127:狂人の扱いは難しい
そうしてサラがようやく足を止めたのは周りに人通りが完全になくなってからで、打ち捨てられた瓦礫やがらくたに囲まれた空間で崩れ落ちた彼女は、抱えていたラトニを手放してぜひぜひと掠れた呼吸を繰り返した。
物心つく前から修道院育ちで、それなりに力仕事の経験もあるとは言え、七歳の子供を抱えて全力疾走できたのは、やはり火事場の馬鹿力だったのだろう。
末期の重体の如く息を荒げるサラは余程に体力を消耗したようで、簡素なスカートが汚れるのも構わず、地に手をついて項垂れる。
(あああ、焦った……! まだ権力者には近付きたくないっていうのに! 何一つ目的を果たせないまま見つかったりしたら、わたしを信じて首飾りを預けてくださったあの方に申し訳が立たない……!)
あの真紅の貴人が何者かは知らないが、この広い街で再び出くわすことなどそうそうあるまい。
疲労と焦燥からくる汗を拭い、最後に一度、大きく息を吐き出して――
「っ、そう言えばっ!」
あの場所にいたもう一人の人間――ラトニのことを思い出し、はっと顔を跳ね上げた。
余計な情報をやり取りされることを恐れて咄嗟に連れてきてしまったが、サラからすればラトニは並以上に賢く冷静な子供だ。かの貴人が言いかけた言葉で、何をどこまで察知してしまったか分からない。
この少年はお喋りなたちではないようだが、相棒である少女に対してもそうであるとは限らなかった。速やかに口止めをせねばと、誤魔化す言葉を探しつつ少年を振り向く。
「ら、ラト君! あの、さっきのことだけど――!」
「リアさん……リアさん……どこにいるんですか……」
「ヒェッ!?」
地べたに座り込んでいるサラなど完全に無視で、既にふらふらとゾンビじみた動きで立ち去ろうとしていたラトニを見て、サラはひっくり返った声を上げた。
「待ってラト君、そっちは危ないですよ! ちゃんと前を見て……」
「会いたい……リアさん……どうして屋敷にいないんですか……まさか僕から逃げているわけじゃ…………………………死にたい……」
「ちょっとはわたしにも興味持ってえぇぇぇぇぇぇ!!」
虚ろな目でよろふらとがらくたの山を突っ切ろうとするので、尖ったガラスを踏み付ける前にと慌ててサラが抱き止める。「体が動きませんリアさん、何が僕の邪魔をしているんですか」と無表情にじたばたし始める様子から、得体の知れない狂気を感じて怖い。
一体彼の身に何が起きているのだろうか。前回見た時のクールな態度からはかけ離れた姿に、眉間に皺を寄せて首を傾げる。
「あの、もしかしてリアちゃん、どこか遠くにでも出かけちゃったの? まさか喧嘩したわけじゃないですよね……二人はすごく仲が良いってマリーさんが言ってたし……」
「寂しい……悲しい……どこにいるんです……どうして会えないんですか……リアさん……」
「聞いてませんね! 分かった! 分かりましたラト君、そんなに言うなら一緒にリアちゃんを探しに行きましょう! わたしも付き合いますから! ね!」
「…………」
恐る恐る聞いてみても、まともな返事が返ってこない。これを放置するのはヤバイと判断して早口に言い募れば、リアの名に反応してか、ラトニはようやくのろりと顔を上げた。
「会いに行きたいんでしょう? なら行きましょう、ね! どうして会えないのかは聞きませんけど、同じ街の中にいるなら、最低限遠目に顔を見るくらい、きっとできますし!」
およそ狂人というものに、理論や言葉など通じない。まずは欲するものを与えるか、或いは己がその助力をする人間であることを示してやらねば、意識すら向けてはくれないだろう。
死んだ魚よりも光のない目を向けられて唇を引きつらせつつも、サラは必死で機嫌をとる。そんな彼女をぼうっと見て、ラトニが何か言おうと口を開いた、その時。
――ぱんっ!
乾いた音が響き渡り、ラトニの頭部が唐突に大きく弾かれた。
簡素な帽子が弾け飛ぶ。己の腕の中で、まるで首が折れた人形のように背を仰け反らせた少年の姿に、サラが一拍置いて息を呑んだ。
「――――ラト君っ!!!?」
がくん、と膝を折った少年に、劈くようなサラの悲鳴が上がった。
仰向けに倒れ込む少年の目元は、前髪に隠されてよく見えない。ぬるりと赤い液体が、鼻筋を伝ってつう、と流れる。風に流された帽子が、ポサリと地面に落ちた。
――ざ、と土を踏む音がして、複数の影が物陰から現れる。
いつからサラたちを取り囲んでいたのか、それは武器を手にした数人の男だった。
見た目はどこにでもいる下級冒険者だが、いずれも狩りに臨む獣のように油断ない光を宿した双眸が、ラトニを抱き締め警戒するサラを見据えている。
あの中の誰かがラトニの額を撃ち抜いたのだと悟って、サラの顔から血の気が引いた。
「あなたたち、どうしてこの子を……!」
「――目標を捕捉」
掠れた声を上げかけたサラの言葉を遮って、男の一人が淡々と告げる。
「障害物の排除を確認。これより捕獲に移る」
温度も躊躇もない声に、仲間たちが地面を踏みしめることで無言の了承を示したのが分かって、サラは奥歯を噛み締めた。
――どうしてラトニを狙ったかなど、聞くまでもなく分かっていたことだ。逃走経路を探すために僅かでも時間を稼げればと思ったが、やはり会話に乗ってくれる気はないらしい。
(まずい、とうとう『追いつかれた』……! こうなることを予期していたから、人目のない場所に来ないよう注意していたのに!)
彼らの狙いが自分一人なら、意識を失った「障害物」がこれ以上危害を加えられることはないだろう。
腕の中の少年は正常に呼吸をしているし、出血量も多くないから、早急に医療師が必要になるほどの容態ではないと思われる。ならばこの上は、傍に張り付いている方が危険。
「投降しろ。取り逃がす気はない」
男の一人が、義務じみた言葉を投げてくる。動かぬ少年を地面に寝かせ、サラはじり、と腰を浮かせた。
逃げようとしていることを察し、遠距離攻撃の手段を持っているのだろう数人が武器を向けてくる。抵抗の間も与えず取り押さえようと、二人の男が鋭く地を蹴ってサラに接近した。
「念のためだ、目撃者はいない方が良い。餓鬼から始末しろ」
「了解した」
「なっ!?」
冷徹に飛んだ指示に、サラが戦慄した声を上げた。
目論見が外れたと知った彼女が寸前でラトニを抱え込み、振り下ろされた剣から少年を守る。代わりにサラの髪が数本切り飛ばされ、彼女は砂利が肌を削るのも構わず必死で地面を転がって距離を取った。
遠距離攻撃は来ない。それを確認して、飛び起きざまに彼らに背中を向け、敵のいない方向へと走る。
風切り音。がらくたの山に細い何かが突き刺さり、がらがらと音を立てて山を崩した。雪崩れ落ちたがらくたがサラの行く手を阻み、足を止めさせる。
「くっ……!」
悔しそうに顔を歪め、ラトニを抱えたサラが胸元に手を当てる。
ここで『使う』べきか。僅かに迷うも、他に選択肢がないことは分かっていた。
剣を持った二人が、見せつけるように彼女へと足を踏み出してくる。
彼らを睨みつける目に精一杯力を込めて身構えるサラの前で、一人の男の進めた足が、落ちていた帽子をぐしゃりと踏んで――
――――――號っ!!!!
刹那膨れ上がった壮絶な威圧感に、瞠目した男たちが一斉に飛び退いた。
「何者だっ!?」
誰何の言葉は動揺を隠し切れないまま。剣を持った男の一人が、辺りを見回しながら声を張り上げる。
逃げずにその場に留まったのは、動くこともできずに凍りついたサラのみだ。
先ほどまでとは一転し、激しく脈打つ心臓を抱えて目をかっ開いた男たちは、一体何が起こったのかも理解できず、僅か一瞬路地裏を支配した膨大な気配の発生源を探している。
――ゆら、と。
サラの腕の中で、小さな影が身を起こした。
今の今まで意識を失っていると思われていた少年――ラトニは、あたかも周囲で起こっていることなど何一つ知らぬというように、強張ったサラの腕を抜け出してゆっくりと歩き出す。
凶器を持った男たちに目もくれず、無残に踏み潰されていた帽子を拾い上げ、丁寧に汚れを払って被り直した。
「――踏みましたね」
ぼそりと呟いたラトニの声が、奇妙に静まり返った空間に落ちる。
周囲を警戒しながらもこちらに意識を向けてくる男たちへと、少年はぎらりと底冷えするような眼差しを向けた。
「リアさんが、僕のためを想って贈ってくれたプレゼントを――何の価値もないゴミみたいに、その薄汚い足で踏みつけましたね」
――本当はもう少し穏便に、自分の関与がバレないように始末を付けても良かったのだ。
否、咄嗟の憤怒に支配されなければ、間違いなくそうしていただろうが。
けれど、ただでさえオーリとの揉め事で逆撫でされていたラトニの神経を、この男たちは無自覚に撃ち抜いた。
ラトニを殺そうとなんてせず、ラトニの大切なものに手を出さなければ、何が起きたのかも分からないまま気絶させるくらいで許してやったというのに。
――苛々、する。
ず、と渦巻いた禍々しい魔力に、男たちがぎょっと息を呑んだ。
折角サラが一緒にオーリを探してくれると言ったのに、彼らはそれを邪魔した。何の関係もないラトニを勝手な都合で巻き込んだ。挙げ句、虫けらのように殺そうとするなんて。
――そんなに僕の邪魔をしたいのか。
さっきからクチバシを飛ばしているのに、オーリは屋敷にも街にも見当たらない。自分の足で探しに行くことも、この男たちに妨害された。
反射で魔力を集めてガードしたから、額の損傷は極めて軽微。皮一枚裂けはしたが、行動には支障なし。
(ここに彼女がいたら、血を流していたのは彼女だったんでしょうか)
彼らが何者なのか、ラトニは知らないし、興味もない。
でも、分かる。もしもここにオーリが居合わせたならば、彼らはオーリのことも殺そうとしたのだろうと。
オーリはサラのことを気にかけていた。この先彼女がサラに会うことがあって、そこにまたこんな連中が襲撃してきたら――
(――だからこいつらは、僕が排除しておくべき敵)
指の先まで、ビリビリするほど魔力が満ちている感覚。積み重なる心的疲労と、ノヴァに叩き込まれてきた攻撃的な教えが、ラトニの箍を外そうとする。
――嗚呼、もう開き直ってしまおう。
それで文句を言うような奴なんか――――ここで皆、いなくなるのだから。
鋭く細めたラトニの琥珀の瞳が、砂金のような燐光を散らした。
構うものか。たとえバレたところで、ラトニに甘いオーリを丸め込むことくらい、いくらでも。
収束させた魔力が、颶風を連れて唸りを上げる。強大な魔術と化したそれを解放しようとして――しかし直後、風を切る音を聞きつけて動きを止めた。
轟音。ただの廃屋だと思っていた周囲の屋根の上から立て続けに降ってきたのは、抱えるのも一苦労しそうな大きな石だった。
今度は何だと顔をしかめたラトニは、いつの間にか周囲を固められていることに気付く。
廃屋の屋根や窓の影から、複数の小さな影がこちらを見下ろしていた。
恐らく子供――つまり、目の前の男たちの仲間ではない。
我に返った男たちが舌打ちしながら後退する。飛び道具を持っている数人が流れるような動きでサラに狙いをつけて、
「――距離が離れた! 四番、五番、七番のスパイクボール、動かして!」
何処へかと早口に指示を飛ばす、鳥を想わせる高い声。それを耳にして、ラトニははっと顔を跳ね上げた。無意識に隠すようにして抑え込んだ手のひらから、魔力光が消失する。
「そこ、危ないわよー!」
指示に応じる、楽しげな女の声。ぶつりとロープを切る音がして、がらくたの山の一部が吹き飛んだ。
中から飛び出してきた何かが、唸りを上げて男たち目掛けて振り下ろされる。
長い竿の頂点に、びっしり棘を生やしたボールを取り付けたようなトラップだ。しなる勢いに乗った竿が猛烈な威力で地面を砕き、細かながらくたの破片を容赦なく巻き上げた。
「――――――っ!!」
巻き上げたのは破片だけではない。砂塵の中に混じった粉薬に、気付いた時には遅かった。
粉薬が男たちを包み込む。耐性があるのか、意識を失わせるほどではないようだ。けれど僅かに眩んだ男たちが態勢を立て直すより、猫のように屋根を蹴った少女が飛び込んでくる方が早かった。
「ラト!」
「はい!」
指示とも言えない指示に、応える言葉もまた最低限。
ラトニの腕が振り上げられる。砂塵に紛れて出現した水の縄が、男たちの四肢を拘束した。
「――そいやっ!」
直後に少女が跳躍。
手加減なしの回し蹴りが、纏めて彼らの意識を刈り取っていた。