123:とあるガキ大将の前進
万が一にも破ったりしないよう極限の注意を払いながら、分厚い紙束をぱさりぱさりと捲っていく。まるでその中身を全て食べ尽くしてしまいたいというように前屈みで、夢中になって文字を追う二色の髪と紺瑠璃の瞳を持つ男が、どんな美女にも捧げたことがないほど熱の籠もった吐息を吐いた。
「――素晴らしいな、ここに書いてある知識はどれもこれも興味深い。特に『ブラックホール』なんてものの存在、オレの知る限り如何なる学者も魔術師も観測したことなどないはずだ。これをお前に教えた奴は誰なんだ、発見者の頭は今より千年は未来へ突き抜けているに違いない」
『すみませんが、その質問には答えられません。見せるのは知識だけという条件で、こちらの手札を明かしましたので』
ずらりと並ぶ文字列に半日以上も集中していたとは思えないほど恍惚とした男――ノヴァの言葉に、幼さを含んだ少年の声が答えた。
つんと澄んだ、真冬の香気のような声。ノヴァに師事する魔術師の端くれである少年の声は、今日も冷ややかなほど淡々と落ち着き払っている。
「分かっているさ。異常にして異質、この世界の特異という特異を詰め込んだような知識の源など、詳らかにできるわけもない。――追及なんぞせんから、さっさと解説の続きをしてくれ。『重力波』とは何だ? 全てを貫通し、減衰しない物質など、この世に存在するのか?」
子供の幾分ぎこちない字で書かれた文章を食い入るように読み耽りながら、ノヴァが質問を重ねる。少年の声が『はい』と告げ、お手本のような丁寧さで講義の続きを紡いでいく。
『厳密には物質ではなく、物質の振動を指します。
一般相対性理論によれば、質量を持つ物体が存在すると、それだけで時空に歪みができるんだそうです。更にその物体が軸対称ではない運動をすると、この時空の歪みが重力波となって光速で伝わっていきます』
「つまり、時間変動が波動として伝播する現象か。なら、前回聞いた液体表面の流体力学的な重力波とは完全に別物なんだな」
『はい。前提として、重さを持つ物はその重力でもって周りの時空を歪めているのである、と認識してください。だからその物体が運動を起こすと、周りの歪んだ時空が重力波として波のように広がっていくんです』
「重力波が到来すると、自由落下する二つの物体の間の距離が変化して見える。ならばその物体間距離の変化率は、物体間距離に従うと考えるのが道理か。
ああ、あと八ページ読み終えたら、『アインシュタインの一般相対性理論』とやらについてもっと詳しく話してくれ。今ちょっと面白い仮説に辿り着けそうなんだ」
『了解しました』
隣で従順に頷く少年――の声を持つ水色の小鳥に、ノヴァは至極満足そうに頷いた。
小鳥型術人形『クチバシ』。ラトニの得意魔術の一つである水色の小鳥は、植え込まれた知識と命令に従って、創造主の代わりにノヴァへの講義を淡々と実施している。
行動の基本パターンを少年の人格から写したために少年と似た言動を取りはするが、明確な自我は有していないその人形を、ノヴァは便利な魔術として気に入っていた。
「――で」
それからちらりと逆隣に視線を向けて、呆れたように目を細める。どろどろと重苦しい空気が蟠っているそこを、胡乱な眼差しで視界に入れた。
「お前は有機生命体から岩石にでも変わったのか? たちの悪い呪いにでもかかっているなら喜んで研究するが」
告げた先には、数時間前から石に腰を下ろしたきりぴくりとも動かない少年――ラトニ・キリエリル本体が存在していた。
小さな膝に両肘を乗せ、組んだ手の甲に額を押し当てて、呼吸の有無すら疑ってしまうほど微動だにしない少年は、未だかつて見たことがないほどの陰鬱な空気に押し潰されそうになっている。
この山中にノヴァを訪ねてきた後、一言も発さないまま師への講義を術人形に任せ、一人で延々大自然と一体化していたようだった。
とはいえ言い付けられた魔術の制御訓練はきちんとこなしているようで、空中でくるくると回る小さな水球の中には、ノヴァが貸し出したオレンジ色の炎が綺麗に燃えている。
海の妖精が使うランプのような炎と水との共演は、広場でパフォーマンスとして行ったならさぞかし人目を惹きつけたことだろう。時折弾ける炎が小さな火花を散らすが、火花に触れる前に形を変えた水球は新たな水の玉を作って火花を包み込み、水球本体から分離して辺りを泳ぎ始める。
ただし、驚異的な操作力でそれを維持し続けているはずのラトニはと言えば、お世辞にも集中しているようには見えなかった。
「そもそもお前、なんでそんな亡者のような目をしてるんだ。特に興味もなかったから問い質さなかったが」
この世の負と絶望をありったけ詰め込んだような目で虚空を見つめ続けているラトニに、とうとうノヴァが根負けしてツッコミを入れた。
血反吐を吐きそうなほど必死で課題に向き合っている平常時より、精神を奈落に落としている今の方が魔術制御が容易とは皮肉なものだ。
どこを見ているのか分からない眼差しを虚ろに漂わせ、最早振り切れ過ぎて憎悪すら感じられない有様で黙々と魔術の訓練だけをこなしている少年は、あたかも底無しの沼へと静かに沈み続けているかの如く濁りきったオーラを際限なく量産している。
「………………」
ラトニは何も答えない。自分の声が聞こえているのかも分からない様子に、ノヴァはしばし沈黙し、
「仔猫に疎まれでもしたか」
ごばぁんっ!!!!
水球と炎が盛大に弾け飛んだ。
完全にバラバラになって雨のように降り注ぐ水と炎を、ノヴァが指先一つで搔き集める。
空気に触れた瞬間、炎が一気に増幅してばちばちと赤い火の粉を散らした。小さな嵐のように荒れ狂う炎を、水が激しくうねって抑え込もうと嵩を増す。
無造作に手を伸ばせば、炎の熱が届いた場所から急激に魔力が吸い出され始めた。ノヴァは構わず水を操作して、厚みが全域綺麗に一定になるように炎を包み込む。
宙に浮いたまま消える気配のない火の粉まで一粒残さず炎を水で覆い尽くし、炎の暴走が収まったのを確認。その全てを纏めて手のひらの上で握り潰した。
ここまで僅か一秒と半。並みより上程度の魔術師には何をしたかすら分からないだろう速度で全ての作業を完了したノヴァは、膝に額が付くほど背中を曲げて震えているラトニをどうしようもないものを見る目で見やった。
「何だ図星か。確かにお前、粘着質だしな」
流石鬼畜師匠、追撃にも容赦がない。
ドきっぱりと断定され、ラトニがガクガクと頭を抱えた。亡者のように虚ろな表情で、口元だけをガタガタ震わせながら、少年はひたすら絶望に暮れているようだった。
「……彼女に嫌われた……彼女に嫌われた……大嫌い……彼女は、僕が、僕に、大嫌い……」
ぶつぶつ呟くその言葉は、呪詛か懺悔か慨嘆か。ゾンビのように虚ろな顔でそのまま天に召されてしまいそうな様子の弟子に、しかしノヴァは心底面倒臭そうに唇をひん曲げた。
「あーもう良い、今回の授業はここまでだ。宿題出してやるから鳥だけ置いてとっとと帰れ――動揺してるわりには愉快な失敗もしないし、茶々入れる隙がなくて見ててもつまらん」
「オーリさん……オーリさん……オーリさん……オーリさん……オーリさん……」
いつもなら「毎回そんなこと思ってやがったんですかこのクソ外道」くらいのツッコミは入れていただろうが、今回はダメージが深過ぎるらしく聞いてすらいない。
宿命のライバル対決に敗北したボクサーの如く両手と両膝をついて暗雲を背負っているラトニの首根っこを、ノヴァが片手で掴んでぶん投げた。
ポーンと飛んだラトニの小さな体は、地面にぽっかり空いた黒い穴に吸い込まれ、ぶつぶつという呻き声と共に消えていく。
何事もなかったように消失した穴に背を向けて、ノヴァはいそいそと紙束に向き直った。
※※※
「――――ごぶぅおっ!?」
鬼畜な魔術師が傷心の弟子を潰れた空き缶の如くホールインワンしてから一秒後。
シェパの路地を歩いていたゼファカ・サイニーズは、上方から唐突に攻撃を食らって悲鳴を上げた。
以前いびったガキどもからの逆襲か、はたまた最近微妙に疎遠になりつつある子分たちの反逆か。倒れ込んだ拍子に土まみれになった顔を上げ、何が落ちてきたのかと振り返れば、そこにぐたりと倒れていたのは見覚えのある少年だった。
怒鳴り付けようとした口をぱかっと開き、ゼファカは目を剥いて跳ね起きた。
「おっ、おま、キリエリル!? 何があったんだよ!?」
もしや頭でも打ったのかとぎょっとして手を伸ばし、彼はラトニの顔を覗き込んだ途端「ヒィッ!」と悲鳴を上げて飛び退った。
「――怖えェェェェ! なにお前! 本当に何があった!? なんでそんな腐りかけの魚みたいな目ェしてんの!?」
地面に倒れたまま土気色の顔で瞼を半開きにし、虚無と絶望にどろりと濁った目でぶつぶつぶつぶつととめどなく何事か呟き続けているラトニの姿に、ゼファカは本気で戦慄した。
ラトニ・キリエリルと言えば、ゼファカが街の新入りだった彼を嫌っていた頃、どんな嫌がらせをしてもしれっとした顔ですり抜けてきた猛者のはずだ。片思い相手である少女の情報を強請れば絶対零度の目で射すくめてくる、お前その歳でどんな修羅場潜ってきたのと問いたくなるようないつもの面影が、しかし今は全く見えやしない。
最早あの世に下半身を突っ込んでいるのではないかというくらい生気のない様子に、ゼファカはかつてないほど動揺し、一体この鋼鉄の心臓の身にどんな恐ろしいことが起きたのかと震え上がった。
警戒した猫のように膝をつき、恐る恐るラトニの顔を覗き込むゼファカに、ラトニはぼんやりと一度瞬きをした。
不気味そうに眉を寄せて自分を観察してくるゼファカの姿を濁った水のような瞳に捉え、たっぷりと時間をかけて一言呟く。
「…………………………………………リアさんに嫌われました……………………」
「え゛っ」
思わず上ずった声が出た。
誰だよリアさんって。そう言いかけたゼファカだが、答えが一つしかないことに即座に気付く。この地獄の門番のような年下の少年がこれほど心揺さぶられる相手など、よく考えなくても他にはいない。
「リ、リアってもしかして、お前がいつも一緒にいるあの子の名前か? おいおい、よりにもよってお前が、あんなに懐いてたあの子とどんな諍い起こしたんだよ」
ゼファカにとってその少女は、一年近く片思いをしながら、ラトニの妨害によって名前すら知ることのできなかった相手である。
けれど流石に今ばかりは、少女の名前をようやく知れた歓喜より、名前すら知らせるまいと独占欲丸出しに威嚇してきたラトニの、ゾンビよりもゾンビらしい精神状態への不安が勝ったようだった。
慌ててラトニを引きずり起こし、通行人の胡乱な視線を浴びながら手を引いて歩き出す。ラトニは常の反骨精神の欠片も見せず、錆びついたブリキ人形のようにぎくしゃくと従った。
正気を失う一歩手前のラトニが、それでも「オーリ」ではなく「リア」と言えた理由は、その状態でもしぶとく残った僅かな理性か独占欲か。
一方で、ノヴァと対峙していた時と違って、僅かであれど「問いに対して返答する」という行動を取っている――また、心神喪失状態と言えど大人しく先導されるに従っているあたり、ゼファカに対してじりじりと心の距離を縮めつつある証左でもあるのだが――まあその辺は、ラトニ当人にも未だ無自覚な事実である。
不安そうにちらちらと振り向いてくるゼファカに、ラトニは鉛でできているように重い口をのろりと開いた。
「………………大嫌いと……リアさんが、僕に大嫌いと……僕は、彼女にとんでもないことを……………………死にたい………………」
「いつもの淡白なお前はどうしちゃったんだよ……。その、本当にあの、リ、リアが、お前に大嫌いって言ったのか? 勘違いとかじゃなくて?」
さりげなく(とゼファカは思っているが実際にはわりと吃りまくっている)少女の名前を口にしてみると、ラトニは眉一つ動かすことなく、死にそうな顔でこくりと無気力に頷いた。
実に異常な反応である。いつもなら「彼女に名前も覚えてもらってない分際で呼び捨てなんて図々しい」と膝蹴りの一つも食らっていただろうが、ゼファカにとっては運が良いのか悪いのか、現在ラトニの思考はとことん内罰に向いていた。
これは恐らく、オーリに嫌われた原因が己の愚行である、という意識が強いためだろう。外部に向かうはずの攻撃性が、翻ってそのほとんどがラトニ自身に向かい、足を掴んでぐいぐい悔恨の泥沼へと引きずり込んでいるのだ。
これでは話にならない、とゼファカは溜息をついた。どうあれまずはラトニを正気に戻さないと、相談に乗ることすらできないだろう。
軽く衝撃を与えれば何とかならないかと、まずは微妙に日頃の鬱憤を込めて、ラトニの背中をぶっ叩いてみる――無反応。
次、目一杯頰を抓ってみる――無反応。
あらぬ方向を指差して、「あ、リア!」と叫んでみる――効果は抜群だった。ラトニは一瞬にして両目をかっ開き、動物じみた動きで大きく飛び退って、真っ青な顔で冷や汗を噴き出しながら動揺も露わに身構えた。
分っかりやす。
現金すぎる反応に、ゼファカは呆れた苦笑いを零した。
廃人になった原因が彼女なら、正気に戻るスイッチも彼女であるらしい。まるで母親に叱られるのを怖がる子供のようだと思って、この少年が自分よりずっと年下なのだと初めて実感できたような気がしたゼファカは、肩の力がストンと抜けるのを感じた。
「おいおい、ビビりすぎだろキリエリル……あの子はいないから、まずは移動しようぜ。周りの視線が痛い。お前の大好きなリアと仲直りするために、相談くらいは乗ってやるからよ」
「……気安く彼女を呼び捨てに……」
反射のように眉根を寄せて言いかけて、ラトニはチッと舌打ちをした。決まり悪そうにそっぽを向き、帽子を指先で引き下ろす。
「……付き合ってあげますから、さっさと先導してください。あなたと違って、暇を持て余してるわけじゃないんですよ」
「素直じゃねーなあ」
下唇を尖らせて毒を吐くラトニに、ゼファカは怒るでもなくけらけらと笑ってみせた。
何せこの恐ろしい少年相手に可愛げがあるなんて思ったの、今日が初めてだったもので。