126:あなたの涙と引き換えに
騒ぎに乗じて犯罪に走る悪人共はさて置いて、常識的に春告祭を楽しむ多くの善良な客たちは、その大半が同行者を連れている。
親子友人恋人。形は違えど隣を歩く誰かと笑い合い、お喋りをしながら祭りを見て回る彼らに混じらない人間は、今この時期にあっては少数派だろう。
そうしてこの場所。とある山中の打ち捨てられた集落にも、そんな「少数派」が二人いる。
「恋しいからって、うっかり仔猫の所に出たりするなよ。あれの家は相当な良家なんだろう?」
この世にあらざる知識をしこたま詰め込んだ分厚いノートを恋人のように抱え込み、ひたすらページを繰る片手間に転移魔術の訓練を言いつけてきたノヴァは、『お前からはまだ聞き出したいことがたんまりあるんだからな』という台詞を遠慮なくチラ見させながらそう告げた。
ノヴァの欲する知識の一部を開示してからというもの、修行を見てくれる頻度が増えたのは良いが、やはり容赦も気遣いもない態度は変わらない。
廃屋や木々の間に仕掛けられた飛び道具式のトラップを、手足を動かさず短距離転移のみを駆使して避け続ける作業に集中していたラトニは、汗を拭いながら「分かっています」と返した。
「転移の訓練が命懸けだなんて、魔術関係者なら学生だって知っていますよ。いくら彼女のこととは言え、流石に気を逸らしている余裕なんて――っ、」
転移で出現した先の地面がボコッと小さな穴を開け、足を取られたラトニがよろめいた。
膝をついたところで、至近に仕掛けられた罠が発動。枯れ木の上でキラリと何かが光ったかと思うと数本の矢が猛烈な速度で飛来して、強引に転移を図れば失敗すると判じたラトニは咄嗟に青い水盾を出して防いだ。
直後、ビシィッと音を立てて固い木の実が額にヒットし、ラトニは思わず苦鳴を上げた。魔術で何か仕込みをしてあるのか、滅茶苦茶痛い。
「転移だけで避けろと言っただろうが。お前は仔猫ほどの身体能力も反射神経もないんだ、思考と魔術の速度を極限まで上げていかないと、実戦では数と不意打ちで押し切られて滅多打ちだぞ」
『転移途中でもオレが話しかけたら必ず百文字以上で答えろ』という我儘な恋人の如き指示さえなければもう少し反応できたのではないか、なんて疑問は棚に上げ、わざとらしく呆れた仕草で溜息をついたノヴァに、ラトニは「すみません」と大人しく頭を下げた。
助言には素直に感謝するが、同時にオーリの呼び名を聞いたせいで、また重苦しい感情が腹の底でぐるりと揺らぐ。
(――嗚呼、折角魔術修行に熱中することで誤魔化していたのに)
ゼファカに宥められて一度は落ち着きかけた感情も、進展のないまま何日も跨げば、またじわじわと波立ち始める。
世界の全てに呪詛を謡う死霊から、社会復帰に希望が出てきた半狂人くらいには回復しているものの、それでも平静とは程遠い。
「お前の課題は、何よりもお前自身の精神の強化だな」
まるでラトニの頭の中を正確に見通しているかのように、ノヴァが視線だけでラトニを見てそう告げた。
「今の落とし穴は、五分前なら反応できていたはずだ。仔猫の顔でも思い浮かんで集中が切れたか?
もっとしっかりと意識を切り替えろ。相棒とまで呼ぶ仲なら尚更、非常時において精神力の差異は致命的な悪影響を及ぼす」
遺跡で断行した「潜水」の結果からも分かる通り、オーリはあれで存外精神が強固だ。べったりと張り付くラトニを許容してはいるが、いざとなれば自分一人でもきっちり生きていけるタイプである。
けれど一方で、ラトニは明らかにオーリに依存していた。
彼女が傍にいる限りは無敵の強靭さを与えるだろうその執着心は、しかし彼女が欠ければまともに心の均衡さえ保てない。彼女が完全に離れれば最後、新しい「大切」を作ることなど思いもせず、生きることすら放棄するだろう。
尤も最近は多少気を許せる友人だか知人だかが出来たらしいが――今の様子を見る限り、まだ足りない。
「そもそもお前は、仔猫のことも自分のことも、雁字搦めに縛り付け過ぎだ。あいつあってこその自分だと、そうお前自身が思い込みたがっているようにすら見える」
あの少女は、依存と狂執の底無し沼で諸共溺れ死ぬような未来を望むまい。
それこそオーリ自身とラトニのために、執着の度が過ぎていると判断すれば、頭を冷やすためにと距離を置くこともするだろう。
ぺら、とページを捲って、気怠げに瞬き。ノヴァは不健康なほど細長い指で、立ち竦むラトニを無造作に指した。
「一度逃がせば帰ってこない、愛玩用の小鳥じゃないんだ。もう少し信頼して手を離してやれ。あれには未熟ながら牙も爪もある。早めに改めなければ、いつか本当に逃げられるぞ」
「………………」
珍しく真摯に諭すようなノヴァの言葉に、ラトニは返す言葉が見つからずに俯いた。
常にオーリの行動を把握し、自分の手の届く範囲に置いておきたがるラトニの言動は、言い換えればオーリを信用していないとも取れる。
だって、オーリ以外を見る気のないラトニと違って、オーリは他にいくらでも「大切」を見つけることができるから。
(――想いだけは、溢れるほどにあるけれど)
ただでさえ、身分差のせいで二人の距離は大分遠い。これ以上離れてしまえば、彼女は自分の傍に戻ってこようとしてくれなくなるかも知れない。
彼女に疎まれたその時、自分がどういった行動に出るか、実のところラトニ自身にも分からなかった。
「……僕らの距離については、彼女は許容してくれています。今回は喧嘩をしましたが、仲直りできない範疇ではないですし、今のところ支障はないかと」
「本心じゃそう信じ切れていないから、焦りと苛立ちを殺し切れないんだろうが。まあ数日前より若干マシではあるが、一般的に見てヤバい領域だということには変わりない。
視野を広げろ、番犬。ただの依存じゃ、真に強固な信頼は築けんぞ」
一般的に見て、なんて言葉がノヴァの口から出るのは違和感しか覚えなかったが、まぜっ返す気にはならなかった。ラトニにだって、その程度の自覚はある。
「信頼ならしています。オーリさんは僕を見捨てませんし、僕が彼女を裏切るなど尚のことあり得ない。僕は彼女の向けてくれる親愛と、情の深さを信じている」
「どうだかな」
絞り出すように言ったラトニに、ノヴァは鼻で笑った。
「信じているにしては、お前の予防線は厳重に過ぎる――恋うた相手に精神操作までやらかすなんて、正気の沙汰じゃないだろう」
「……は?」
投げ落とされた不穏な言葉に、しかしラトニは目をぱちくりさせた。
――精神操作? 何だそれは。自分は彼女にそんなことしていない。
「それは……まさか、僕がオーリさんの思考や行動を操っているということですか? 彼女が僕といてくれるのは、僕がそうさせているからだと?」
「んん? いや、そういうんじゃない。対象の思考を操作するというよりは、何かを精神の深層に閉じ込めて、表に浮き上がってこられないようにするための……。お前、本当に知らないのか?」
本気で意味が分からないといった様子のラトニに、ノヴァは首を傾げた。何だ、てっきり犯人は番犬だろうと思っていたが、違うのか?
(こいつは仔猫に関わることでは、極端に肝が小さい。大方、仔猫に知られれば確実に嫌われるような『何か』をやらかして、それを隠すために精神操作を施したんだと思っていたんだが……)
ならば別の人間が――否、やはりそんなはずはない。
遺跡事件でオーリの精神に干渉した時、ノヴァは彼女の深層に薄く薄く漂う、『何か得体の知れない力』の痕跡を感知していた。あれには確かに、ラトニの魔力の気配があった。
では、もしや無自覚か? 無自覚で他者の精神に干渉し、あんなにしっかり鍵をかけるなんて、ますます正気の沙汰じゃない。
「……まあいい。いつ何をやらかしたのかは知らんが、早めに解決した方が良いぞ。割った皿を庭に埋めたところで、いつ掘り返されるかも分からないんだからな」
「はあ……」
生返事を返すラトニだが、事がオーリに関わるだけあって、真剣に思考してはいるようだ。
尤も、この場でこれ以上考えても結論は出なさそうなので、ノヴァはもう話に付き合う気はない。
そうして速やかに修行の続きをしろと言い渡すために、指先に灯した魔力光を弟子目掛けて投げつけた。
※※※
昨日から空に留まっていた薄灰色の雲は、今朝になって控えめな雨雲へと変化していた。
早朝からしとしとと降り続いた雨は昼前になってようやく止んだが、その程度の雨は祭りを楽しむ人々にとっては大した障害にならなかったらしく、やや少ないながらも未だ人通りは絶えていない。
ノヴァの元からシェパの街に戻ってきたラトニは、疲労も露わな足取りで孤児院に続く道をふらふらと歩いていた。
(オーリさんはいつ街に出てきてくれるんでしょう。いい加減術人形を飛ばして確認するべきか……いや、顔を合わせてからなんて悠長なことは言わず、クチバシを通じて謝ってしまう方が良いのかも……)
もういっそ、悶々と待つよりそっちの方がマシかも知れない。
喧嘩に区切りがつかないからこんなに悩むのだ。喧嘩のことさえなければ、数日会えないくらいはざらにあった。
一人で考えていたって、思考は碌な方向に行かない。先日ゼファカにそう言われたことを思い出し、心を決めかけたその時、前方でバンッと乱暴な音がした。
「あっ、待ってください! もう少し話を……!」
「しつこいと言ってるだろうが! こちらにはもう話すことなどない!」
大きな建物の扉が開いて、見覚えのある女が一人、転がるように飛び出てくる。
ざっくり三つ編みにした髪に、目元に二つ並んだ黒子――先日出会った旅行客のサラだ。
どうやら突き飛ばされでもしたようで、続いて扉から顔を覗かせた五十絡みの痩せた男が、サラを睨みつけて吐き捨てた。
「この後は大切なお客様がいらっしゃるんだ、どこの馬の骨とも分からん女に時間をとっている暇などない! おい、さっさとこの女の荷物を持ってこんか!」
怒鳴って男が顔を引っ込めると、数秒置いて代わりに別の男が顔を出す。
こちらはまだ三十かそこらの、白い制服を着た中肉中背の男だ。小さな鞄をサラに押し付け、困ったように眉根を寄せて、サラの肩を軽く押した。
「申し訳ありません、今日のところはお引き取りください。支部長はお忙しいのです」
「商業ギルドはいつだって忙しいではないですか! 支部長か副支部長を通じなければ、わたしの――」
「お引き取りください。支部長は予定がおありです」
「――何をしている、ブルーノ! 早く追い出してこちらの準備に戻れ!」
どうやら、この建物は商業ギルドだったらしい。扉の奥から投げつけられた先程の男の怒声に、白い服の男は「はいすぐに!」と叫び返して素早く扉を閉じた。
慌てて取りすがろうとしたサラが扉に弾かれ、ふらついた拍子に通行人に突き当られて転倒する。カンッ、と音を立てて、彼女の胸元から何かが飛び出した。
「おい気を付けろ、姉ちゃん!」
「ひぃっ、すみませんっ!」
ガタイの良い通行人に叱り飛ばされ、怯えたサラがぺこぺこと頭を下げながら立ち上がる。その直後、今度は丁度近くに停まった馬車に背中をぶつけそうになって、「ひええ」と鳴きながら後ずさった。
情けない顔でギルドの扉を見つめ、ようやく息を吐き出したサラは、次にはっとした様子で胸元を探る。つくづく落ち着く暇もないようで、手に触れるものがないと気付くや否や、青ざめた顔で地面を見回し始めた。
「…………」
コツン、と。
一部始終を目撃していたラトニの爪先に、地面を跳ねてきたそれが当たる。
身を屈めて拾い上げてみれば、どうやらそれは首飾りのようだった。
留め金の切れた細い銀鎖に、球形の銀飾りがついたシンプルなデザインだ。飾りには複雑な紋様が彫り込まれ、中心には大きな白い石が嵌め込まれている。
太陽の光を受けたその石がキラリと光を帯びたように見えた時、こちらを向いたサラと目が合った。
「――ああああああっ、ラト君! すみませんそれわたしのなんですー!」
途端に悲鳴を上げてすっ飛んできたサラに、ラトニは無言で首飾りを渡してやった。何事もなければ無視して通り過ぎただろうが、目が合ったならそうもいかない。
「……お久しぶりです、サラさん。仕事の方はうまくいっていますか?」
「は、はいっ! マリーさんもお店の皆さんも、とても親切にしてくださってます。ラト君たちのお陰ですよ」
「それは良かった。ではさようなら」
「物凄く素早く別れの挨拶をされたっ!?」
あっこの挨拶義理なんで、とあからさまに態度で表現するラトニに慄きつつ、サラは反射的にラトニをひっ捕まえた。タイミング的にさっきの一部始終を見ていたはずなのに、一片の興味すら向ける素振りがない。
「あ、あのごめんなさい、できればリアちゃんにも直接お礼を言いたくて! ラト君はいつもリアちゃんと一緒にいるって聞いたから、もしこの後会うなら一目会わせてくださいよ……ってアレェェェェェ!?」
ズドーン、と音を立てて一瞬で落ち込んだラトニの空気に、サラが顔に似合わぬ間抜けな絶叫を上げる。何がどうしたの! 今の台詞の一体どこに地雷があったの!?
「ララララト君、ごめんわたし何か悪いこと言いましたか!? 言ったんですよねごめんなさい何が悪かったのか分からないけどほんと申し訳ない気持ちだけは一杯だから、あっ、土下座……!?」
「――そこのあなた、ちょっと失礼」
混乱の極地に陥っていたサラが何やらはっとした顔になり、道端で五体投地というとんでもない蛮行に挑もうとしかけたその時。
凛と涼しげな少女の声が、サラの動きを押し留めた。
正気に戻った顔で振り向いたサラの目に、二人の人間の姿が映る。
一人は執事服の上に茶色いコートを羽織った壮年の男。もう一人は白いファー付きのコートを着こなした、目も覚めるような紅い髪の美少女だ。
先程ギルドの前に停まった上質な馬車はまだそこに存在しているから、きっと二人はそこから降りてきたのだろう。
明らかに貴人のオーラを漂わせる少女はサラの方を見て綺麗に微笑んでおり、指先まできっちりと教育の行き届いた所作の執事がピシリと傍らに控えていた。
「こちらの荷物、あなたのじゃなくて? 扉の前に放置されていたのだけど」
その言葉に合わせて執事が進み出て、サラはようやく、執事の手に差し出されているものが、自分の古びた鞄だということに気付いた。
そう言えば、と目を見開いて、慌てて少女の前へと駆け寄っていく。
手を伸ばせば執事は丁寧な動作で鞄を返してくれて、焦りも露わなサラに少女はくすくすと上品に笑った。
「あ、ありがとうございます! 忘れてました!」
「どう致しまして。置き引きなどもいますから、お気を付けなさって――あら、」
にこやかに返して踵を返そうとした少女が、サラの手元を見て足を止める。
親切ではあるが何の関心もなさそうだった少女の紅玉のような瞳が、訝しげに細まった。
「……ねえあなた、その首飾り、本物?」
「え゛っ? あ、いえ、これは露店で買ったイミテーションですよ! わたしなんかがそんな高いもの持ってるわけないじゃないですか!」
首をぶんぶん横に振っても、怯えたようにばっと首飾りを背後に隠すのでは説得力がない。少女はますます目を細め、サラの顔を見上げてきた。
誤魔化されぬとばかりに、少女の目がキラリと輝く。サラの肩がびくりと震え、ひぃっ、と掠れた悲鳴が洩れた。
「いいえ、その紋様、イミテーションなんかに使って良いものではないわ。それを使用する権利があるのも、誰かに預ける権利があるのも、唯一、新ルシャリの王ぞ――」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!!!」
次の瞬間、何かとんでもなく恐ろしい容貌の怪物でも見たかのような絶叫を上げたサラに、流石に少女もぎょっと沈黙した。少女を庇おうとした執事が一歩踏み出すより早く、後退したサラはラトニをひっ掴み、つむじ風のように身を翻す。
「ひっ――――人違いですうぅぅぅぅぅぅっ!!!!」
三十六計逃げるに如かず。
涙目になっているのが明確に分かるような声を残して逃げ去っていくサラを、少女と執事はポカーンとした顔で見送っていた。