141:底の底まで、どうか見せて
ラトニとサラを担ぎ上げ、脇目も振らず逃げ出して。
麓まで降りたところで、ようやくオーリは足を止めた。
人二人抱えて全力疾走したせいで、流石にオーリも息が荒い。膝を突いて熱い呼気をぜひぜひ吐き出すオーリの背中を、ラトニがせっせと撫で摩った。
ただしラトニの方も、手加減なしに揺さぶられたお陰で顔色が悪い。
時折うぷ、と吐き気を堪え、それでも甲斐甲斐しくオーリの口元に水を差し出すのは、ギルファの殺気に真っ向晒されたオーリの精神がごりごり削られる様を間近で見るしかできなかったからか。
「――サラさん、ちょっと話して欲しいことがあるんですけど」
腹の底から何度も呼吸を繰り返し、柔らかな魔力がじんわり染みた水を喉に流して。
ようやく落ち着いたオーリは、隣のサラへと声をかけた。
ラトニよりもっと顔色を悪くして、本日二度目の強烈な乗り物酔いに吐く胃液すら尽き果てた顔のサラは、無様に寝転がっていないのが精一杯といった風情だ。
ラトニが水を差し出せば、余程喉が渇いていたのか、それでも手を動かすのも億劫な様子で、のろのろ口を付けて飲み干した。
「ザレフの病気のワクチンを作れるサラさんをザレフの人間が妨害するのは、まあ分かります。どこにだって利害の対立はあるし、自国民の損得を度外視する権力者なんか沢山いる。
でも、フヴィシュナが関わっているとなると話は別です。何故この件に我が国の上級貴族が――しかも恐らくは、『シェパ領主に程近い位置にいる人間が』関わっているんですか?」
ぴく、とラトニが反応した。探るようにこちらを見てくるラトニを、オーリは見ない。サラだけに視線を固定し、その一挙手一投足まで分析しようとする。
少女が脳裏に描くのはギルファの姿。飄々と掴めない顔で笑うあの男を探るために、オーリはずっと対策を考えていた。
「ギルファの『魔術封じ』――あれは並の魔術師にできる真似じゃない。少なくとも魔術師単体では。だからその仕組みを知るために、あいつの姿を見た瞬間に、私はあいつに幻影を被せておいたんです」
黒石の魔術具。まつろわぬ影の眼。オーリが有する切り札の一つ。
このアイテムに関しては、ノヴァも大したことを教えてくれなかった。教えられない理由があるのか、ノヴァ自身も知らないのかは分からない。
ただ分かっているのは、この黒石の所有者がオーリであるということで、黒石が幻術に関して桁外れの力を持っているということで――それだけ分かれば、今回は充分だった。
「ギルファに――厳密にはギルファの周囲に、極小の羽虫の幻を作って飛ばしてありました。あれなら視界に入っても、ただの虫だと誤認させられていたはずです。ましてやここは特異な土地、多少の違和感は勝手に理由をつけて納得してもらえる」
ギルファが魔術封じを使うと同時に、被せた幻影は打ち消される。ちらりちらりと舞う小さな虫が、一番先に消失した場所は――ギルファの右足首。
「あいつの靴の、右足首にだけ飾りがついていました。編み込みの紐みたいだったけど、おかしなものが使われていた」
――多くの上級貴族がそうであるように、ブランジュード侯爵家にもまた、御家固有の特異な事業というものがある。貴族社会で自らの優位性を確保するため、或いは他家との取引材料とするために、門外不出を定められた、御家の貴重な財産。
ブランジュードの抱えるそれの中に、特殊な植物繊維を使った織物がある。
ブランジュードの特権を認められているそれは、原料となる植物の栽培から織の技術まで、全てをブランジュードが独占しているものだ。
オーリの衣装や所有物にも、あちこちにその織物が使われている。
繊細な造作、手触り、色彩。物心ついた頃から間近で見慣れたそれを、オーリが見間違えることはない。
「――ギルファの飾り紐には、間違いなくブランジュード家独占品の織物が使われていました。あれを加工するのも流通させるのも、全てはブランジュード家にしか――ブランジュード現当主にしかできないことです」
ラトニが眉間の皺を深くした。サラとオーリを見比べ、低めた声で問いかける。
「流出した、ということは? それなら、ブランジュード家の直接関与が確定したとは言えませんよ」
「あの織物はブランジュード固有の技術、絶対に他家に流出させちゃならないものだよ。これは百年以上も前から国と国王に認められてる権利なの。そんな技術を盗み出せるほどの能力がある人間が、横紙破りのリスクを理解できないわけがない」
「ただの産業スパイでは収まらないレベルの話、ということですか。貴族となれば、王家を敵に回すことは死んでも避けたいはず……ならば、王の認めた権利に正面切って喧嘩を売るようなことはできませんね」
「ん、そういうこと」
ついでにもう一つ、ここでは――厳密にはサラの前では言わないが、ブランジュードの関与を決定的にする根拠がある。
ギルファの右足首の飾り紐。あれには一つ、小さな金属のプレートがついていた。
一見何の変哲も無い飾りだが、そうと認識して見ればオーリには分かる。
あれは家紋だ。大分形を崩して、ついでに他のデザインを組み合わせることでただの飾りのように見せかけた、ブランジュード家の家紋だった。
(あれさえなければ、ギルファかギルファの雇い主が、普通にブランジュードから飾り紐を購入したとも考えられるんだけど……)
家紋なんてものが使われている以上、それは絶対にあり得ない。いくら崩したって、元が侯爵家の家紋、国に与えられた権威の証だ。無断使用が発覚した時点で、侯爵家と国が面子に懸けて潰しにかかる。
つまり、あれをギルファに与えた誰かは、この一件にブランジュードの――フヴィシュナ南方領筆頭領主の関与を示唆したいのだ。
侯爵家の家紋が『単体で』使われていないあたりを見るなら、ギルファによるサラ暗殺の雇い主が侯爵家である、という可能性は低い。しかし、よしんばサラの襲撃自体が侯爵家の意向でなかったとして、もしも黒幕の正体が露見しても、黒幕は侯爵家を敵に回さず、逆に味方にできるとさえ判断している。
今頃他国との折衝に頭を悩ませているであろう王の不興を厭わない――否、これではまるで、『王族すら味方につけ得る』と言わんばかりではないか。
「つまりギルファの雇い主は、『己の背後にはブランジュードがいる』と主張しているんですよ。さて、これは一体どういうことでしょう。王への叛逆すら恐れない貴族の存在、洒落にならない権力者の影、警備隊の介入すら恐れるあなたの態度――目が泳いでますよ、サラさん。あなた、『フヴィシュナの権力者が』『高確率で敵に回り得ると』『最初から確信していましたね』?」
口調を鋭くして切り込んだオーリに、サラの肩がビクッと震えた。
目を合わせずに縮こまるサラの態度は、予想外の事実が発覚したことによる動揺、ではなく、知られたくなかった事実を知られてしまったが故の焦燥だ。
「……サラさんの持っている『ワクチン』の案件は、確かに国際的な重要事項ではあります。けれどそれ故に、『強大な権力を持つ者』への牽制と不介入、或いは味方につけることを期待できるものだった。でもこれでは話が違う、他国の権力者ならともかく、僕らが今いるこのフヴィシュナで、フヴィシュナ大貴族の敵を作るリスクは計り知れない」
ラトニがゆっくりとサラに向き直った。オーリの出方を窺いながら、口元に指を当てて思考を紡ぐ。キリ、とサラが唇を噛んだ。
「――あなたの抱えている問題は、ワクチンだけではないんですね? そのワクチンには、もっと直接的にフヴィシュナの利権に関わる話が隠れているんじゃないですか?」
サラの青褪めた頰を、つ、と汗が滴って――
そうしてサラは項垂れた。前髪をぐしゃりと掴んで、全身の酸素を絞り出すような溜息を吐く。
「――……分かりました。でもその代わり、誰にも言わないでくださいよ?」
口約束にしか過ぎない保証にそれでも縋るサラは、以前、どうしたらいいのか分からないと呟いた時と同じ、疲れ切った目で笑ってみせた。
※※※
「ザレフも割れてるってことは、リアちゃんたちも分かってるのよね? 実は浮島に関して、ザレフが所有権を得たいって意見はそんなに強くないんです」
語り始めたサラの口から出たのは意外な情報で、オーリは目をぱちくりさせた。
「え、なんでですか? 浮島って、三国で取り合ってる印象があったんですけど」
「肝心の、浮島の植物がね。ザレフ近辺じゃうまく育たないんです。推進機関で島自体は移動させられても、そこからの環境はやっぱり島の位置に大きく影響するから。だからザレフは、浮島を自分で取るよりフヴィシュナに持たせておく派と、浮島をルシャリに持たせてワクチンを作らせる派が優勢なの」
「それでも、自分たちが浮島を取りたいという意見もあるんですね。薬草採取に使えない浮島に何の価値が?」
「あそこは昔から精霊の力に満ちた土地だと言われているから、可能なら手元に欲しいんじゃないかしら。ザレフは国内にそういう場所が少ないから、手放したくないんですよ」
魔術師の不足、古い精霊の力の減少。それらはあちこちの国で問題視されている。
魔術師不足を懸念した国が、魔力持ちの子供を他国から誘拐するような事例すらあるのだ。軍事大国であるザレフなら、敏感になってもおかしくない。
「あの、サラさん。フヴィシュナに浮島を持たせておいてもいいってことは、もしかしてフヴィシュナも薬を作れるんですか?」
「はい。と言うか、今も作って輸出していますよ」
マジでか。知らなかった。
「ただしフヴィシュナが作れるのは、病気が発症してから飲むものですし、勿論全ての病人に効くわけではありません。一方、我がルシャリが開発したのはワクチンなので、発症自体をほぼ百パーセント抑えられます。
どちらにしろ、浮島固有の植物を材料に使わなければならない点は一緒ですが――ワクチンの方は、たとえレシピが分かったとしても、フヴィシュナの者には――いえ、新ルシャリ公国の、特定の人間以外には、絶対に作れません」
「……誰なら作れるんですか? いえ、聞き方を変えましょう――『その特殊な薬を作れるあなたは』『一体何者なんですか?』」
ラトニの問いに、ぐ、とサラが胸元を握り締めた。
その手がゆっくりと服の下に伸び、首飾りを引き出す。中心に白い石の嵌った、美しい銀鎖の首飾り。
王族にしか扱いを許されないというそれをじっと見て、サラは静かに苦笑した。
首飾りを握り締め、子供たちに向き直る。
「わたしはサラです。姓のない、元修道女。そして今は、まだ王族でこそありませんが、我が祖国である新ルシャリ公国、その次期公王という立場についています。
ザレフに送るワクチンを作れるのは、ルシャリの王族だけなんです」
――流石に思考が止まった。
とんでもないカミングアウトに子供たちが、特にオーリが硬直する。
貴族の生まれであるオーリは、幼い頃から目上への、特に王族への敬意を叩き込まれている。
それは他国の王族が相手でも変わりなく、無意識に膝をつこうとした動きをラトニが無言で止めた。今はそういう状況じゃない。
「王族ではない、というのはどういう意味でしょう」
努めて冷静な声で、ラトニが問いかけた。
サラは首飾りをしまい込み、己の髪をつまんでみせた。灰色がかった薄い黒の、艶やかではあるがざっくりした三つ編み。
「ルシャリ王族の血を引いていることは確かなんだけど、わたしのそれは――厳密には『ルシャリ王族の血が継ぐ力』は、幼い頃に封印されてしまったんです。封印前は、髪も目もこんな色じゃなかったそうなんですけど……」
流石に覚えてないですねえ、と彼女は笑った。
幼い子供の身に封印がかかり、纏う色彩まで奪われるとはどういう気持ちなのか、オーリには分からない。
ただ恐らく、それがどんなに屈辱的なことであったとしても、彼女を庇って止めてくれる大人はいなかったのだろう。そうでなければ、物心もつかない子供が険しい土地にある修道院に送られるなんてこと、起こるはずもないのだから。
「他に後継者がいないとは言え、封印がかかっている状態のわたしはあくまで『次期公王候補』でしかないんですよ。ワクチンを作ることくらいはできますが、『それ以上』を行う技能がない。だからわたしはまだ正式な『王族』ではなく、ルシャリにいても戴冠することはできないというわけです」
読めてきた、とオーリは呟いた。
「ルシャリ公王に後継者がいないって噂は知ってます。だから、昔何らかの理由で修道院に追いやられていたサラさんが引っ張り出された。『まだ王族じゃない』ってことは、つまり封印を解いて公王になる気があるってこと。その『封印を解く』作業――もしかして、浮島が必要なんじゃないですか?」
ラトニが小さく唾を飲み込んだ。
何も答えずに目を泳がせるサラに、オーリは答えを確信する。――成程、サラがしばしば浮島を気にしていたのは、薬草の他に、管理体制や警戒線の存在を知りたかったからか。
浮島に関連したサラの役目は二つ。ワクチンを完成させること、そしてその身の封印を解き、ルシャリにて公王となる資格を手に入れること。
「なら尚更、どうしてサラさんが自ら来たんですか? いくらワクチンを作れるのが彼女だけだったとしても、彼女は唯一の後継候補なんでしょう。彼女を国に残して、人を寄越す方がリスクが低いはずです」
「……いや、公王の後継者がいないことに焦った誰かが急にサラさんを修道院から引っ張り出してきたとすれば、国内にもまだ反対派はいるんでしょ。それに、フヴィシュナ内にもこれだけ事情が漏れてるんだよ。サラさんの存在自体がバレた以上、ルシャリ国内に留め置く方が危険だったんじゃないかな」
「その通りです……。わたしを公王候補に担ぎ出した宰相様が今も国に残って折衝を続けているけど、最低限、わたしに封印がかかった状態を何とかしないとどうにもならなくて。本当は国から出るのも難しかったんだけど、どうやら最近ロズティーグ王国でごたごたがあったらしくて、ルシャリへの影響力が落ちた隙にわたしだけが脱出できたんです」
封印状態でもワクチンは作れる。ワクチンをもってザレフを取り込めば、浮島の所有権に関して、フヴィシュナに圧力をかけることができる。ザレフとの繋がりができれば、ザレフ絡みで何かとルシャリにちょっかいをかけてくるロズティーグ王国への牽制にもなるだろう。
見事だ。これを全て果たしたならば、単独国を救ったサラは、この上もない功績を引っさげて公王の座に迎えられることになる。
(そうなれば、ザレフに輸出する薬で儲けてるフヴィシュナの貴族だか商人だかは大損間違いなし。加えて精霊の力に満ちた土地である浮島も持って行かれることになるから、確かに強硬派ならサラさんを殺してでも阻止しようとするね。たとえ事実上の次期公王だろうと、今はまだ王族ですらない候補に過ぎない――だとしたら、相手は随分とルシャリの事情に詳しそうだけど)
がり、と固い音を立て、親指の爪を噛む。久し振りに出た癖を、今は気にする余裕はなかった。
恐らくラトニは、オーリの心情に気付いているのだろう。先程からちらちらと気遣わしげにこちらを見てくる少年は、きっとオーリの中で選ばれつつある選択肢を悟っている。
――じわりと込み上げるような吐き気がした。
全ての話を終え、オーリたちの返答を待つサラを、唇を噛み締めてちらりと見上げた。
一度目を閉じ、心を決める。ラトニは何も言わず、ただオーリの言葉を待っていた。
不安げな、それでも抱え込んでいた秘密を粗方吐き出した安堵を微かに滲ませたようなサラの目を、オーリは真っ直ぐ見上げて言った。
「……ごめんなさい、サラさん。私たち、これ以上サラさんに協力できない。自分勝手で心から申し訳なく思うけど――あなたの事情を聞いたこと、あなたを助けると言ったこと、全てなかったことにして欲しい」
サラの顔が凍りついた。
ラトニが小さく目を伏せ、オーリの手をそっと握り締めた。