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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・春告祭編
123/176

118:拝啓、××な君へ

 懐事情は退っ引きならぬものの、しかしサラ本人もまた、己を取り巻く状況が他者を巻き込みかねないという意識はしっかり持っていたようだ。

 別段大金を稼ぎたいというわけではなく、最も資金を圧迫する宿代を、それも最低限、予定している滞在期間である春告祭の間だけ賄えれば良い。初対面の子供に頼るしかない己の不甲斐なさに何度も何度も謝りながら、それでもどうかと頭を下げて条件を連ねた彼女のために、ならばと手を挙げたのはオーリだった。


「――ということで、どうでしょうマリー姐さん。接客は慣れてないけど、厨房でなら充分戦力になりますよ」


 黒塗りの人魚と『準備中』の文言を記された、木製のプレートが掛かった店先で。

 揃えた指先でピシッとサラを示し、営業中のサラリーマンの如く背筋を伸ばして売り込むオーリに、マリー姐さんと呼ばれた相手は幾分興味を持ったように流し目をくれた。


 豊かな髪をバレッタで留めた、妙齢の美女――に見える人物だ。喉元まできっちり覆った衣装は、けれど豊満な胸部を隠し切れてはおらず、長くしなやかな足がスカートの裾から覗いている。


 この艶めかしい美女が、元は腕利き冒険者の猛者であり、同時に正真正銘の男で、更には知る人ぞ知るオカマバー『ブルーマリン』の店長だと、一見して分かる者はそういるまい。

 オーリの知己であり、裏町の顔役の一人である彼、もとい彼女は、只今紹介を受けたサラの全身を、じろじろ遠慮なく見渡し始める。


「ふぅん、容貌はなかなか。でも押しの弱そうな顔してるし、確かに厨房からは出さない方が良さそうねぇ」


 サラの求めた条件は、宿代を賄えること、一日の大半をサラ自身の用事に割けること、権力者との無用な接触がないこと。

 ついでに彼女が人馴れしていないことや、職場が目立つ位置にないことなどを考慮して、オーリが提示したのがこのバーだった。


 奥まった裏通りに存在するこの店は、店長であるマリーがしっかり目を光らせている分、中に入ってしまえば存外清潔で、客も従業員も行儀が良い。

 オカマバーという性質上、女であるサラは店に顔を出すことなく厨房で裏方に徹していれば良いし、共に働く従業員は全員見た目も心も見事に女のそれなので、異性を忌避しがちなサラの琴線にも引っかからないだろう。


 貴族や金持ちが堂々と訪れるような店でもなく、仕事中は賄い付き。

 客足が著しく伸びる春告祭期間中のみの雇用という条件はつくが、宵の口から深夜まで数時間も働けば上階の空室を寝床に使わせてくれるという、なかなかに破格の提案なのだった。


「確かに今年の春告祭は人手が欲しいって愚痴ったわ。でも、警戒心の強いリアちゃんが今日街に着いたばかりの女の子にわざわざうちを紹介するなんて、個人的にもそこそこ彼女を気に入ったってことなのかしら?」

「はい。訳ありだけど、善人だってことには間違いなさそうだったんで。マリー姐さんたちが嫌うようなタイプじゃないし、会わせるくらいなら大丈夫だと判断しました」

「へえ……ラトちゃんの方は何か言ってた? て言うか、あの子今日はいないの?」

「すいませんあっちは今ちょっと別件で」


 真顔でツラッと嘘をついて、オーリは「残念」と唇を尖らせるマリーからそっと目を逸らした。


 店に来るまでは一緒にいたラトニだが、現在同席はしていない。

 初対面の時、「やだなにこの子、クールで生意気そうで可愛いわあ!」と豊かに見えて詰め物満載(と、総筋肉)なマリーの胸に盛大に抱き込まれたのがトラウマになっているらしく、彼は今、少し離れた所で待機しているところだった。


「相棒も、マリー姐さんとこなら間違いないだろうって言ってましたよ。店長がしっかりしてるから安全だし、健全だしって」

「あら、嬉しいわね。また今度遊びに来るように言っといて頂戴よ。

 ……それであんたは修道院育ちだっけ。貴族と揉めたっていうけど、あんたはそいつの所に行く気は全くないのよね?」

「は、はいっ! もし出くわしても、全力で逃げて良しと言われています! 修道院では下働きもしていたので、掃除洗濯や皿洗いには自信があります!」

(あ、マリー姐さんが見定める体勢に入った)


 当面ここほどサラの状況に合う店は見つからないので、サラとしては是非マリーに認められたいところだろう。

 威圧と狡猾を等分に孕んだ目でじいっと見つめてくるマリーに、サラの顔がますます強張っていくのが分かる。それでも目を逸らさずに、青褪めた顔で真っ直ぐマリーを見つめ返しているのだから、その度胸は評価に値した。


 聞いた話では、マリーが冒険者を辞める切っ掛けが貴族との揉め事にあったとかで、彼女は偉ぶった貴族が大嫌いらしい。

 このバー『ブルーマリン』を作ってからは、一貫して営業黒字を叩き出し続ける一方、冒険で培った手腕を遺憾なく振るって権力者の後ろ盾まで得たらしいので、サラを追う貴族からの多少のちょっかいには対抗できるだろう。


 持って生まれた性癖と昔の稼業のために様々な人間たちを見てきたマリーは、人を見る目も相応にある。

 ある程度事情を明かした上で、マリーがサラを受け入れると決めたなら、最悪サラの居場所がバレても、彼女が逃げる時間稼ぎくらいはしてくれるだろう――たとえ相手が貴族であれ、むざむざ奪われるままで終わらせない程度には、マリーという人間は強かで、そして有能だ。


「っ…………!」


 外見美女、中身は正真正銘の男であるマリーが、プルプル震えるサラの顎を、くいっと指先で持ち上げた。

 平均値を大きく上回る両者の容貌のせいで妙に淫靡な空気が漂うが、マリーはそんなことには構わず、ビシッと固まったサラの目をじっと覗き込む。


「修道院なら貴族の子女が入ってくることもあるわ、多少は貴族と繋がりがあるでしょう。あんたは少なくとも一定の教育を受けられる程度の立場にいたようだし、わざわざ他国にまで逃げてくるより、手っ取り早く何処かに保護を求めようとは思わなかったの?」

「今回は、相手が悪過ぎたので。詳しいことは言えませんが」

「ふぅん……もしもあんたの居場所が相手にバレたらどうするつもり?」

「し、死ぬ気で逃げます」

「うちの店ごと狙われたら?」


 サラは数秒押し黙った。ややあって眉根をきゅっと寄せ、マリーを見上げて掠れた声で返す。


「……店の被害が最小限で済むよう、可能な限り手を尽くします」

「大なり小なり被害が出ることは想定してるのね」

「巻き込んでしまうことは、本当に心苦しく思っています。だけど、それを押してもやらなきゃいけないことがあるから、わたしは今、この街にいます」

「あんたがついてこなければ店に火をつけると脅されたらどうする?」

「……ついては行かない、けど、店は出て行きます。二度と店に戻らないと、相手にも分かる形で」

「いくら人質をとっても、脅したい相手に伝わらなければ意味がないものね。抗って店を守ることはしない、いえ、できないと理解しているのかしら? その分のリスクを代わりに背負える実力があたしにあると思ってのこと?」

「リアちゃんとラト君が、あなたについて色々話してくれましたから。コネと実力があって、色々な修羅場を超えてきた人。見る目があって厳しくて――わたしのことも、一番最初にきちんと見極めてくれる人だって」

「あんたの言う『やらなきゃいけない』は誰に与えられた言葉かしら。貴族? シスター? それとも神様?」

「わたしの協力者に与えられ、受け止めるとわたしが決めました」


 ふるふる小さく震える手で、服の裾を握り締めながら。

 自分に言い聞かせるように告げるサラに、マリーはふんと鼻を鳴らした。


「――店に迷惑はかけませんだの、自分が守りますだの、寝言を言ったら叩き出すつもりだったけど」


 しばらく眉間に皺を寄せていたマリーは、やがて何かに納得したのか、気紛れな猫のような目をゆるゆると細めた。紅いルージュを塗った唇が釣り上がり、サラの顎を解放する。


「――結構。雇いましょう。春告祭の間だけだけど、宜しく頼むわよ」


 にこりと優雅に微笑んだマリーに、サラがほっと顔を綻ばせた。


 二人の間に満ちる異様な緊張感に気圧されて固まっていたオーリも、ようやく肩を落として息を吐く。

 労働条件を詰めましょうか、と促すマリーに、少女は一足先にいとまを告げるために口を開いた。




※※※




 怪しげな店の立ち並ぶ通りを抜け出て表通りへと踏み出せば、滴るような花の香りがふわりと空気を染め上げた。

 バー『ブルーマリン』から一人で店を出てきたオーリを見て、ラトニはすぐに説得成功を悟ったようだった。


「すんなり決まったようで良かったですね。マリーさんはサラさんを気に入りましたか?」

「ん、そうみたい。マリー姐さんは面倒見の良い人だし、雇ってさえもらえるなら、ちゃんと可愛がってもらえると思うよ」

「真面目な人だということは確かなようですしね。……一日のうち、働ける時間をほとんど取れないという条件が少し気になりますが」


 不可思議そうにラトニが呟くが、オーリは肩を竦めただけだった。今更サラの事情など気にしたところで、何をしてやれるわけでもない。


「最初からその条件で雇ってもらったんだから、もし問題があったらマリー姐さんが対処するでしょ。姐さんやお店の人なら、大抵のトラブルは何とかなるよ」

「一番心配な『トラブル』は、店でうっかり妙な男でも引っ掛けないかですけどね」

「サラさん美人だったもんねぇ。ラトニの好みはどんなの? セクシーなの? キュートなの? どっちが好きなのー?」

「ブルドックみたいなへちゃむくれた潰れ顔が好みですよ」

「やめて! 後頭部を鷲掴んで壁に向かって構えないで!」


 ちょっとからかったら途端に戯れ返し(物理)が返ってきて、オーリはヒギャアと悲鳴を上げる。別段機嫌は悪くないようで、ラトニはすぐに彼女を解放し、揶揄するように鼻を鳴らした。


「冗談ですよ。敢えて言うなら、リアさんの顔は好きです。将来セクシーにもキュートにもなれなくても、本物の剛猿(ゴリラ)に進化しても、きちんと檻に入れて愛でてあげますから安心してください」

「土下座するからせめて放し飼いでお願いします!」


 厳密には彼女の容姿が好みなのではなく、彼女以外の容姿に興味がない、と言った方が正しいが。

 しれっとした目付きで言い放って、ラトニは悲痛な顔で叫ぶオーリに口端を釣り上げてみせた。東方系の幻影を被った少女の顔は、それでもラトニにとって世界で一番うつくしいことに変わりはない。


「――それよりリアさん、早く警備隊の詰所に行きましょう。人のものをいつまでも持っているのは落ち着かない」


 琥珀色の瞳でぱちりと瞬きを一つして、ラトニは話題を切り変えた。オーリの持つ革の鞄に目をやると、オーリも思い出したように頷いてみせる。


「ああ、うん、そうだね。失くした人たちも困ってるだろうし、早くイアンさんに預けちゃおう。本当は、直接返しに行ってあげた方が良いんだろうけど……」

「そこまでする義理もありませんよ。この手のものなら盗難届けくらい出ているでしょうから、警備隊にさえ持って行けば、速やかに連絡してくれるでしょう」


 オーリの鞄にしまわれているもの――それは即ち、先程かっぱらいを仕留めた時に、ついでに押収した数点の物品だった。


 宝石付きのブレスレット、高価そうなラベルのついた小さな酒瓶。あからさまに盗品と分かるそれらに混じって、二人が特に問題だと考えたのが数枚のカード――商業ギルド発行の通商許可証だった。


 とは言え、ぱっと見で値打ちものと分かる代物――指先一つ、書類一枚で莫大な利益を稼ぎ出す大商人たちが持つような、各国で様々な便宜が図られ、発行にさえ大金や、毎年一定額以上の黒字が要求される上級カードではない。

 粗末な服装の男が持ち歩いているところを見られても見咎められにくい、地味なデザイン。恐らく家族経営の店舗や、個人で国を渡り歩く行商人などが使う、零細商家向けの下級カードだろう。


 下級カードは上級カードのように、再発行のために金貨が必要になるほどのものではない。

 けれど国境を越えるための身分証明書でもあるそれは、同時に商人にとっては大切な生命線だ。

 紛失すれば再発行には煩雑な手続きが必要になるし、場合によっては信用問題にもなるだろう。


「再発行の料金は高くないとは言え、零細商人には馬鹿にならない金額だし。裏ルートに流れて悪用されれば困ったことになるから、駄目元でも盗難届けは出てるはずだよ。盗まれたのが数日内なら、まず再発行は終わってないはずだから、早く伝えてあげないとね」


 恐らく売り飛ばすつもりで盗んだのだろう通商許可証を、かっぱらいが処分する前に見つけられたのは幸運だった。

 二人は表通りを足早に抜け、やがて見慣れた警備隊の詰所に辿り着く。


「ラト、手を繋いでおこう」

「はい」


 警備隊総副隊長であるイアン・ヴィーガッツァとは知己の間柄だが、隊員の多くと、そして総隊長とは顔を合わせない方が良いことは理解していた。

 姿を不可視にする幻術を被って、足音を立てないように門を潜る。あちこちをうろつく警備隊員の間をすり抜けて、堂々と三階にあるイアンの執務室に向かった。


 れっきとした侵入であり、見つかれば罰せられるだろうが、許可を出したのはイアン本人である。

 警備隊内の腐敗に誰よりも胃と頭を痛めている彼は、街の情報をオーリたちに頼り、時に協力を要請することで、隊の人材不足を埋めている。


「――必要ないと言っている!」


 丁度通り過ぎようとしていたドアの一つからヒステリックな男の声が聞こえてきて、オーリとラトニはぴたりと足を止めた。


 この声には聞き覚えがある――確か隊の人材不足の主な原因である、警備隊総隊長のそれだ。

 そっと小窓から覗き込んでみると、果たして大きな安楽椅子に体を埋め、直立するイアンを怒鳴りつけている男の姿がそこにあった。


 シェパ警備隊総隊長の名前を、オーリは覚えていないし聞いたこともない。

 今しも執務室で怒声を上げているそれは、イアンとは対照的にでっぷりと太った初老の、自ら武器を取って戦うことなど考えもしていないだろう容姿の男だった。


 何年も前に先代の総隊長が仕事に失敗して更迭され、その後釜として他領から送られてきたらしいが、その能力はおよそ有能とは程遠い。

 尤も、上級貴族出身で無駄なプライドやコネだけはふんだんに持ち合わせているそうなので、下級貴族出身であるイアンとしては首に縄をかけられているようなものだろう。

 今も直立不動で佇むイアンは、糊で固めたような無表情の裏に激しい苛立ちとうんざりした空気をぎゅうぎゅうに押し込めているのが見て取れた。


「――しかし総隊長殿、シェパの貴族の不審死はこれで二件目です。南方領主会議を目前に多くの貴族がシェパへと集いつつある中、不安要素を放置することは警備隊として、」

「たったの二件だ! それに不審死ではない、どちらも死因は明確ではないか! 片方は心臓発作、もう片方は馬車の事故! どこに疑う余地がある!」

「馬に細工をされる隙があったなら、疑う理由には充分でしょう。心臓発作の件だって、他領の警備隊からの情報では――」

「いい加減にしろ、わしが勘違いだと言っとるんだ! ヴィーガッツァ君、君の階級は何だね!?」


 どん、と執務机を殴る音。

 叩きつけるように怒鳴られて、イアンがぐ、と押し黙った。ほんの一瞬、眇めた薄緑の双眸に憤怒を過ぎらせ、秒針が一つ動くよりも素早く、それを奥底へと押し込める。


「――シェパ警備隊総副隊長です」

「そうだ、君は副隊長で、わしの部下だ。このわしが君に、余計な勘繰りだと言っている以上、君の取るべき選択肢は何か分かるな?」


 素直に答えたイアンに、総隊長は少しばかり溜飲を下げたらしい。低い声で問いかける男に、イアンは数秒の沈黙を挟み、そしてゆっくりと頭を下げた。


「――ええ。差し出口を申しました、総隊長殿。俺の言ったことは忘れてください」

「結構。退室したまえ」


 イアンの言葉に、総隊長はわざとらしく鷹揚に頷いて片手を振った。


 黙して従ったイアンが部屋を出て、ドアを閉じると同時に目付きを鋭くさせる。

 ぎり、と強く歯軋りしたのが、壁に張り付いて息を潜めていたオーリたちの耳にも聞こえてきた。


 廊下で話しかけるわけにもいかず、かつかつと急くように廊下を進むイアンの後を、オーリとラトニはこそこそと追いかける。

 幻術で姿を消してはいるが、ピリピリしている今のイアンなら気配くらいあっさり察知しかねない。距離を取ってついていった二人だが、やがて自室に辿り着いたイアンは、周りを見回してドアを開け、それを片手で押さえて振り返った。


「――早く入れ」


 ぼそりと小さく呟かれて、オーリたちはやはり自分たちの存在に気付かれていたことを悟った。


 黙って部屋に滑り込み、ドアが閉ざされると同時に幻術を解く。

 決まり悪そうにソファに座った子供たちの対面に、イアンがどさりと腰を下ろした。

 俯いた彼の、灰色がかった銀色の前髪が、ぐしゃりと両手で掴まれた。


 ――――はー…………。


 深々と。

 腹の底から重苦しいものを吐き出すように、長く長く息を吐き。


 次に顔を上げた時には、イアンはもう、世慣れた苦笑を浮かべたいつもの彼に戻っていた。


「――みっともねぇとこ見せちまったなぁ」


 困ったようにゆるりと口角を持ち上げて。

 嘯くイアンに、オーリが「いえ」と視線を泳がせた。

 うろりと落ち着かない少女の視線に正しく心中を察したらしく、彼は自嘲ぎみに笑みを深くする。


「間近で見たのは初めてだったか? あれがうちの総隊長だ。俺も何とか目を掻い潜ろうとしてるんだが、どうも御大、妙なとこで耳が早くていかん。

 嬢ちゃんたちも、あの人の視界には入らないように注意しといてくれ。で、お前ら別に遊びに来たわけじゃないんだろ? 今回はどんな用件だ?」


 パンと強く手を叩き、空気を切り替えたイアンに、オーリはラトニと目配せを交わした。


 総隊長との確執は気になるが、これ以上追及するようなことでもない。

 先程までの空気を忘れたような顔をして、オーリが鞄から幾つかの物品を取り出し始めた。


「あの、実はさっき、リアさんがかっぱらいを一人蹴り倒しまして。あからさまに盗品らしきものが幾つかあったんで、イアンさんに預かってもらおうと思ったんです」


 テーブルに並んでいく品々を指差しながら、ラトニが淡々と説明する。

 イアンがカードを一枚手に取って、矯めつ眇めつしてから頷いた。


「成程、ギルドの通商許可証か。確かに盗難届けが複数出てる、これならすぐ持ち主に返せるだろ。よくやったな、嬢ちゃん、坊主」

「どういたしまして。あ、イアンさん、こっちのブレスレットとかお酒とかはどうなります?」

「おー、そっちは今んとこ届け出がねぇんだよ。しばらくはうちで保管しとくが……」


 そこまで言って、イアンがふと表情を変えた。眉間に皺を寄せ、手のひらサイズの小さな酒瓶を取り上げる。


「イアンさん?」


 不思議そうに首を傾げるオーリたちをよそに、イアンは酒瓶を観察し始めた。ラベルを擦ったり逆さにしたりした後で、顎に手を当てて短く唸る。


「……ラベルを貼り直した跡がある」


 ぼそりと告げられた言葉の意味が分からず、オーリとラトニが顔を見合わせた。


「……古いお酒なら、そういうこともあるのでは?」

「ヴィンテージもののラベルを貼った、少量売りの高級ウイスキーだぞ。ラベルを貼り直した痕跡なんて見つかろうもんなら安酒の瓶とすり替えられたと疑われて、正当な値段なんか付きゃしねぇ。たとえラベルがぼろぼろになろうが、新しいのに貼り替えるってことはそうそうしないはずだ」


 金色の縁取りがされたラベルに、流麗な、けれどオーリたちには解読できない文字で記された酒の名前。

 顔をしかめて説明するイアンに、二人も成程と納得する。オーリが拍子抜けしたように眉尻を下げて問いかけた。


「つまりそのウイスキー、詐欺用に作られた安酒ってことですか?」


 イアンの手の中にあるのは、大人なら二、三口で飲み切ってしまえそうな小瓶だ。中にちゃぽんと揺れるウイスキーはコルクでしっかりと密封され、更にその上から金属のボトルキャップで固定されている。

 安酒の割には防備が固いような気がするが、元よりオーリには酒の扱いなど分かるわけもないので、疑問を言葉にするほどでもなかった。


「その可能性が高いな。どの道小瓶一本なら、通商許可証や宝石と違って盗難届は出ねぇだろ。もし持って帰りたいなら、そうしてもらっても構わねぇんだが……」

「別にいらないです。私、お酒は飲まないし」

「僕もです。わざわざ売り払うほどのものでもなさそうなので」

「だよなぁ……ならやっぱり、しばらくうちで保管か」


 イアンが肩を竦めて、並べられた物品を遺失物用の箱に収め始める。あの中のほとんどは、運の良い所有者たちの手元に帰るのだろう。


 ウイスキーの小瓶をもう一度見て、オーリはふと違和感を覚えた。

 皮膚の表面を密やかに掠めるようなその感覚は、結局正体を掴めないまま立ち消えて、彼女はただ、灰色の双眸をゆるりと瞬かせた。

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