14:傍付き侍女の呟き
アーシャ・マクネイアは今年二十五歳になる、館の中ではそれなりに立場のある侍女だった。
彼女の役割の中で、最も重要なのは傍付きの仕事だ。アーシャが傍付きを勤める主の名を、オーリリア。ブランジュード侯爵家の一人娘であるこの少女は、日頃より然程両親に構われない環境にあり、従って館の誰よりもアーシャと接する時間が長かった。
この家の当主夫妻は、結婚当初より互いに興味を持たない夫婦だった。婚姻は完全に政略上のものだったらしく、今は奥である御方が嫁いでこられて二年で娘を産んでからは、彼らが館に寄り付くこともあまりない。
当主は領地だの王都だので好きに遊びを楽しんでいるし、奥方は奥方で気に入りの相手を見つけては、貴族の嗜みを理由にひっきりもなく足を向けている。
故に、この分だと次子が――引いては男児が産まれるかは非常に怪しいものだというのが、使用人たちの考えだったりする。そうなった場合、いずれは婿を取ってこの館と領地を継ぐであろうオーリリアお嬢様が、このまま真っ直ぐ素直に――勿論貴族として適度に強かに――育ってくれるか否かは、彼らにとっても重大な関心事だった。
そして、そんなお嬢様は使用人たちに懐きつつ、日々探険に読書にと、子供なりに忙しい時間を過ごしている。現在は可愛らしい顔を至極真面目に引き締めて、自室のテーブルに向き合っていた。
「……お嬢様、何を描いておられるのです?」
「しゃーらっぷ!」
足音を立てずに背後へ近寄り、ひっそりとそう囁きかけたアーシャに、ガリガリとペンを動かしていたオーリは奇声を上げて振り向いた。
「あ、アーシャ。あの、これはその」
時々発する奇怪な鳴き声はどうかと思うが、おたおたしながらアーシャと紙面を交互に見るオーリの姿は、飼い主に悪戯を見つかって慌てる子犬のようで、正直かなり可愛かった。全力で撫で回したい、と思いながら、それを抑えてアーシャはにっこりと笑いかける。
どうやら己の傍付きが怒っていると判断したらしく、顔を引きつらせたオーリは数秒の沈黙の後、隠そうとしていた紙を悄々と差し出した。
「……お嬢様、これは何でしょう?」
「……ま……マンボウです」
「……モンスターですか?」
「泳ぎが下手すぎて捕食されまくったり、水の冷たさに耐え切れなくて凍死したりする、生存率三億分の数匹の哀れな魚です……」
凄まじい死亡率だな、とアーシャは思った。
やたら平たい作りの魚は妙な愛嬌と不気味さが混在していて、アーシャが見たことのないものだ。絵本にでも出てきたのだろうか、と考えながら、アーシャは困ったように苦笑した。
(尾鰭がないのは描き忘れかしら? 想像上の生き物にしては、細部がしっかりしてるけど)
アーシャの可愛いお嬢様は、基本的に勉学に関しては真面目だし、よく言い付けを聞く利口な良い子だ。けれどやはり幼さ故か、こういった手遊びに走ることも儘あった(実際には単なる習性である。前世のオーリは、教科書の織田信長にネコミミを描くような学生だった)。
それを面白がっているなどと、正直に言うわけにもいかないが。
(絵に音楽に御伽噺。刺繍が苦手なのは残念ですが、実際なかなかに才能豊かなんですよねぇ……)
殊に芸事に関しては、少しデフォルメが過ぎるがきちんと構成の成った絵を描くし、教えてもいない歌曲を――恐らく自作して――歌っていることさえある。
アーシャは新入りメイドのノウラが、オーリの描くやたら垂れた顔の白黒のクマ(オーリは「とけぱんだ」とか呼んでいた)に惚れ込んで大事に保管していることを知っているし、厩勤めのハンスが、オーリの散策の度に聞こえてくる歌声(先日は、何故か昼間なのに「月が出た出たヨイヤサァ」と歌っていた。当然だが、月はまだ出ていなかった)に、微笑ましい顔で耳を欹てていることも知っていた。
度々メイドをいびっていた高飛車な家庭教師を相手に、聞いているだけで背筋が冷たくなるような怪談話を見事な語り口で紡ぎ上げ、最終的に辞表を出させたのは――正直でかしたと思ったゴメン(その教師はしばらく眠る時も灯りを消せなくなったと聞いた。いびられたメイドたちが、オーリの名を呼んで万歳三唱していた)。
それは勿論、近い立場が故の贔屓目であるのかも知れない。或いは創造力に富む子供時期特有の、一過性のものに過ぎない才能であるのかも知れない。
けれど、それが分かっていても尚アーシャは「ウチのお嬢様マジ天才」と思っているし、使用人仲間たちとて似たようなことを思うからこそ、ちょこちょこアーシャの目を盗んでオーリの行動を楽しんでいるのだ。
「お嬢様、隙を見て続きを描かないでください」
「もうちょっと! このラインだけ!」
素直だがいまいち懲りない娘である。アーシャはオーリが仕上げの線を終えるのを待ち、無言で紙を取り上げた。ああ、先生への言い訳、どうしよう。
(やっぱり、甘やかしちゃうから懲りないのかしら)
けれど、もしやオーリが奇行に走るのは寂しさ故なのかも知れないなどと考えてしまえば、頭ごなしに止めさせることも出来なかった。
やはり生みの親でないと、幼い子供の心の隙間を埋めてやることはできないのだろうか、なんて。
既に親を恋しがるような可愛げを失っているオーリの行動が完全に素であり、従ってそんな憶測が全くの杞憂に過ぎないなどとは知る由もなく、アーシャはそっと真剣な顔で主を案じる。
――ちなみにオーリは己の「異端」を知られることについては極端に恐れるが、実はその範疇に入りさえしなければ、存外言動ははっちゃけていたりした。
自我が生じてからの四年間、己の本質をひた隠しにして生きてきた精神年齢十七歳は、「奔放な子供」として許される範囲を見極めるのが無駄に上手くなっている。尤もそうでもなければ、いずれ溜まりに溜まったストレスで爆発するか、胃に穴が空いていた可能性が高いのだが。
一方、そんなこととは露知らぬアーシャが、満足そうにニコニコ笑っているオーリを見下ろせば、大人に構ってもらいたがる寂しい子供(に見える)への哀れみがいや増して。
(でも、あの旦那様たちが傍にいたら、きっとこんな風には育って下さらなかったのよねぇ……)
初めてオーリと出会ったその日、ベビーベッドの中から無邪気に笑って己を見上げてきた赤子の姿を、アーシャは今でも忘れていない。
ふくふく柔らかな小さな体と、差し出した指を握り締めた温もりと。
あの日の赤子がかつての無垢を保ったまま、あの両親の影響を受けず良い意味で子供らしい爛漫な性格に育ったのは、アーシャにとっては極めて幸いなことでもあった。何せ火遊びを隠しもしないあの性格をそっくり真似た子供と日常生活を共にするなど苦行以外の何物でもないし、何よりあの愛らしい赤子が堕落した貴族に染まり切る所など、絶対に見たくはなかったのだ。
アーシャにとって、悪戯もするが素直で元気なオーリは、彼女が大切に守るに値する、『可愛いご主人様』だった。
実際オーリは、その容姿だけでも充分愛でるに相応しい少女である。くるりと大きな青灰の瞳は、よく感情を映して子犬のように愛らしい。加えてこの国でも上位に入る貴族の血は、あと五年もすればさぞかし麗しい少女へとオーリを成長させるだろうと思わせた。
(今は奔放なお嬢様ですが、社交界デビューをする頃にはきっと落ち着いて、誰にも文句を言わせない立派なレディになっているに違いありません。絶対そうに決まってる)
親馬鹿ならぬ使用人馬鹿が入っているが、それだけで済ませる気は微塵もない。
荒波のような貴族社会を渡り切って行けるほど強かに。けれど、誇りと責務を忘れぬ善き人として。
オーリがその両親とは違う方向に育ってくれるよう、アーシャは心から願っている。
にこ、と十八番の笑顔を顔に刷き。
未だ幼い小さな主を見下ろして、アーシャは話を戻すことにした。
「――さてお嬢様、この紙が先生から出された宿題だということは分かっておいでですね?」
奇怪な魚の描かれた紙をひらりと振って、アーシャはそう問いかけた。途端に現実を思い出したらしく、オーリはばつの悪そうな顔で視線を逸らす。
懲りるか否かは別として、オーリがアーシャの説教から逃げたことだけは未だ一度もなかった。子供は叱られるのを嫌う生き物だと思っていたが、やはり妙な所で律儀な性格だ、と頭半分でアーシャは考える。
「落書きをするのは宜しいですが、提出物にはお止め下さいませ。先日もそれで先生に怒られておりましたでしょう」
「あれは、先生に見せるものだってうっかり忘れてたんだよ……」
しょぼん、と肩を落とすオーリは、前回の授業で異様に手の込んだパラパラマンガを発見されて教師に怒られたばかりだ。どこであんなものを覚えたのだろう。
「折角先生も真面目な子だと褒めて下さっているのですから、お嬢様も期待にお応えせねばなりませんよ。絵を描きたいなら幾らでも紙を持って参りますから」
「気を付けるよ……ごめんね、アーシャ」
「……、……仕方ありませんねぇ」
きゅるん、とつぶらな瞳で上目遣いに見上げられて、アーシャはあっさり陥落した。
この辺オーリがラトニに「子供ぶりっこ」「化け猫」などと評される所以だが、がっつり騙され切っているアーシャは釣られて表情を和らげる。その愛くるしい子供が日々鏡の前で効果的な表情の作り方を研究しているなんて、知らなければ幸せなのだ。
「お勉強が続いて集中力が切れるお気持ちは分かりますが、もう少しだけ我慢して下さいな。……旦那様と奥様から、新しい絵本が届いておりますから、今日の分が終わりましたらお渡し致します」
ぱ、と見上げたオーリの顔が明るくなって、アーシャはだらしなく緩みそうになる顔を引き締めた。それでも少女の背後で犬の尻尾がパタパタ揺れているような幻覚が見えて、ついつい目尻が下がってしまう(ただしラトニの目にならば、ゆらゆら揺れる計算高い化け猫の尻尾が見えるだろうが)。
「ねえねえアーシャ、午後からはまた部屋に居ていい? おやつ持って籠もってもいい?」
「構いませんよ。今日はクッキーの予定ですから、食べ零しを床に落とさないようにお気を付けくださいね」
「気を付けるー」
「ああ、でもその前に、またお薬を塗らなくてはなりませんよ」
「えー。あれ沁みるから嫌い……」
むっすりと唇を尖らせるオーリに、アーシャは「我慢なさって下さい」と軽く窘めた。
昨日の朝、オーリが怪我をしたと自己申告してきた時には、アーシャは一瞬激しく肝が冷えたものだ。朝の散歩中に鳥を追いかけて転んだらしいが、大怪我にならなくて良かったと心底思う。
何かと一人でうろつく子供ではあるが、それでもオーリが怪我をすることは、これまであまりなかったのだ。この期に庭を走り回るなんてはしたないことは止めるべきかと考えつつ、言っても聞くまいと思ったので、アーシャは傷の手当てをしてやるにとどめた。
いつも素直で良い子なオーリは、時々とても頑固になる。今回のこれも、多分聞き入れてくれないタイプの我が儘だ。
或いは下手に庭や館の探索を止めて、塀の外に興味を持たれては困ると思ったのかも知れなかった。
「大丈夫だよ。すぐに治るって言ってたし、痕も残らないんでしょう? それならお父様たちも気にしないよ」
「女の子が怪我をすること自体が問題なのですよ」
貴族の子女がする怪我など、精々刺繍針で指を刺すくらいのものだ。己の体に傷が付いたことも気にせず平然と笑っているオーリに、アーシャは溜め息をついた。――私がターザンばりの移動方法取ってるなんて知ったらアーシャは卒倒するかも知れないなぁ、なんて、主が考えていることは勿論知らない。
「お嬢様、当分は大人しくしていて下さい。旦那様たちからのご伝言は覚えておいででしょう? その日は大事な日なんですから、それまでに治してしまいましょう。同じ所に怪我を重ねたりしたら、今度こそ痕が残るかも知れませんよ」
「はあい」
大人しく良い子のお返事を返して、オーリは素直に宿題に戻った。
ぺらりと分厚い本を捲り、文の続きを読み始める。
記されているものは、国の歴史に貴族年鑑、その特色に当主の顔。
時折手元の紙にメモを取り、またページを繰ってはペンを動かして。
「……お嬢様、歴代公爵の髪をアフロにするのはお止め下さい」
「はっ、つい反射的に!」
まだ切り替えが出来ていなかったらしい。
慌てて誤魔化そうとばたばた引き出しを引っ繰り返し始めたオーリに、アーシャは呆れと親愛を等分に含んだ顔で吐息を吐き出した。
お嬢様、白インクで修正しても、アフロが白アフロになるだけだと思います。
日頃一番近くにいる人間なので、オーリは自分の言動に鳥肌立てながらも、アーシャに対しては特に気合い入れて騙しにかかっている。そして自重する所としない所の落差がひどい。