130:彼女の覚悟
夜の間華やかに明かりを灯していたバー『ブルーマリン』は、しかし朝の日差しの中に古い木製の外壁を晒していると、幾分ぽつんと寂しげにも見えるようだった。
既に全ての客を送り出し、片付けも終えて従業員を帰した今なら、店に残るのは店主であるマリーと、臨時アルバイターとして部屋を借りているサラだけだろう。
何度かノックをしても返事がなく、どうしたものかと困ったオーリとラトニは、軽く押してみたドアに鍵がかかっていないことを知って顔を見合わせた。
数秒迷って、そろっとドアの隙間から頭を差し込む。ランプを消した薄暗いカウンターには、ほんのり煤けた二つの背中が並んでいた。
「――つまりね、良い男と変な女の夫婦はいても、良い女と変な男の夫婦って滅多にいないもんなの。女はその辺現実的だから、自分にメリットのある男しか選ばないけど、良い男ほど変な女を『可愛い』とか『自分がいてやらなきゃ』とか思って、がっちり引っかかっちゃうのよ」
「ええそうですね、マリーさん。あ、グラス空いてますね、追加しましょう」
「どうして男って、ああも変な女に騙されるのかしら……駄目な旦那にまともな嫁って、ほんと少数派なのよ。旦那と比べて相対的にまともに見えてるだけで、実は嫁にも旦那に輪をかけて変なところがあったりするの――ちょっとサラちゃん聞いてるのー?」
「はい聞いてます聞いてます。ほらマリーさん、今新しいの開けましたから、もう一杯如何ですか?」
「あらありがと、頂くわ……それとね、よくあるのが、旦那にろくでもない姑がついてきたりするケースあるじゃない? そういう時、旦那はまともなのになんて思わない方が良いわよ。そんなヤバい姑を許容してる時点で、旦那の人格にも問題があるの……そうよ、八年前だって、それが分かってりゃ騙されることなんてなかったのよ……クソ……腐れマザコン男……クソが……ふざけやがって……」
「うふふマリーさんったら地声が出てますよ。まあまあぐいっと、もう一杯如何ですか?」
『………………………………』
たちの悪い上司からの絡み酒に疲弊し切り、酔い潰すことで場を収めようとする下っ端サラリーマンの如き生気のない目でウイスキーボトルを傾けるサラの姿に、子供二人は揃って物悲しげな顔になった。何だか、大人の社交の悲しい裏側を目撃してしまったような気がする。
(女とオカマでリアルな話してるなあ……)
サラの顔色からすれば、どうやら彼女は徹夜したわけではなさそうだ。しかしカウンターに並ぶ酒瓶の数から考えて、少なくとも早朝からああして呑んでいたと考えられる。
店を閉めた後でマリーが酒を呷り始め、起きてきたサラが絡まれた、といったところか。マリーが絡み酒とは初めて知ったな、とオーリは思った。
「サラさん元気そうですね。であれば、僕らがここに留まる理由はないように思うんですが」
「同意する。相棒、速やかに撤退するよ」
完全に出来上がっているマリーに見つかったら、オーリたちは二人とも、特にマリーのお気に入りであるラトニは容赦なくあのカウンターに引き込まれかねない。
あと、今丁度思い出話で、姑の介入によって別れ話がこじれたマリーの元彼の浮気相手が別の浮気相手に三股かけられていた挙句、その浮気相手の本命の恋人がマリーの元彼の父親つまり姑の夫だったことが発覚して姑が狂乱の鬼女と化したところなので、これ以上の修羅場に突入する前にこの場を離脱したかった。姑以外の登場人物が全員男とか、一体どこの国で起きた惨劇の話なのか切実に知りたくない。
しかし二人がそそくさとドアを閉めようとした瞬間、こちらを向いたサラとばっちり目が合った。
ドブ川のように濁った眼差しをしていたサラの顔が一拍置いてパッと輝き、椅子を蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がる。
「わあマリーさん、リアちゃんとラト君が来てますよ! 何だかわたしに用事みたいなのでちょっと出かけてきますね、すみませんけどお話の続きは夜にさせてください!」
「えー、小鳥ちゃんたち来てるのー? やだちょっとあたしにも顔見させなさいよー」
カウンターに突っ伏しながら呂律の回らない様子でもにょもにょと唸るマリーを放置して、ボトルを放り出したサラが凄い早さで店を飛び出してくる。
余程酔っ払いの相手にうんざりしていたのだろう。「ラトちゃあ〜ん、ハグさせてぇ〜」と叫ぶマリーの声も聞こえない振りをして、彼女はオーリとラトニを小脇に抱え、ダッシュで店から逃げ出した。
※※※
店がすっかり見えなくなり、道が大きなストリートに合流してから、大人しく運ばれていたオーリたちはサラの腕からひょいと飛び降りた。
昨日といい今日といい、儚げに見えてサラは存外力があるようだ。ぜーはーぜーはーと盛大に息を荒げてはいるが、この細腕で子供二人を抱えて全力疾走するなど、なかなかできることではない。
「て言うか、そこまでへばる前に下ろせば良いのに」
「うう、夢中になるとつい他のことに意識が向かなくなって……」
情けない顔で呻くサラの背中を、オーリがよしよしと撫でる。
普通はこういう反応なんですよねぇ、という目でラトニがこちらを見てきたので、大人を担いで屋根の上を駆け回れますがなにか、と無言で胸を張って開き直っておいた。
「――ごめんね、リアちゃん、ラト君。連れて来ちゃったけど、ひょっとしてマリーさんに用事だったりしました?」
ややあって呼吸を整えたサラが、申し訳なさそうにそう問うてくる。
二人の顔と店の方向を交互に見る彼女に、オーリはいえいえと手を振って苦笑してみせた。
「お気になさらず。近くを通ったから、サラさんの様子を見にちょっと立ち寄っただけですよ」
「それに、あのマリー姐さんの様子なら、用事があったにしろまともな話はできなかったと思いますしね。サラさんはいつからお酒に付き合っていたんですか?」
「明け方からですよ。昨夜は何だか頭痛が酷くて、早めに上がらせてもらったんです。だからお詫びに今朝は早起きして、掃除や洗濯を片付けておこうと思ったら、一人酒してたマリーさんに絡まれて……」
ウフフフフと虚ろに笑うサラに、オーリがぎくりと反応する。
頭痛ってもしかして。一気に嫌な予感がしてきて、恐る恐る問いかけた。
「あの、サラさん……ちなみに昨日のいつ頃から頭痛があったとか、覚えてますか?」
「ええと、昨日は人探しと買い物に出ていて……商業ギルドの前からラト君を抱えて逃げ出して……何故かその後の記憶が断片的なんですよね……。ちょっとラト君と話した覚えはあるんだけど、その後で確か、誰かが現れて……ぐふぅ、急に頭痛が再発したっ!?」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、思い出さなくて良いですサラさんっ! ほら頭空っぽにして深呼吸してください、ヒッヒッフー!」
「お約束のボケですが、何を生み出させるつもりですかリアさん」
昨日イルコードが使った薬は、通常縄張りへの侵入者に使うものだけあって容赦なく効果が強かったらしい。気絶したサラの鼻を摘まんで笑顔で薬を流し込んでいた少年の顔を思い出し、オーリは背中に冷たいものが走るのを感じた。
「わ、わたしは、わたしは……ラト君がいて、周りに誰か、数人の人間……? ぐぅっ、あなたたちは、一体何をしているの……顔が、顔が思い出せない……ぐああああ!」
「もうやめてぇぇぇ、これ以上無茶しないでぇぇぇ!」
頭を抱えて崩れ落ち、魔王にかけられた洗脳を解かんと抵抗する勇者のような鬼気迫る苦しみ方をしているサラに、罪悪感でガチ泣きしそうなオーリが必死に取り縋った。
イルコードの奴、本当に一体何を盛りやがったのだ。暗示を通り越して明らかに脳の中枢的なものを掴みにかかっている。
「そう言えば、サラさんの記憶が欠けたということは、昨日の男たちについても何も聞けないということですよね。情報が得られないのは困ります」
「昨日の、男たち……やっぱりわたしは、何かを忘れて……駄目だ、思い出さないと、思い出さないといけないんだ……うぐうぅぅぅぅぅぅ!」
「ラト君ちょっと黙っててくれませんかぁぁぁぁ!? あっそうだ、サラさん、人探ししてるって言いましたよね!? 私たち少しくらいなら手伝えますけど、どんな人なんですか!? ほら思い出して、探し人の顔を集中的に思い出して!」
道端でへたり込むサラに、ばしばしとビンタをかましながら叫ぶオーリ。
異様な光景に通行人が奇異の目を向けてくるので、ラトニは無言で帽子を引き下ろした。自分が言うのも何だが、ひでぇカオスである。
「……探し、人……?」
錯乱していたサラが、ぴたりと動きを止めた。ぼんやりした目でそう呟き、しばらくオーリと見つめ合った後、ごとんと鈍い仕草で首を傾げる。
「……分かりません……」
「ヒェッ!?」
まさかそこまで記憶が蝕まれて!? 流石に洒落にならないと真っ青になったオーリに、しかしサラはのったりと首を横に振ってみせた。親指でこめかみをぐりぐりと押しながら、俯いて目を閉じ、少しずつ呼吸を穏やかにしていく。
「違うの、『思い出せない』わけじゃなくて、『知らない』の。顔も、名前も、年齢も。ただ、シェパにいるとだけ教えられていて……それでわたしは、この街に来たんです」
「え……」
薬のせいで忘却したわけではないと分かって、オーリの顔色が元に戻る。
けれど提示された新たな問題に、眉間に浅く皺が寄った。
「……それ、率直に言って無理難題じゃないですか? 顔も分からない人間、どうやって探すんです?」
「『探すしかない』と言われてるんですよ。いるかいないかも分からない、とうに死んでいるかもしれない、でも、それを信じるしか、今のわたしには打つ手がないの。――預けられた信頼と目的のために、わたしはどうあってもその『誰か』を探し当てなければならない」
ゆっくりと口元に笑みを作って、サラが立ち上がる。ふらりと背中を伸ばした彼女を、オーリとラトニが視線で追った。
(信頼、って……でも、)
彼女をこの街に送り出した人間が何者なのか、オーリは知らない。
しかし、先も見えない道をたった一人歩かねばならない辛さを想像できないほど、出立当時のサラが愚かだったとは思えなかった。
権力者と揉めたという。探さねばならない相手がいるという。
けれど、それはどちらも、本来責任の所在は、サラにはないものだったのではないだろうか。
出会った当初から、サラは何らかの強い責任感、或いは使命感を帯びているように見えた。
彼女は己の現状を理不尽だと憤ることはないのだろうか、と、ふと不安に思う。
(尤も、たとえ全てを投げ出して修道院に帰りたいと思っても、今のサラさんにはそれすらできないんだけど)
垣間見たサラの事情に、オーリはかけられる言葉を見つけられない。
しかし、世間知らずの身で情報とも言えない曖昧な言葉一つを頼りに国を飛び出してきた当のサラは、困惑する子供たちを見下ろして穏やかに苦笑してみせた。
「そんな顔しないでください。遂行が困難であることは分かっていますが、わたしはとうに覚悟を決めていますから。それに、悪いことばかりじゃないんですよ……修道院で一生を過ごすとばかり思っていたわたしが、こんな華やかなお祭りを、自分の目で見られるんですから」
サラの視線を追って、オーリたちも顔を動かす。
その場所は、ついさっきオーリとラトニが後にしたばかりのストリートだった。
賑やかに聞こえてくる沢山の音楽と、道に溢れる花の洪水。
数十分前に公演を始めていた道化師が、まだ同じ位置でくるくると道具を操っているのが見える。演目は手品に移行したらしく、興味津々に見つめる子供や親子連れの群れが、道化師の周りに人垣を作っていた。
「あんな娯楽も、一度も見たことがありませんでした。手品って、実際に見ると凄く不思議なものなんですね」
コインや人形を使った消失マジックが終了し、道化師は帽子を脱いでお辞儀をした。
その帽子の中から、今度は色とりどりの花が泡のように吐き出されていく。ぱっと帽子を投げ上げれば舞い散った花が空からふわふわと降り注ぎ、観客たちが歓声を上げる。
落ちてくる花を道化師の両手が受け止め、再び一気に投げ上げた。
青空を背景に繰り広げられる、色彩の乱舞。ばらばらだった花々は、落ちてくる頃には幾つもの小さな塊を交えていた。
リボンで結ばれた可愛らしい花束、小さな女の子が好みそうな花冠、フラワーリースや首飾りやブレスレット。贈り物を受け止めた幸運な客たちが、咲き誇る花を抱えて笑う。
少し離れたサラの手元にも、小さな花の輪が落ちてきた。
少し眺めて、彼女はそれを腕につける。華やかな飾りに彩られた手首を空に翳し、嬉しそうに唇を綻ばせた。
「あのね、リアちゃん、ラト君。わたしは幸運なんですよ。あの修道院で、峻厳な岩山の合間に差す夕日は美しかったけれど、ささやかな恵みに感謝し、神に祈る日々は穏やかだったけれど――本の中でしか知らなかった世界を、一度で良いから見てみたかったのも本心なんです。
資金だって覚束なくて、野盗や泥棒に襲われることまであったけど、あなたたちやマリーさんみたいな人に助けてもらえて、わたしは今、こうして役目に集中していられます。沢山助けてくれて、心配してくれてありがとうね」
にっこりと綺麗に笑うサラに、もう哀れみの目を向けることはできなかった。
なりふり構っていられないほど切羽詰まっているにも拘らず、サラが協力を頼んでこず、独力での遂行に拘っているということは、つまりその「お役目」自体が機密事項なのだろう。
お人好しだし、どことなく抜けた性質ではあるが、その覚悟一つ見るだけでも、状況に流された哀れな小娘という評価は覆される。
「……何かして欲しいことがあったら言ってください。僕とリアさんが怪我をしない程度に手伝わせてもらいます」
珍しくオーリより先に口を開いたラトニが、やはり珍しく積極的な言葉を紡ぐ。
オーリもうんうんと頷いて、同意を示すようにしゅばっと片手を挙げた。
「私たち、これでもなかなか情報通なんで、協力者としては不足ないですよ。シェパ近隣には顔がききますからね。顔隠してるけど!」
「ふふ、ええ、ありがとうございます。もう少し自力で頑張ってみるつもりなので、それでも駄目ならお願いさせてくださいね」
その言葉が本気なのか社交辞令かは分からないが、照れくさそうに笑む表情は本物だろう。
眦を下げて少し頰を赤くした彼女は、ここに彼女に恋する男でも居合わせれば足元に身を投げ出しかねないほど可愛らしかった。
「わたし、今日はマリーさんの家の家事を片付けたら、また商業ギルドに行ってみるつもりなんです。どうしても買わなくてはならないものがあって」
「そっか。そろそろマリーさんも酔い潰れてる頃だよね……なら、」
良かったらお店まで送らせてくださいよ。丁度オーリが、そう提案しようとした時。
「――鳥の子さん! あなたたち、鳥の子さんと相棒君ですよね!」
道の向こうから走ってきた誰かがオーリの肩を掴んで、潜めた声で早口に話しかけてきた。
オーリより早く身構えかけたラトニが、相手の正体を確認して警戒を解く。
振り向いたオーリは、そこにいた警備隊服の青年を視界に入れて、ぱちくりと瞬きをした。
「え、サイードさん。どうしたんですか、こんな道端で?」
「すみません、ちょっとだけ時間良いですか? 伝言がありまして」
サイード・ザックウェル。イアンの部下であり、オーリたちとも顔馴染みであるものの、こんな人目につく接触をしてきたことはほとんどない。
空気を読んだか警備隊員に近付きたくないだけか、サラが無言でぱたぱたと手を振って、話し声の聞こえない壁際まで後退してみせた。
祭りの風景を眺めて大人しげに佇むサラとの間の空間を、行き交う通行人たちが疎らに遮っていく。
申し訳なさそうにサラへ頭を下げてみせ、サイードがオーリたちの前にしゃがみ込んだ。
「副隊長から二つ伝言です。一つ、昨日通報を受けた誘拐未遂犯五名が、揃って逃亡した。二つ、先日預かった小瓶のことで話があるので、詰所に顔を出して欲しい」
「…………?」
オーリは眉を寄せ、ラトニは小さく唇を引き締めた。
「色々言いたいことはありますけど……誘拐未遂犯が逃げたっていうのはどういう意味です? 連中は街を出たんですか?」
「俺は担当してなかったので分からないんですけど、今朝、出勤してきた隊員が牢を見に行ったら、五人とも忽然と消えてたらしいんです。以降の足取りは不明、詳しい話は副隊長に聞いてください」
「……では二つ目、小瓶についての話とは?」
「そちらについては、今は何も。副隊長が直接話したいみたいですから」
簡潔に答えて、サイードは周りを見回す。特に注目を集めているわけではないことを確認してから素早く立ち上がり、オーリたちを見下ろした。
「じゃあ、確かに伝えましたよ。二つ目の用件については、副隊長が特に気にしてるみたいなので、できれば早めに行ってあげてください。お連れの女性にも、お邪魔してすみませんでしたって謝っておいてくださいね」
「了解しました、ありがとうございます」
隊務の最中だったのだろう、軽く手を振ったサイードはそのまま駆け去っていく。何となくその背中を見送りながら、二人は「話って何なんだろうね」と首を傾げた。
「小瓶と言えば、ひったくりから回収したウイスキーのことだろうね。偽造ラベルかもって話だったし、お酒の密造業者の一斉摘発でもすることになったのかな」
「店から買ったわけでもないのに、それでどうして僕らが呼び出しを受けるんですか。理由なんて色々考えなくても、イアンさんの所に行けばすぐに分かりますよ」
「それもそっか……なら、サラさんを店まで送ったら、すぐに詰所に向かおう」
「分かりました」
ラトニが頷いて踵を返す。オーリもそれに続こうとして、けれどすぐに足を止めた。
二人を待っていると思っていた場所に、サラはいなかった。
ついさっきまで彼女が立っていた場所は、ぽつんと無人のまま、薄汚れた壁を晒していた。