143:ルシャリ王族と大樹海
尤も、目まぐるしく駆け回った後で腹が空いていたのは事実である。ダンディが奢ってくれるというので、お言葉に甘えて食事を注文することにした。
ダンディの前にも皿はあったが、残念ながらあまり食事には向いていないメニューだった。
熱い油でモヤシと唐辛子とニンニクを炒めた料理は、ヒリヒリするほどの辛みが冷たく泡立つ麦酒の爽快さにベストマッチするかも知れないが、刺激を厭う子供の舌には優しくない。
酒の名に混じって並ぶフードメニューを眺めてしばらく迷った後、オーリは通りがかった給仕の娘を呼び止め、彼女が持っていた皿と同じものを一つ注文した。
間もなく届いた皿の上には、茹で上げた大きなソーセージが二本と、黄色い辛子。とどめとばかりに皿の隙間を埋め尽くしているのは、親指の先ほどの小さな芋の丸揚げだ。
見るからに無骨だがボリュームはあるので、子供二人で分けるには一皿で充分である。
「俺はローランドという。しがない傭兵だ」
丸い揚げ芋を口に放り込めば、「我ここにあり」と言わんばかりに刺々しい塩の感触が攻撃的に舌を刺した。
安酒で流し込むことを前提に、高血圧なんて概念を放り捨てた濃い味付けだが、たまのジャンクフードと考えればそう悪くもない。
バシバシに香辛料を効かせた芋を頬張る子供たちを眺めながら、名を名乗ったダンディは新たに注文した麦酒を呷った。
イラナ麦の麦酒はシェパでは珍しくない安酒のはずなのに、このダンディ――ローランドが飲んでいると、あまり粗野にも見えないのが印象的だ。
大人しく芋を食べているラトニを横目に、オーリはローランドを見上げて小首を傾げる。
「傭兵……冒険者じゃなかったんですね。活動拠点はどこの国ですか? しばらくはこのままフヴィシュナに?」
「冒険者の等級は持っているが、そちらで活動することはあまりないな。拠点と言えるほどのものは、今はない……まあ仕事の都合上、しばらくはフヴィシュナに留まることになるだろう。ごく最近、新ルシャリ公国を出てきたばかりなんだ」
その国の名前に、ソーセージに齧り付こうとしていたオーリが動きを止めた。
二秒ほど停止した後、思い出したようにさっきと逆方向へ小首を傾げ、「ふうん」と相槌を打つ。
「ルシャリ、ですか……あそこ、今は大変ですよね。このまま次の公王が決まらなかったらどうなるんでしょう」
「さて、そればかりは分からんな。尤もこのまま足踏みしているばかりでは、遠からず国が消えてもおかしくない」
「併呑されると思いますか? ザレフあたりに」
「いや、『ルシャリ』の名前が消えるだけじゃない。人と土地が失われ、国そのものが消失する」
今度の沈黙は先程のものより長かった。
胡桃を齧る栗鼠のような動きで揚げ芋を食べていたラトニの口が咀嚼を停止する。半分まで歯を食い込ませたソーセージが、オーリの口内にブシュウと肉汁を噴出させた。
「――あっづぁあ!」
跳ね上がった声は、出入り口で響いた一際大きい歓声に掻き消される。喧嘩をしていた誰かが、追い込まれた駆け出し勇者が初めての小ボス戦で決める必殺技ばりの見事な大技を叩き込んだようだった。
「すみませんローランドさん、その話、詳しく聞かせて頂けますか?」
涙目でひいひい言っているオーリを若干呆れた横目で見つつ、ラトニが先を促した。
ふむ、と腕を組み、ローランドは天井を仰ぐ。
「新ルシャリ公国に、エンジェ大樹海というものが存在することは?」
「知っています。色々と伝承の多い、最古の森でしょう」
「同時に、禁足地でありながら極めて豊かな資源を誇る土地でもある。しかし困ったことに、つい最近、この森がじわじわと版図を広げつつあってな」
それが問題なんだ、とローランドは言った。
「エンジェ大樹海が広がって、ルシャリを呑み込もうとしてるってことですか? まさか、どうして唐突にそんなことが……」
ひりつく舌を宥めながら、オーリが眉を顰める。
それは明らかに異常なことだ。植物が成長するには相応の時間がかかるものだし、住んでいる人々だって抵抗する。いくらルシャリが小国でも、国一つ森に呑み込まれるまでには何百年という時間がかかるだろう。
「唐突に、ではないとしたら」
ローランドの目がオーリを見た。大人の男らしく落ち着いた、しかしどこか内心の掴めない眼差しだった。
ローランドの言葉の意味を、オーリは咄嗟に考える。答えを見つけ出す前に、ぽつりと呟いたのはラトニだった。
「……もしかして、エンジェ大樹海による侵蝕は、ずっと昔から始まっていたんですか? これまでは、それを食い止める『何か』の存在によって均衡を保っていたのが、その『何か』の消失、或いは衰えにより、侵蝕を防ぎ切れなくなった――とか」
ぴく、とオーリの肩が跳ねた。反射的にローランドを見上げた目が、ローランドのそれとかち合う。
その目の中に確かな肯定を見て取った瞬間、思考が勢いよく走り出した。
大樹海の伝承、植物を操るサラの魔術。そこに公王の座を巡るサラやルシャリの動向を重ね合わせて、脳内に仮定を積み上げていく。
ローランド曰く、大樹海の侵蝕が始まったのはごく最近のことだという。ごく最近と、それ以前。二つの時期における新ルシャリ公国の、最も明確な差異と言えば――
「公王の存在か……!」
ぱちん、とピースが嵌まった感覚を覚えた。
灰色の瞳を見開いて、オーリは急速に思考を組み上げる。隣のラトニも眉間に皺を寄せ、ぶつぶつと彼女の推測を追いかけ始めた。
「成程、つまり大樹海の侵蝕を抑える『何か』とは、公王しか扱えない魔術かアイテム、或いは公王そのものである可能性が高いということですか。
そうであると仮定して、ならば王座を引き継ぐ人間には正当な血統が必須でしょう。サラさんが引っ張り出されたのはそのせいか」
「おかしいとは思ってたんだ。サラさんが暮らしてた環境は、どう考えても『追放された』っていうのに相応しい。彼女の両親が相当のことをやらかして、そのせいで娘である彼女まで煽りを食ったんだろうとは考えてた。
正当な血統とは言え、何の教育も受けてない上に罪過の血筋を王座につけるリスク、加えて近年国際情勢が流転する早さを考えたら、もっと血が薄くても安全な誰か、いっそ有能な臣下の誰かを引き上げた方が良さそうなものだよね。
だから私は、正直サラさんはルシャリにとって、単なる中継ぎか捨て駒扱いなのかも知れないとすら疑ってたんだけど――」
「『血統』が王座継承の第一条件なら、その前提も崩れます。恐らく今の公王の血筋に、要求される条件を満たせるほど血の濃い人間は、本当にサラさんしかいなかったんでしょう。長年のザレフとの小競り合いのせいで、ルシャリの王族は急速に数を減らしていたとか。大樹海の侵蝕が既に始まっているなら、もう一時も猶予はない。
――リアさん、今から二十年程度前に、ルシャリで何か大きな事件がありませんでしたか?」
「二十年、二十年――ある、当時の公王弟が謀反を起こして、一族郎党処刑されてる!」
近隣諸国の情勢や事件は家庭教師に習っている。
人差し指でこめかみを叩いて、薄れかけていた情報を雑多に押し込めていた記憶の棚から引っ張り出し、オーリは早口に叫んだ。
三代前の公王の実妹が降嫁した家が、二十年前、当時の公王弟に娘を正妃として出している。
公王弟は身分の低い庶子の血筋で、王座継承には名前も上がらなかったそうだ。それがコンプレックスになっていたのか、公王弟は正妃と正妃の実家を代表とするいくつかの新興貴族を巻き込んで、近年最大規模の謀反を兄王に仕掛けた。
長年の鬱屈を込めに込め、余程に練り上げられた計画だったらしく、ルシャリでは随分と混乱が起きたらしい。
すわ政権交代かと当時はフヴィシュナまで緊張が走ったようだが、結果的に謀反は失敗し、当時の公王によって主立った関係者は全員処刑された。
公王弟の妻は正妃一人だけだったから、サラがその二人の娘と考えれば、年齢的にも辻褄が合う。
「サラさんが幼い頃に殺されなかった理由は、きっと保険のためだね。何があっても、ルシャリは王族の血を絶やせない。
だからサラさんは残されたんだ。引き継いだ王の血統の力を、封印する手間までかけて」
或いはそこには、当時の公王による憐憫もあったのかも知れない。赤子でありながら謀反人の娘となってしまった、哀れな姪への。
サラのいた修道院は国境付近だったと聞く。
謀反までやらかした庶子の血混じりの娘を、ルシャリの中心に近い監視の行き届く地域ではなく、わざわざ国境付近、それも環境の厳しく、権力者との関わりの薄い場所に送ったのは、サラを隔離して守るためでもあったのだろう。
「それに、ザレフの狙いも分かってきた」
「ええ。――取り込む気でしょう、サラさんを」
ザレフの刺客は、サラを殺すつもりがなかった。
一方ギルファギリムは、『サラを他所に奪われるくらいなら殺す』というスタンスだった。
推察するに、ザレフは己の国の血にサラの血を混ぜるつもりなのだ。
そうすれば、ザレフは正式にルシャリ王座の継承権を得る。大樹海の侵蝕を抑制する手段まで得たならば、最早ルシャリ併合に文句を言える者はどこにもいなくなる。
「サラさんを暗殺して、自分の国から人を送った方がルシャリを吸収しやすいのに、ザレフは面倒な手順を踏んでサラさんと婚姻しようとしてる。つまり、ザレフは大樹海侵蝕のからくりを知ってるんだ。ルシャリの王族が次々と死んだのは、ザレフのちょっかいのせいだった。公王の血筋が全滅しかけた頃にようやくエンジェ大樹海のからくりを知って、すごく焦ったんじゃないのかな。
――あと、一つ疑問なんだけど、先代公王には年端もいかない男児が一人だけ残っていたはずなんだよね。その子を擁立して傀儡にした方が手っ取り早いと思うんだけど、聞く限りそっちはほとんど警戒されてない」
「それはおかしいですね。まるでザレフがサラさんという人間に固執していて、尚且つルシャリの方でもそれを承知しているように見える。
ルシャリ王族だからといって、無条件に『資格』を持つわけではないということでしょうか? 封印を解いたサラさんが確実に持っている『何か』を、その男児は有さない確証があるんですかね」
「――ちなみに」
低い美声で口を挟まれて、子供たちははっと顔を上げた。
完全に存在を忘れていたローランドが、微塵の動揺も見せない顔で二人を見下ろしている。
不穏すぎる単語をいくつも含んだ会話など全く聞いていませんでしたよ、という顔で、男はマイペースにジョッキを傾けていた。
――ただその瞳だけが、何の温度も、感情もない。
「ルシャリは昔から農業が盛んで、その公王は緑の手と呼ばれている。食糧自給率の低いザレフにとっては、組み込みたい人種だろう――如何なる手段を用いても」
返す言葉の見つけられない子供たちを眺めて空になったジョッキを起き、ローランドは立ち上がった。
ちゃりん、と投げ出したコインは、ここの支払いをするには充分な金額だろう。
「お前らがどこまで知ってて、どこまで関わってきたのか、詳しいことは聞かん。だが、随分と聡い頭を持っているようだ――選択肢を間違えるなよ。国と国との諍いは、一歩踏み外せば奈落だ」
そう言い残して、ローランドは無造作に店を出ていった。
表の喧騒は、いつの間にか止んでいた。