138:壁がいちまーい、壁がにまーい
少しばかり離れた場所に移動して、空き箱を椅子に腰を下ろし。
行き交う人の流れを前に、時間をかけて聞き出したサラの話の内容に、オーリは目一杯眉間に皺を寄せた。
「――ワクチン、ねぇ……」
膝に頬杖をついて下唇をひん曲げ、親指の爪を軽く噛む。
隣のラトニも心なしか雰囲気を険しくしながら、低く唸るような声を上げた。
サラの母国――新ルシャリ公国で開発されたワクチンの、完成と公表。端的に言えば、それがサラの目的だった。
ただし、そのワクチンが効果を及ぼす病気は、新ルシャリで発生しているわけではない。
名にし負う軍事大国にして新ルシャリ最大の敵対国家――ザレフ帝国で、定期的に発生する流行病である。
「そりゃヤバいわー。新薬とくれば利権の話がめんどくさいって、相場が決まってるもの。しかもまだ未完成なんでしょ? そりゃここぞとばかりに邪魔が入りますよ」
「既得権益からすれば目障り極まりないに決まってるんですから、 正式発表前に情報が洩れたのはまずいですよ。現に妨害が入りまくってるようですし」
「ううう、返す言葉もない……」
現在ザレフ帝国は、独立宣言した元植民地である新ルシャリを再び旗下に戻そうと、あの手この手で圧力をかけてきているところだ。
もしもワクチンを完成させることができたなら、新ルシャリはザレフに対する大きな切り札を持つことになる。
幸い、植民地時代に苦労した新ルシャリには、開戦を厭う者が多いそうだ。
薬一つでザレフの脅威を抑えられるのなら、ザレフを弱体化させる要因一つ、消してやっても良いと考える程度には。
「ルシャリで作ったベースのサンプルに、この街で手に入る薬草を調合してワクチンを完成させるはずだったんです。どこから話が洩れたのか、ザレフやロズティーグの妨害から必死で逃げて、護衛をつける余裕もなく、わたし一人でルシャリから王国フヴィシュナまで赴いたというのに……」
肝心のサンプルはギルファギリムと名乗った暗殺者に割り砕かれ、必要な薬草は手に入らないというわけか。
返す返すも、完成前の情報洩れが致命的に痛い。ルシャリにも間諜や開戦派はいただろうし、或いはそちらの邪魔が入ったのかも知れない。
「あの、リアさん、ロズティーグというのは?」
「ああ、ルシャリと並んで、ザレフにちょっかいかけられてる元植民地。ロズティーグは若干ルシャリを盾にしてるとこあるから、ルシャリだけザレフと講和しちゃうと困るんじゃない?」
「だからワクチン公表の妨害、あわよくばサラさんかワクチンを押さえて、自分たちの切り札として使いたい、というところですか」
「かもね。戦闘能力もサバイバル能力もほぼ皆無なサラさん一人で送り出したってことは、その薬は作れる人間が極めて限られる――多分、現時点ではサラさんだけか、いても表立って動けない人間だけなんじゃないかな」
「ああ、そりゃ狙いますね。替えのきかない人間なら、捕らえて薬を作らせるも良し、ザレフに売るも良し、ルシャリに身代金を要求するも良し。僕だって全力で狙い撃ちします。それで、ザレフの方もやっぱり薬目当てということですか?」
「多分。あーでもザレフなら、ワクチンさえできればルシャリの方から取引を持ちかけてくるんだよね? 対価は必要とは言え、放っておけば安全に手に入る予定の薬を、台無しにしちゃう危険も顧みずに刺客送るっていうのは、ちょっとおかしい気もするけど」
「ルシャリと同じように、ザレフだって一枚岩とは限りませんよ。開戦派と講和派に分かれていると考えれば説明がつきます」
「成程、ルシャリとの講和が成れば、後者の派閥が一気に発言力を増す……それを面白くないと思う連中がいるわけか」
「その場合、病に苦しむ国民を切り捨てる方策を選んだことにもなりますけどね」
蔑むようにラトニが吐き捨ててから、「問題は、ギルファギリムがどこの手の者かですよ」と呟いた。
「他勢力にサラさんを渡すくらいなら、殺しても良しと決めた勢力かぁ……。対ザレフにおいて、ワクチンは特大の切り札になる。サラさんがこれまで何とか追撃を逃れてこられたのって、『殺しちゃいけない』っていう相手の枷を利用できたからだと思うし、なら一番の懸案要素はやっぱりギルファ?」
「別の刺客をあっさり殺してたあたり、万一所属がバレて他所と事を構えることになっても構わないと言われているのかも知れません。とすると、雇い主は余程の力か、切り札を持っているかってことになるんですけど……」
「単なる破滅主義の可能性もあるから、他の刺客にぶつけたりして下手に利用すると、被害拡大しかねないよ。刺客は退けたけど戦争が起きた、なんてことになったら寝覚め悪いでしょ? たとえ名前も知らないような国同士だったとしてもさ」
「あなたたち、本当に話が早いですねぇ……」
二人でさくさく話を進めていく子供たちに、サラがどんな表情をすれば良いのか分からないと言いたげな半笑いをしている。
サラが敢えて話さなかったことまで勝手に推察していく(そしてサラが考えなかったような仮定までツルツル出していく)ので、当事者としてはなかなか立つ瀬がない。
「サラさんが情報の取捨選択下手なんですよ。こういう駆け引きしたことないでしょう」
「あああ、グサグサ来る……」
例えば警備隊のイアンなんかは、好き放題情報を探らせているように見えて、本当に知られたくない所はきっちり締めてくる。
そういう時はオーリたちも空気を読んで踏み込まないから、うまく持ちつ持たれつの関係が保てているのだ。
――『知らなくて良いこと』『知らない方が良いこと』なんて、世の中存外溢れている。
「ええと、ともかく今は、一から材料と調合場所を工面しないとならないんです。わたしの預けられていた薬はワクチンで、今までみたいな対症療法じゃなくて病気の伝染そのものを抑えられるから、公表さえできれば確実に既存品より売れるの。幸いレシピは全て覚えてるんですけど……」
「その材料入手を、最有力候補の商業ギルドに断られた、と」
「うううううう」
サラの上半身が崩れ落ちた。膝に顔を伏せてしくしくと泣く彼女に気の毒そうな目を向けながら、オーリは「うむー」と難しげに呻く。
作りかけのワクチンを、もう一度ルシャリから取り寄せる――駄目だ、必須条件である転送魔術陣を、商業ギルドが使用拒否している。
商業ギルド支部長の態度を不公正として、ギルド本部にねじ込む――これも駄目だ、真面目に対応してくれるにしたって、内部調査はきっちり手順を踏んでくるだろう。終わるまでに時間がかかり過ぎる。
いっそ裏をかいて、サラに協力的なザレフ王族に何とか繋ぎを取るか? 要求できる対価は少なくなるだろうが、ワクチンの完成を餌にしてバックアップを依頼――駄目だ、うまいこと一発で和平推進派に繋げないと、開戦派に察知されて詰む。
「……ねーサラさん、都合良く物凄いお偉いさんの後ろ盾とかいません? 商業ギルドに権力者アタックでゴリ押しかける戦法が一番手っ取り早いんですけど」
「リアさん、面倒臭くなりましたね? ……そう言えば先日偶然知ったんですが、サラさんの後ろ盾って王族関係者らしいですよ。僕、彼女がルシャリの王族にしか扱えない首飾り持ってるの見ました」
「すんごいあっさりバラされた!? あの時はあからさまに興味なさそうだった癖に!」
以前、ラトニが商業ギルドの前で目撃したサラの首飾りに関しては、特徴を告げればノヴァがあっさり教えてくれた。
貸与にしろ授与にしろ、王族にしか行うことを許されない代物であると分かった時は若干驚いて一秒間ほど瞬きの回数が増えたが、その後はスッパリ記憶の端に追いやっていたものだ。
「え、何それ、問答無用のトップじゃない!」
慄くサラの声を押しのけるように、やる気なく猫背になっていたオーリが目を見開いて飛び起きた。
「王様の命令で出向して来てて、証拠の首飾りもあるんでしょ? なら、それをシェパ支部長に提示すれば良いですよ! シェパ支部と若干の遺恨が残る危険はあるけど、元々商業ギルドは公正中立を掲げてるんだもの、支部長だって迂闊に本部に報告するわけにはいかないよ」
意気込んで提案する少女に、しかしサラはしょんぼりと首を横に振った。
「駄目です。一度は考えましたけど、実はそれって、『やっぱり突っぱねられた』時のリスクがとても高いんです。ルシャリ内ならともかく他国ですし、何より『王族ではない』私には、そもそも何の権限もないの」
「突っぱねられれば引くしかないが、そうすれば今度はルシャリやルシャリ王族の権威失墜を喧伝することになりかねない、ですか。それにリアさん、今、ルシャリの王様って……」
「――あ」
くいくいと袖を引っ張られて、オーリはすとんと再び腰を下ろした。
――そうだ、今、ルシャリは――
(公王不在、だ)
噂に聞くルシャリの空位を思い出し、オーリの表情が困惑に顰められる。
確かにそれでは権威もあるまい。公王不在の国の王族の後ろ盾を振りかざすなど、阿呆らしいことこの上ない。
一方、ならばサラに首飾りを与えたのは誰か、という疑問はあるのだが――
「道理で、国の重要案件なのに出向員が現地でバイト探すほど金欠なはずだ……」
溜息をつくオーリに、サラがしょんぼりと肩を落とした。
「商業ギルドの荷物送付魔術を使って、何とかルシャリからワクチンの未完成品を取り寄せようかと思ったんですが、それもできず……。一から調合するのは難しいから、魔術陣の空きが出ないか、ギリギリまで待つ気ではいますけど……」
「――材料も魔術陣の空きも、あなたの手には入りませんよ」
唐突に割り込んできた声に、一拍置いて三人は一斉に振り返った。
どこから話を聞いていたのか、少し距離を置いて、先程会ったばかりの男が佇んでいた。
商業ギルド副支部長。白い制服姿の彼は、感情の読めない顔でこちらを見据えている。
「サラさんに対しては、支部長の命令であらゆる助力を制限されていますから。どれだけ待とうとワクチンは作れません――作らせません」
「そっ……!」
冷酷な事実を突きつけられたサラが、一瞬で血の気の引いた顔になる。
反射的に食ってかかろうとした彼女の手を引き下がらせて、代わりにオーリが立ち上がった。少し帽子を引き上げて、少女は明るく澄んだ灰色の双眸を男に向ける。
「落ち着いて、サラさん。――ねえおじさん、おじさんはそのギルド支部長の部下なんでしょう? どうしてそんなこと、わざわざサラさんに教えてくれるんですか?」
「……お嬢さんは? 東方からの旅行客か何かですかね?」
大人を押しのけて前に出てきたオーリに怪訝そうな目を向けて、副支部長は微かに首を傾げてみせる。
幼子の指示に素直に従い、下げられるまま異論を挟む様子もないサラに、対応能力は信用されているようだがと考える。
「サラさんの知り合いで、ただの協力者ですよ。それでおじさん、服に大して乱れたところもなくて、私たちを探し回った様子がないってことは、サラさんがギルドを離れた時、どっちに向かうかを確認してから、時間を置いて追ってきたんでしょう? ギルドを抜け出して個人的な接触を持つなんて、支部長の意向に反することだと思うんだけど、大丈夫なんですか?」
「随分と聡い子供ですね……心配せずとも、私はこれから会合に向かうところなんですよ。伝えるべきことは伝えたので、もう仕事に戻ります。サラさんが何度もギルドに来ると、支部長の機嫌が悪くなるんですよ」
だからもう不用意に来ないでくださいね、と言い残し、副支部長はそのままさっさと立ち去ってしまった。
本当にあの短い『忠告』のためだけに顔を見せたらしいと分かって、サラが悔しそうに奥歯を噛み締める。
「――や、でも、今ので結構色々分かったよね」
白い制服の背中を見送ってそう告げたオーリに、サラは「え?」と驚いた顔をした。
空き箱の上で足をぶらぶらさせながら、ラトニも「はい」と頷く。
「商業ギルドの主義からすれば違反ギリギリの命令を、支部内だけとは言え大々的に出すということは、やはり支部長の裏にはそれなりの権力者がいますね。最低でも上級貴族レベルでしょう」
「あと、その目的とかね。詳しい事情なんてサラさんは説明してないだろうに、それでも副支部長は、サラさんが作りたいものを『ワクチン』だと分かってる。あまつさえ、こうも堂々と妨害してるってことは――やっぱりサラさんを邪魔してる支部長や後ろ盾の貴族(仮)は、薬の既得権益と密接に関わりがある立場だ」
ザレフで定期的に病が流行るということは、その病の薬にも、定期的に大量の需要が発生するということだ。
薬の販売に商業ギルドや後ろ盾貴族(仮)が関わっているのなら、ルシャリが権益を独り占めする新薬の存在なんて、そりゃ目障りに決まっているだろう。
――それから、もう一つ。
(あの副支部長は、支部長のやり口に賛同していない)
わざわざ自らの足で出向いてくれたことといい、情報を抜き取れるような言い回しで忠告してくれたことといい、支部長・副支部長の間には確実に亀裂がある。
突っついた場合にどうなるかは分からないが――今はとりあえず、新たな手札として認識しておいても良いだろう。
機会があればこちらから接触することになるかも知れない、と思いつつ、オーリはとりあえずその情報を、頭の隅へと丁寧にしまい込んだ。