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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・春告祭編
125/176

120:グリーンアイズモンスター

 ――ガドォンッ!!!!


 壮絶に攻撃的な打撃音がして、オーリは目を見開いたまま硬直した。


 不意打ちで怒鳴りつけられた猫の如く大きな目を限界まで丸くし、毛皮があったなら全身逆立てていただろう様子で呼吸を停止する。


 無意識に目の前の人間から距離をとろうと、背中についた木塀にぐいぐい体を押し付ける。

 顔の真横に突き立てられた拳から、ぱら、と木屑が耳を掠めて落ちた。


「――――今、」


 丁度右腕一本分だけ空いた距離、完全に表情の失せた顔でこちらを見据える少年の、噛み破りそうなほど食いしばられていた唇が、ゆっくりと開いて赤い舌を覗かせた。

 地獄の釜で念入りに煮立てられた亡者の断末魔から憤怒と憎悪と怨嗟だけを抜き出して蟲に喰わせてすり潰し、千匹分のそれを練り合わせて血反吐と血涙を繋ぎに纏め上げたような、底無しの暗闇に塗りたくられた声が発せられた。


「――――何て言ったのか、もう一度教えてくれませんか」


 陽光降り注ぐ平和な空き地の、足元に散らばるのはひっくり返されたオセロのセット。

 今にも人を殺しそうな眼光は、刃物のようなどと例えるのも生温いほどに重く、暗い。


 ざわりざわりと揺らぐ己の魔力にも気付いていない様子で、彼――ラトニ・キリエリルは辛うじてそんな言葉を絞り出した。


「………………いっ、いやあの……」


 体が呼吸することを思い出すと同時に、オーリの全身からぶわっと冷たい汗が噴き出してくる。

 七歳の少年だなどとは信じられないほどの、凄まじいプレッシャー。未だかつて一度たりとも自分に向けられたことのない殺意に満ちた少年の目に、手足がガタガタと震え始めた。


 蒼白になって視線を泳がせるオーリに、ラトニは眇めた双眸を不穏に光らせた。

 今にも『蒼柩』としての本性を現しそうになっているにも拘らず、彼本人はそれすら自覚しないほど、たった今受けた報告に意識を奪われているらしかった。


「オーリさん」


 短い一声には、押し殺した激情が極限まで圧縮されていた。


 ひっ、と見えない尻尾を跳ね上げて怯んだオーリが、ホッケーマスクを被った殺人鬼にチェーンソーを突きつけられているような表情で口をこじ開ける。強制的に本能へ捻じ込んでくるような死の恐怖を、辛うじて生存欲求が上回ったようだった。


「こ」

「こ?」

「……婚約が決まりました」


 ドガァンッ!!!!


 ラトニの拳が触れていた、壁の一部が爆散した。


 真っ白になった顔を引きつらせて最早言葉もないオーリに、ラトニはばらばらと降り注ぐ木片の中で静かに俯いた。


 長い前髪がはらりと落ちて、少年の目元を覆い隠す。

 人一人呑み込んでしまえそうな深淵を宿した双眸が、瞼の下に潜められて――




「――――――――へえ」




 次の瞬間、カッと持ち上げられたラトニの顔貌に、オーリは無音の絶叫を上げていた。


 氷の精霊じみた幼い美貌が、燃え上がらんばかりの憤怒で彩られていた。


 瞳は既に柔らかな琥珀色ではなく、人ならざるものの証である天満月のような黄金色。

 日頃彼がオーリに向けている好意と信頼と温もりは跡形もなく消え失せ、代わりに宝物を奪われるのを恐れるあまり自らの手で叩き壊してしまいかねない、激甚な憎悪を孕んだ狂気が少年のオーラを塗り潰していた。


「ラララララララトニさん落ち着いてラトニさん落ち着いてラトニさんお願いだからまずは落ち着いて人間の言葉で話をしよう!」

「僕は落ち着いています。人生でこれほどまでに頭が冷え切ったことはない」


 どう見ても嘘だ、とオーリは思った。


 ラトニの左手は万力のような力を込めてギリギリとオーリの右腕を握り締め、残った右手はオーリの如何なる抵抗にも対処できるよう密やかに構えられていた。

 怖い。腕力なら圧倒的にオーリが上のはずなのに、振りほどける気がしない。


「僕は今、あまり心に余裕がない。なので、要点のみ簡潔に答えてください。相手の名前は?」

「アーロイス・ガルシエ爵です!」

「聞いたことないですね。地位は」

「うちよりは下だけど、上級貴族で現役領主です!」

「政略狙い確定。職業」

「よく分からないけど、魔術研究やってるそうです!」

「正統派魔術師である僕の方があなた好みでしょう。年齢」

「二十代後半か、もしかしたら三十代かも、くらいです!」

「ロリコンかおぞましい」


 瘴気を吐くように唸ったラトニに、歯の根が合わないオーリはガタガタと震えた。


「二回りも年上とは何事です。あなた、本気でそんな男に嫁ぐつもりでいるんですか」

「……む、婿に取る可能性も」

「誤魔化すな! そんなことはどうでも良い!」

「ヒェッ! いや、その、貴族社会じゃ珍しくもない年齢差かなって……実際に嫁ぐのは早くても十年後だって言ってたし……」

「三十にもなって未婚の上、八歳の小娘を婚約者にしようなんて、どう考えても事故物件ですよ。断れ」

「命令形か! 無理無理無理無理、私にそんな権限ないもん! 御家同士の話だよ!?」


 涙目で絶叫するものの、婚約決定の最後の一押しが、うっかりオーリが「良いんじゃないのー」的なことを言ってしまったせいだとは言わない。言ったら既に若干軋み声を上げつつある右腕が本格的にご臨終を迎えかねない。


「なら出奔でもしなさい、あなたなら家から逃げてもやっていけるでしょう! 最近始めた刺繍だって、夜逃げした時手に職つけるための保険だってことは分かってるんですよ!」

「またストーカー人形(クチバシ)使ったなこの野郎! 刺繍に関しては確かにその通りだけど、貴族令嬢に気安く夜逃げとか勧めないでくれない!?」

「何が令嬢ですか、剛猿(ゴリラ)の癖に図々しい! 剛猿(ゴリラ)剛猿(ゴリラ)らしく野生で元気に跳ね回ってれば良いんですよ、何を好き好んでロリコン貴族の妻なんてふざけた檻に入ろうというんです!」

「ふざけてんのはあんただあぁぁぁぁぁ!! ことあるごとに剛猿(ゴリラ)剛猿(ゴリラ)抜かすのも大概にせえよ毒舌ヒヨコ! 私だって傷つかないわけじゃないんだからなぁぁぁぁぁ!!」

「一体何が不服なんですか!! 冥の川の向こうまで、そのずっと先までだって、僕が何処まででも共に行くというのに!!」


 機関銃のように怒鳴り合っていた二人は、そこでぴたりと言葉を止めた。


 フーッ、フーッ、と荒い息を吐いてこちらを睨み付けるラトニに、オーリは自分が何を言おうとしたのかも分からないまま口をぱくぱくと動かした。

 困惑と混乱に目を泳がせているオーリに、ラトニは深く息を吐いて、薄い唇を噛み締める。


「――あなた、本当に嫌だと思ってるんですか」


 投げ落とされた低い声は、それまでと僅かに色を変えていた。

 哀の気配を滲ませる声に、オーリは我知らず怯んで胸元を握り締める。


「……あ、当たり前じゃない。たとえ十年後の話にしたって、好きでもない人と婚約なんて嫌だよ」

「それは本心ですか? ――ああ、いえ、確かに本心には違いないんでしょうね。ただ――どうあっても回避するべき未来だと、あなた自身が考えていないだけで」


 苦い笑みと共に告げられて、オーリは押し黙った。

 それが図星を突かれたためなのか、ラトニに対する後ろめたさ故なのかは、彼女自身にも分からなかったが。


「ずっとずっと、あなただけを見てきたんです。それくらいのことは分かりますよ。

 ねえオーリさん、あなた――このまま何の支障も起こらないなら、十年後にはお父上の言う通り、大人しく嫁ぐ気でいるんでしょう」


 確信を込めたラトニの問いに、オーリは答えなかった。

 答えられないことが、何よりの答えだった。


 ――嫌だと思っているのは本心だ。婚約するなら好いて求めた相手が良いし、一緒に笑えて馬鹿ができて、価値観の合う人が良い。

 ガルシエ爵はそれに当てはまる人間ではなかった。これからそうなれる気もしなかったし、父と通じる胡散臭さも手伝って、忌避感の方が強い相手だ。


 でも、本気で婚約を回避しようとしているのかと問われるなら――答えはきっと、否なのだ。


(だって、仕方ないじゃない)


 意に沿わない婚約だ。相手は『天通鳥』の活動を支持なんてしないだろうし、結婚すればきっと今みたいな脱走はできなくなる。ラトニにだって会えなくなるだろう。


 けれど仕方ない。どうしようもない。

『ブランジュード家の令嬢として生まれてきた』のだから、それはもう、どうにもならないことなのだ。


「……父上様がさ、良い話だっていうんだよ。先方の領地は貿易が盛んで、他国とのコネもある。魔術研究にも熱心だから、結び付けばブランジュード領の発展にも繋がるって」


 ずっと前から覚悟していた。自分の婚姻を、自分の意思で決められないことなんて。


 だって、彼女の名前は最早『鷺原桜璃』でもなければ、『オーリ』でも、『リア』でもない。

 オーリリア・フォン・ブランジュード。

 シェパに生まれ、シェパの民に生かされてきたその名と命は、己が恩恵を受けてきた、その地のルールに従わなければならない。


 御家に従い、領地のために嫁ぐことは、貴族令嬢に求められる中で最も分かりやすい『民への献身』だ。

 公然と拒否を許される大義名分は二つだけ――即ち、『婚姻そのものが領地への不利益に繋がると証明できること』或いは『婚姻以上の利益を領地に提示できること』。


「夜逃げはできない。今回の一件は、『逃げても良い条件』に当て嵌まらない。

 だって私は、革命が起きて殺されそうになったわけでも、御家騒動に巻き込まれたわけでもないもの。私の生命や尊厳に関わるほどの冷遇を受けそうな家ならまた別だけど、先方にそういうつもりがない以上、婚約が嫌なのは私の個人的な我儘で、逃げるのは家と民への裏切りだ。

 私は、貰った分だけ返さなくちゃいけない。――キミや領民に比べてずっと恵まれた場所で、何不自由なく守られて生きてきた分、相応しい献身を持って返さなきゃならない」

「あなたは散々『天通鳥』として走り回ってきたじゃないですか。あなたの父親が見もしなかった色んなものを掬い上げて、まだ人生を懸けなければならないほど払い足りないというんですか」

「足りないよ。私たちは確かに色んなものを掬い上げてきたけど、自分の無力を刻みつけられることはそれよりずっと多かったじゃない。それじゃあ、『貴族令嬢としての人生』に対する代価にはならないよ」


 今日の朝食のデザートは、家の直轄農園から届いた新鮮な果実だった。昼食は、海の遠いシェパでは貴重な白身魚のムニエルだった。夕食はきっと上等な肉を贅沢に挽いた、あの肉饅もどきのスープが出る。

 クローゼットには皺一つないドレスが沢山下がっていて、ベッドはシーツまで綺麗な刺繍を施したものがかけられている。学びたいと言えば本も家庭教師もいくらでも与えられ、誕生日まで待たなくても高価な贈り物を強請ることができる。


 ――全部全部、ラトニや街の子供たちや、街に住まうほとんどの大人が持っていない、一生かけても持てないものだと分かっている。

 散々恵まれた生活をさせてもらっておいて、代金を支払う段になったら逃げるなんて、そんなことオーリの矜持が絶対に許さない。


 眉尻を下げて、オーリは笑う。彼女を捕まえていた手がいつしか落ちて、ラトニはきつく拳を握り締めた。


「――あなたは」


 もしも忌々しい『婚約者』とやらを殺したならば、彼女は戻ってきてくれるのだろうか。

 絞り出すように呟いた少年の声は、心を切り刻むような悲哀と失望に揺れていた。


「オーリさんはいつもそうだ。反骨精神旺盛なくせに、妙なところで物分かりが良い。独自の価値観を持って揺らがない割には、義務に忠実で、守るべきと判断したルールにはどんなに不快でも粛々と従って、人生を懸けることも厭わない。それを見ているしかできない僕が、どんな思いをしているかも知らないで」


 彼女と同じ地位に生まれたかったとこれほど強く思ったのは、彼の人生で『二度目』のことだ。


 ラトニはのろのろと両手を伸ばし、最愛の少女に縋り付いた。

 ぱちりと散った薄暗い魔力の燐光に、オーリが小さく震える。それでも逃げようとはしない彼女に、喜びよりも絶望が重みを増した。


 ――彼女は線引きを間違えない。ラトニが『蒼柩』とバレでもすれば迷わずラトニを連れて逃げてくれるだろう彼女は、けれどこの一件において、決してラトニを選んではくれない。


 オーリの首を銀盆に乗せて口付けたなら、彼女は自分のものになるのだろうか。

 いつかの過去に聞いた、預言者に焦がれてその首を欲した狂恋の王女の話を思い出しながら、ラトニはぎゅうぎゅうと少女を抱き締めて、


「――んぎっ……!」


 首に強烈な痛みが走って、オーリは反射的に腕を突っ張った。


 突き飛ばそうとしたはずのラトニはますますオーリにしがみ付き、首筋に立てた歯に力を込める。

 もがく彼女を抱き込んで、いっそ食い殺しても構わないくらいの思いで、致命の傷となる血管を探した。


 ――がり、と鈍い音がした。


「ラトニっ!!」


 いくら何でもこれは見逃せない。とうとう本気の怒声を上げてラトニを引き剥がしたオーリに、たたらを踏んだラトニが感情の窺えない目でゆるりと見返してきた。


 ひやり、背中に寒気が走る。

 オーリの首筋を、ぬるついた液体が流れ落ちていった。


 ――ぞわぞわとどす黒い魔力を蠢かせ、目の前に立つ少年が、まるで得体の知れない怪物になってしまったように思えた。


「……『逃げても良い条件』に、当て嵌まらないと言いましたね」


 己の唇についた赤い何かを、ラトニが親指で静かに拭った。


「なら、当て嵌まれば良いんですか。革命が起きれば良いですか。王族が敵に回れば良いですか。救いようがないくらい、国が荒れれば良いんですか。あなたが自分に逃亡を許すくらい理不尽に、強大な力で踏み潰されそうになれば、他の全てを諦めて、僕を選んでくれるんですか」


 じり、とラトニが一歩踏み出した。跳ねそうになる呼吸を飲み込んで、オーリは茫然とラトニを見つめていた。


 僕は、と小さく呟いて、不意にラトニの顔がくしゃりと歪んだ。死にかけた野良猫をどうやって救えば良いのか分からなくて、抱き締めたまま立ち尽くす、無力な幼子のような表情だった。


「黙って我慢するのは、 耐えて眺めて立ち尽くして、結果喪ってしまうなんてことは、もう終わりにすると決めたんです! そんな思い、二度も味わうなんて絶対にごめんだ! あなたの言うことは信用できない、そんな理不尽な選択が最善だなんて認めない!」

「そ、んなこと、キミに認められなかろうが構わないよ! 世の中が理不尽だなんて誰だって同じ、当たり前のことじゃないの! 感情論で駄々を捏ねるなっ!!」

「真面目な人間のフリして諦観に逃げてる癖に、抵抗する僕を我儘なクソガキ扱いですか!? ――いっそ僕が『蒼柩』だと、公衆の面前でブチ撒けてやろうか!!」


 バキィッ!!


 次の瞬間、軽く吹き飛ばされたラトニは、数秒自分に何が起こったのか分からなかった。


 固い地面に倒れ込んで、擦った手のひらに小石の感触を感じる。頰を打ち抜いた衝撃の存在を認識した後、少し遅れて熱と痛みがやってきた。


 じわじわ広がり始めた血の味に、ラトニは己の口の中が切れていることを知った。

 胸の位置まで持ち上げた右拳を固く握り締め、歯を食いしばって仁王立ちで己を見下ろすオーリの姿に、己が盛大に地雷を踏み抜いたのだと悟った。


「――オーリ、さ、」


 彼女に殴られたのは、覚えている限りこれが初めてだった。


 じゃれて小突くことこそあれど、彼女がラトニに向けて拳を振るったことなど一度もなかった。

 ラトニが血を流すことを、ラトニ自身よりずっと恐れているのが彼女だった。


 数十秒前まで全身を支配していた狂熱が、嘘のように冷えていく。

 ざあっと音を立てて血の気の引いた顔から、凶つ月のような金色の光が見る見るうちに消えていった。


 ラトニの秘密が白日のもとに晒されることを、彼女がとても恐れていることを知っていたのに。

 ラトニがこの国で、この世界で、排斥の対象にならないよう、忌避と悪意の視線を浴びないよう、いつだって警戒に神経を尖らせていることを知っていたのに――。


「ごめん、なさ――」

「キミ、なんか」


 震える唇から零れようとした掠れ声は、じわりと涙を滲ませたオーリの声に押しのけられた。


「――ラトニなんか、大っ嫌いだぁぁぁぁぁ!!!!」


 腹の底から叫んで身を翻したオーリを、ラトニは追えなかった。

 上着の裾をなびかせて、飛ぶような早さで駆け去っていく背中を、ただ茫然と見つめていた。

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