本を漁ろうと、オーリはこっそり決めていた。
程無く戻ってきたラトニから二種類の薬草を受け取り、ジョルジョはアオマキソウを作業台へ置いた。代わりにハイルデリの実を取り上げて、二人の子供を見下ろす。
「子雀その2は四番の棚の書類整理して、ナナツメグサの余りを干しとけ。子雀その1、薬が出来たら持って来い」
「はい、ジョルジオさん」
「任せてください教官! ついでにバファリン並みの優しさも混ぜ込んでおきます!」
「バファリンは知らんが、余計な不純物はいらねェ」
ゴスッともう一撃食らわせて、ジョルジオはのっそりと踵を返した。最後に一度だけ振り返って、低い声でこう付け足す。
「子雀その1、調合が終わったらついでに茶ァ持ってこい。この前客に貰ったローブリッジ商国産の紅茶と花蜜が棚にある」
「了解でーす!」
にこー、と明るく笑って、オーリは元気良く片手を挙げた。
ちなみに、甘い飲み物の嫌いなジョルジオは、紅茶に砂糖も蜜も入れない。つまり彼の言葉を意訳すると、「オーリの作業が終わったら、紅茶と花蜜を使って良いから休憩にしろ」ということになる。
恐らくこの後、ジョルジオは再び表で作業をしながら、訪れる客の相手をするのだろう。ドアのない入口を潜っていくジョルジオの背中を見送った後、ラトニは口火を切った。
「――で、結局何が納得行かないんですか」
言い付けられた棚を漁りながら話題を戻したラトニに、オーリは一瞬言われている意味が分からず、頭に大きな疑問符を浮かべた。
ナナツメグサの赤と専用の溶液を器に入れ、火にかけながら少し考えて、思い出したように「ああ」と手を叩く。綺麗に包帯の巻かれた右手を持ち上げ、ひらひらと無造作に振ってみせた。
「最初の話題か。これのことだよ、二日前の事件で付いた傷のこと」
今日もアーシャの手で丹念に薬を塗り込まれた傷は、包帯の下から微かに鼻を突く薬品の匂いを漂わせている。飛び切り染みるが効き目が良いと聞いたから、そう時間を空けずに完治するだろう。
ラトニが顔を上げ、少しだけこちらを窺うような気配を纏った。
「……痛むんですか?」
「違うよ、アーシャの手前まだ少し痛いってことにはしてあるけど、もうほとんど痛みはない。それが問題なんだ。――私が取った行動に対して、これはあまりにも傷が軽過ぎる」
オーリの呟きに、ラトニがほんの少し、視線を強くした気がした。
あの夜。オーリがジルと対峙し、手段を選ぶ余裕を完全に無くしていたあの時。
己の拳一つで分厚い床を叩き割り、更には手の中で衝撃波を発生させたオーリの手は、本来なら骨が見えてもおかしくないほどの大怪我を負っているはずだった。
勿論そうなれば、いくら隠したとてアーシャの目を騙せるはずもない。けれど実際には、最低でも肉が抉れているだろうと思っていた手のひらは「ちょっとひどく転んだ」で誤魔化せる程度に収まっている。
極限状態の緊張と興奮でも殺し切れなかったあの激痛が、幻覚だなどと思えないにも拘らず。
「だって、高位の治癒魔術を使える人間なんて滅多にいないんだよ? イアンさんたちも、心当たりはないって言ってたじゃない。でも、だったらどうしてこんなに怪我が軽く済んだわけ?」
「……知りませんよ。あなた普段から無意識に身体強化魔術を使っているそうですから、今回も無意識に発動したんじゃないですか? そのお陰であなたの予想より負傷が軽く済み、同時にあなたの予想より自己治癒能力が高かっただけだと思いますけど」
素っ気なく言い放ち、ラトニはまだ納得行かなさそうなオーリを探るように眉を寄せた。
「んー、でもなあー……」
ラトニの推測もしっくり来なくて、オーリはぐにぐにと首を捻る。
だって、最後の一撃を放った後、オーリにはまだ意識があったのだ。その時視界の端に見えた己の手は、どう考えても軽傷で済むような怪我ではなかった。
加えて、服に付いていた血の量。これ以上替えの無い上着を綺麗にするために、どれだけ盥と格闘したことか。
「オーリさん」
けれどオーリの思考を断ち切るように、ラトニが澄んだ声を投げてきた。振り向くと、一瞬視線を合わせた彼は、またすぐ作業に意識を落としてしまう。
「どうせ答えなんて誰にも分からないんです。考えても仕方ないんですから、不幸中の幸いだとでも思っておいたらどうですか? 怪我の痕は残らないんですし、使用人にも突っ込まれなかったんでしょう?」
「まあ、そうなんだけどさ……」
もっと過保護な両親だったなら騒がれたかも知れないが、幸運と言っていいのか、オーリの現状はそこまで取り沙汰されずに済んでいた。
あの家で求められているオーリの役目は、将来的にどこか適当な家へ嫁ぐことか、この先弟が生まれなければ、己で婿を取ってブランジュード侯爵家を存続させることだ。
大事にされている自覚はあるが、あくまで政略結婚の駒であることが前提。家族愛など無いようなものなので、その前提に抵触さえしなければ、少々のことをやらかしても、あの両親は当分オーリを野放しにしてくれるだろう。
そもそも、今回オーリがアーシャに怪我を見せたのは、状況が落ち着いてから確認した傷が、己を『傷物』にするほどのものではないと分かったからだった。
つまり、バレても問題がない範囲。もしも両親がオーリの怪我一つで使用人たちの首を飛ばすような性格だったなら、オーリはどんなに不審がられようと、死ぬ気で怪我を隠し通しただろうが。
「ほら、そんなことよりしっかり見ててくださいよ。髪に火が燃え移ったりしたら洒落になりませんからね」
ラトニに注意を促されて、オーリは不満ながらも作業の続きに意識を戻した。ぷくぷく小さな泡の立つ液体が、透明な容器の中で静かに波打っている。
弾けては消える泡のように掴み所のないジルの言動が、その造作だけは極めて優艶な顔と共に思い出された。
――あの青年は、今もあの底の知れない瞳で、オーリには分からない何かを飄々と眺めているのだろうか。
やられるがままに手も足も出ず、けれど辛くも逃げ切った事件の夜から、オーリは近隣諸国の動向に一層の注意を払うことを決めた。
ジルと名乗った青年がどこかの国の密命を受けて動いていたと仮定すれば、その国がフヴィシュナと友好的な関係にある可能性は低い。
尚且つ、魔術師になれるほどの潜在能力を持つ魔力持ちは、国の財産とすら言われる貴重にして重要な能力者である。
教育の余地がある幼い魔力持ちは、どこの国でも欲しがられる。誘拐拉致にまで手を染めて、形振り構わず力を掻き集めようとしている国が、平穏と平和をスローガンに掲げているとも思えなかった。
(怪しい国は幾つかあるけど、流石に今の立場じゃこれ以上の情報は集まらないんだよねぇ……。裏を掻いて国内勢力のどれかが黒ってこともあり得るし、最悪フヴィシュナまで敵に回るかも)
二度と対峙したくないと思ってしまうくらい、魔術師としてのジルは強かった。ラトニもまた、そんなジルの興味を引き、将来性ありと断じられるほどの才能を有している。
(人並み外れた才能は、幸よりも不幸を呼び込みやすいからなぁ……)
いつしか己の顔から表情が消え失せていることに、オーリは気付いていなかった。
――例えばラトニの存在を知ったフヴィシュナが、新たな才能を確保しようと動いたならば。
――例えば戦争なんてことになり、一つでも多くの戦力が必要とされる事態になったならば。
もしも情報が公になれば、孤児で後ろ盾もないラトニでは、仮令抵抗しても許されるとは思えない。この国の上層部は、黒い疑惑に事欠かないのだから。
もしもそうなった時、きっと自分は――
――がり、と固い音が耳に届いて、オーリは我に返った。
薄暗い陰りを見せていた双眸が、いつもの色を取り戻す。
気付けば、また唇に自分の親指が触れていた。ラトニが物言いたげな様子でじっと見つめていることを察し、オーリはすぐに手を下ろす。
「ねえラトニ、使わない帽子があるから、良かったら譲ろうか?」
一見何の脈絡もなく、彼女はそう提案した。ラトニはぱちりと一度瞬いて、少し考えた後、首を横に振った。
「……いいえ、気持ちだけ頂いておきますよ。帽子はもう良いんです。いつかは前髪も切るつもりでいますから」
「そう?」
敢えて重ねて勧めはせずに、オーリはことりと首を傾げた。
考えてみれば、オーリと違ってこれまで特に隠すつもりもなかったのだろうラトニの名前や保護者は、既に一部の人々には知られている。ジルには顔まで見られていることだし、今更素性を隠そうとしても、気休めくらいにしかならないだろう。
こんなことなら、自分と同じくラトニの身元も隠すべきだったかと考えて、オーリは若干後悔した。これほど深い付き合いになるなんて、出会った頃には全く思っていなかったのだ。
せめて外でラトニの名前を呼ぶのは自重しようかと悩んでいるオーリを眺めながら、ラトニは呟く。
「そうですよ。……どうやら僕も、もっと魔力の制御を高めなければならないようですし」
ぼそりと呟いた後半が聞き取れずに、オーリはきょとんと目を瞬かせた。
オーリは未だ見たことのないラトニの金瞳は、ラトニの感情や魔力が高まると発現する。強い魔術を使うと染め粉が落ちてしまう髪よりも変化が現れやすいため、髪とフードで二重に隠していたラトニだが、最近強い敵と遭遇したことで意識を切り換えたらしい。
敢えて防護を薄くしたのは、まあ、決意表明のようなものである。
見られて困るものを隠すより、魔力の制御力を上げて変化そのものが起きないように。少しでも技術を上げなければ、次にジルと同レベルの敵が現れた時、対応することが出来ないから。
そんなこととは知らないオーリは、不思議そうに聞き返した。
「ごめんラトニ、後半聞こえなかったんだけど何て言ったの?」
「気になっている癖に、一度たりとも僕の顔を覗き見ようとは考えないあなたが好きですよと言ったんです」
さらりと冷静に嘯かれて、オーリは思わず口をかっ開いた。え、今ラトニがデレた?
「……ええええええ! マジでか! 今好きって言った!? 好きって、え? 何これ。何の罠? あ、数奇って言ったのか」
「うるさいです、オーリさん」
大袈裟に狼狽してみせるオーリに、ラトニはイラッとした視線を向けた。
一気に三℃ほど空気が冷え込んだが、ばたばた手を振って騒いでいるオーリの目には見えていない。熱があるのではないかと薬草棚を引っ掻き回し、鬼の霍乱だの不吉の前兆だの、しまいには鎮まり給え眠り給えと怪しい呪文を唱え出した彼女の脳内は今、一体どんな非常事態に陥っているのだろうか。
おいこら、僕の優しさは山神の怒り並みの危険物なのか。たまには素直になってやろうと思ったら、良い度胸だこの野郎。
「――うるせェェェェ!! サボってんじゃねーぞ子雀共ォォォォォ!!」
「すいません教官殿ォォォォ!」
混乱に騒ぎ立てるオーリの声が聞こえたのだろう、とうとう表からジョルジオの怒鳴り声が飛んできて、オーリはばちんと口を閉じた。ようやく正気に戻ったらしく目を泳がせているオーリを睨み、ラトニはわざとらしく鼻を鳴らす。
「……オーリさんがそんなに僕に対して不信を募らせているとは知りませんでした。好意の言葉一つ真面目に受け付けてもらえないなんて、僕はどれだけ冷血漢だと思われているんでしょうね」
「いやいやいや、そんなことないから! ごめんよラトニ、ラトニは毒舌だけど、根は良い奴だと思ってるよ! さっきのは、あのあれ、ちょっと混乱しただけだから! 某アンパンヒーローの中から餡子じゃなくてカレーが出てきたの目撃したような気分になっただけだから!」
「喩えが分かりにくい」
「ごめんって! ほらあの、おやつのクッキー一枚多く分けてあげるから! 美味しいよ! ナッツのやつだよ!」
「人を食いしん坊キャラみたいに言わないでください。ああ、次に会う時は是非オセロがしたいですね。めっこめこにしてやるから覚悟しろ、この鈍感」
「あ、私しばらく会いに来れないよ」
けろりと声色を変えたオーリが事もなげに告げてきたその一言に、ラトニの動きが一瞬停止した。書類を捲っていた手も止まり、首だけゆっくりと動かして、ぎぎぎ、とオーリの方を向く。
「……、……は?」
今にも縄張り争いの幕を切らんとする不良のような低い声色で威圧してくるラトニに、オーリは呑気に小首を傾げて言葉を続けた。
「だから、しばらくラトニとは会えないの。ちょっと両親共々王都に行くことになっちゃってさー、当分シェパには戻れないと思うんだよね」
――ばさー、と。
固まったラトニの手から、紙束が滑り落ちて間抜けな音を立てた。
ラトニはオーリの顔も好きだけど、「でも容姿にもうちょっと欠陥でもあれば、近付く人間も減ったんだろうか」とか若干病んだことを思ってる。
ジョルジオさんに対しては、一応教えを乞う身なので、礼儀として「オーリ」「ラトニ」という呼び名のみ名乗っているらしい。フルネームは言えない、その呼び名も人には教えないで欲しい、次にいつやって来るかも分からない、などの勝手を黙って聞き入れてくれるジョルジオさんのデレ、プライスレス。
ちなみに、ジョルジオさんが属する薬師の系譜の最初の一人が、オーリが二度目の人生で会った某薬師だったりします。完結済別連載の『かつて見た果て』参照。