12:楽園の蛇は囁くのか
そこは、がらんとした大きな部屋だった。
申し訳程度の家具は、どれもかつての家人が置き去りにしていったものだろう。
デスク、椅子、カーペット。元は高価だったのかも知れないが、今は全てが古び、色褪せている。
申し訳程度の手入れはされているのだろう、意外に埃は目立たない。部屋の四隅を照らす灯火封珠が、今もここを使っている誰かの存在を示唆していた。
部屋の中に目に付く人影がいないことを確認して、オーリは倒れ伏す少年に駆け寄った。
ダークブラウンの上着は、かつてはオーリが着ていたものだ。フードに隠されていない、茶色みがかったショートの黒髪が、初めて裏路地で少年と出会った日のことを思い出させた。
「ねえ、起きて――何があったの。何かされたの? キミを連れて来させたっていう金髪野郎は何処にいるの!」
呼びかけながら何度も揺さ振ると、少年――ラトニは短く呻き声を上げた。ゆっくりと開いた目が、前髪を透かしてオーリを見る。
オーリの視界に映ったその瞳は、湖面のように澄んだ深い琥珀色をしていた。感情を窺わせない怜悧な双眸が、オーリを見上げて静かに細められる。
「あなたは……。……迎えに、来てくれたんですか?」
ずる、と力なく上半身を起こし。
ラトニは小さな声でそう言った。
喉が渇いているのだろう、随分と掠れてはいたが、それは確かに聞き覚えのある少年の声だった。
口に手を当てて数回咳き込む彼の背中を撫でてやると、済まなさそうに目礼してくる。長い睫毛が音もなく揺れ、痩せた頬に影を落とした。
(怪我をしてる様子はなさそうだけど。でもこの様子じゃ、詳しく話を聞くことは無理っぽいな)
いつも顔を隠しているラトニの顔をまじまじと観察する機会なんて、実質これが初めてだ。けれど、どうやら予想以上に端正な顔をしていたらしい、とオーリは他人事のように考えた。
隠していない下半分だけでも充分整っていると思っていたが、そこに鮮やかな琥珀色の双眸が加わるだけでこれほど印象が変わるとは思っていなかった。オーリも充分以上に整った容姿をしているが、このラトニに比べればランクが落ちることは間違いない。
(性格からして普通じゃないとは思ってたけど、顔立ちはもっと子供らしくなかったんだなー)
同じく『普通じゃない』自分のことはさらりと棚に上げて、オーリはそんなことを考える。
――だって、寒気がするほどの美貌なんて、現実に目にする機会があるとは思わなかったのだ。
初めて目にするラトニの容貌は、まさに極北の氷を想わせるに相応しい、研ぎ澄まされたものだった。
元より聡明な子供ではあったが、その目を見ればより一層、知性の光は深々と根付く。透徹した意思を宿す面差しも、長じて幼さを削ぎ落とせば、どれほどの凛冽たる美を築くことか。
常に声を荒げず落ち着いて、いっそ冷淡なほど冷静に。
感情を表出させにくい少年の顔は、それ故にどこか人らしさの欠けた印象を与えたが、一方対照的に色濃く残る顔立ちの幼さが、更なるアンバランスな魅力を作り出している。
――まるでこの世のものではないかのようだ、と。
一瞬過ったその感想は、拾う間もなく消えたのだけれど。
「……すみません、もう大丈夫です」
ラトニがゆっくりと身を起こし、解れたカーペットに座り込んだのを合図にして、オーリは再び立ち上がった。忙しなく視線を巡らせて周囲を警戒しているオーリを見上げながら、ラトニは具合が悪そうに何度か頭を小さく振って、一度深く息を吐く。
「どうやら下手を打ってしまったようですね。あなたをこんな所にまで来させてしまうなんて」
「良いんだよ、そんなの。ほら、無理して立ち上がろうとしないで、まだ座ってなよ」
「そういうわけにもいきません。ここは敵地ですよ。どうしてこんな危険な所にまで来てしまったんですか」
「……そんなこと、キミは考えなくて良いんだってば。大体、キミが行く所なら、私が付いて行かないはずがないよ。いつもそうだったでしょう?」
「ええ、そうですね。でも、やっぱり僕はあなたに危険な目に遭って欲しくなかった。こんなことは、相応の役目を持つ人に任せておけば良かったんですよ……僕のせいであなたに何かあるなんて、僕は絶対に許せない」
悔しげに顔を伏せて言うラトニに、オーリは困った顔で苦笑した。
オーリは怪我をすることが大嫌いだが、その彼女当人よりもオーリを心配しているのがラトニだった。
街でごろつきを狩る時も、危険な場所に薬草を採りに行く時も、ラトニは何となく物言いたげな様子で、それでも黙って付いて来る。私の頑丈さを知ってて尚あそこまで心配するのはラトニくらいのものなんだけどなあ、と思いながら、オーリは話を切り替えた。
「もう良いってば。それよりさ、私は金髪の男がいるって聞いたんだけど……今、そいつは何処にいるの?」
オーリの質問に、彼は申し訳なさそうに首を横に振った。少し傷んだ髪がさわりと揺れ、血色の悪い頬を撫でた。
「分からないんです。呼び出されて少し会話をした後、額に何かを押し当てられて……そのまま意識を奪われた後、気が付いたらあなたに起こされているところでした」
「そっか、それじゃあ仕方がないね。ひょっとして、仲間にでも呼ばれていったのかな」
「そうかも知れませんね。……あなたは、ここに来るまでに誰にも会わなかったんですか?」
「うん、隠れながら来たし、誰も見かけなかったよ。見つかったらきっとすぐに捕まっちゃってたから、運が良かったのかな」
「だから無鉄砲だと言うんです。……でも、助けに来てくれてありがとうございます。あなたに怪我がないようで何よりですよ」
「あはは、ありがとう。ん、じゃあ、もうここに用はないってことで良いのかな?」
扉の外に意識を向け、気配がないのを確認してから、オーリはラトニに手を差し出した。自分を見上げてくる琥珀色の瞳に、こんな状況下で初めてその色を知ることになった皮肉を感じる。
「ええ、そう……そうですね。いつまでもここにいたってしょうがない。僕が自分で逃げ出せていれば良かったのですが……」
「ああもう、ほら、いつまでも落ち込んでないで。誰かが来ないうちにさっさと逃げちゃおうよ」
朗らかにそう告げる少女は、未だに申し訳なさそうに落ち込んでいるラトニを明るい顔で励まして。
「それで、早く機嫌を直して私の名前を呼んでくれない? あんなに私を呼ぶのが好きだった癖に」
――ほんの一瞬、その青灰の瞳が、微かに鋭い光を宿した。
けれどその仕草には気付かぬ顔で、ラトニは目の前の少女を見上げる。整った唇が微かに綻び、美しい微笑を形作った。
「ああ――すみません。気を遣わせてしまいましたね。
――あなたの言う通りです。早く、一緒にここを出ましょう。オーリさん」
そう言って、ラトニは差し出された手を握り返した。
温かい手のひらの感触に、オーリはにこ、と愛らしく笑い。
――――握り締めたその手を、力の限りブン投げた。
※※※
幼くも美しい少年の体が、無残に叩き付けられる激しい音――は、しなかった。
その気になれば熊とも格闘ができるオーリの怪力で軽々と投げ出されたラトニの姿は、壁にぶつかる前に音もなく消失する。
空気に溶けるように掻き消えた『ラトニ』の代わりに、そこには長身の影がだらりと肩の力を抜いて立っていた。
一見して質の良さそうな、白地の服を纏った青年だ。所々が跳ねた細い薄い金髪に、やる気なく垂れたピーコックグリーンの双眸。地下で教えられた特徴と一致する容姿に――そして、その足元でぐったりしている小柄な人影に、オーリの奥歯が微かに軋む音を立てた。
いつからそこに、などという質問はしない。
恐らくこの青年は、最初からずっとこの場に居たのだ。オーリに偽物のラトニの幻を見せていたように、己の存在をオーリの視覚から抹消して。
「――どうして分かったのー?」
壁に凭れてオーリを見つめながら、青年がそう問うた。心底不思議でならないといった声だった。
見た目の通りの、呑気に間延びした声だった。けれどオーリは油断せず、青年を睨み付けてドきっぱりと告げる。
「勘」
「……」
あまりにも堂々と言い放たれた言葉に、青年は目をぱちくりさせて。
そうして一拍置いて、盛大に吹き出した。
「――あは、あははははははは! そっか、勘かぁ! あはははは、そう言えばキミ、一度もアレのことを名前で呼ばなかったもんねぇ!」
涙が出るほどに笑う青年は、余程オーリの回答がお気に召したようだ。垂れた目元を更に緩ませ、腹を抱えて子供のように笑声を上げている。
――確かに、あの幻影は出来が良かった。一目見た瞬間に第六感が大音量で叫び出さなかったら、きっと初見で怪しむことは出来なかっただろう。
とは言え、自身の勘に僅かの疑いがあったのも確か。
だからオーリは試したのだ。『ラトニ』と交わした言動の中に、幾つかの罠を仕込むことで。
――例えばラトニなら、オーリが助けに来ることを疑ったりしないだろう。
ラトニが誘拐されたとなれば、オーリがイアンを脅迫してでも首を突っ込むのは確実だ。見も知らない子供を助けるために、囮になることさえ良しとするのがオーリなのだから、あまつさえそれがラトニともなれば、敵地だろうが海の底だろうが般若の形相で突っ込んでいくに決まっている。
また、『オーリがラトニに付いて行く』という表現も、二人の日常とは合致しない。
共に街を歩く時、行き先を決めるのは大体オーリの方で、『付いて行く』のはラトニの方だった。ラトニはオーリの行く所になら何処にでも付いて来たがるが、個人的に何かを主張する欲求は比較的薄い。
更に、『逃げよう』というオーリの言葉に迷わず賛成したのも違和感を覚えた。
ラトニなら、オーリのそもそもの目的が『誘拐された子供たちの無事』であることを知っているはずだ。ならば逃げると提案された時点で、一言くらい確認があって然るべき。
ついでに手のひら。
普段は当人もあまり意識している姿を見せないが、実はラトニは常人より体温が低かったりする。長時間床に放置され、衰弱と緊張で体温が低下しているであろうラトニの手に触れて、日頃から代謝が良く、体温が高いオーリが普通に熱さを感じるなんてあるはずがない。
――等々。幾つか鎌掛けは仕掛けたが、何より一番大きな不審は――。
(何処で敵が聞いているかも分からない状況下で、ラトニが私の名前を呼ぶなんて絶対にあり得ない!)
人の意識が二人に向けられていないと分かっている時でなければ、ラトニはオーリの名前を呼ばない。
そんな彼なら、断じてあんな言動はしないだろう。自分の行動がオーリの危険に結び付くことを、ラトニは心底恐れている。
「ううん、やっぱり深い間柄同士は騙しにくいなー。外見だけなら自信あったんだけど」
一頻り笑って気が済んだらしく、青年が少し光の灯った目でオーリを見下ろし、無造作に足を踏み出してくる。
暗い壁際から部屋の中央へ。灯りに照らし出されたその姿は、やはり犯罪者などという名称にはどこまでも似つかわしくないものだった。
青年が靡かせる薄金の髪が灯りを弾き、綺麗な光を浮かばせるのを、オーリの目が艶やかに映す。
とろりと垂れた目付きは甘く、端正な容貌は人の好意を引き付けるものだ。纏う衣装は清潔で、裏社会特有の陰惨な暗さも見当たらない。
――そして、だからこそ。
彼が平然とこんな空間に存在している事実そのものが、激しい警戒心を呼び起こすのだ。
「オーリちゃんもラトニ君も面白いなぁ。オレの知ってる連中なんて、大人になっても権力振りかざすことしか知らないバカみたいな奴ら、沢山いるのに」
辛辣なことをさらりと口にし、青年はほのほのと笑ってみせた。対照的に、オーリの眉間の皺が深くなる。
「……私たちの名前は、ラトニから聞いたんですか?」
「ラトニ君の名前は聞いたけど、キミの名前はちょびっとこの子の記憶を覗いたんだよー」
オーリの眼差しが敵意を増す。
あの幻影の中途半端な模倣からして、『覗かれた』のはほんの僅かだろう。けれど記憶を――延いては脳を弄られたラトニに、どんな悪影響があるかなんて分からない。
「どうして怒ってるのー? ……あ、そっか」
首を傾げていた青年が、何かを察したように手を叩いた。ぽんと気の抜ける音が辺りに響く。
「ごめんごめん、よく忘れるんだよねー。オレの名前はジルだよ」
いや、別に名乗れと言いたかったわけではないのだが。
同じようなことを相方が思ったとも知らず、オーリは不機嫌そうに顔を顰めた。
マイペースな相手に何となく困惑するものを感じながら、じり、と静かに動き出す。努めてゆっくりした仕草で足を踏み出しながら、青年との距離を測り始めた。
「あなた、見たところ犯罪に手を染めなければ生きていけない人種には見えませんけど……どうして誘拐なんかに関与してるんですか?」
「うん? オレは便乗させてもらっただけだよー。上が魔力の強い子供を欲しがっててさぁ。ついでにちょこちょここの国の情報、調べ出したりもしたけどー」
「……成程、それで子供たち全員と顔合わせを。ラトニが今も目を覚まさないのはそのせいですか?」
「そうそう。奏醒盤って言ってさー、魔力を測ったり吸い取ったりするのに使うの。ぶっ倒れるまでになる人はあんまりいないんだけどねー」
ジルがごそごそと何かを取り出してみせる。手のひらに収まるほどのそれは、黒い石のような材料で出来た円形の道具だった。
「これを額に当てるとー、まあ、魔力を『測ったり』、『吸い取ったり』、『引っ掻き回したり』、色々してくれる優れ物なんだけどー。魔力に直接作用して吸収しちゃうから、『魔力量が多い奴』ほど『ダメージが大きい』っていう困った特徴があってねー」
ちらり、とジルがラトニを見下ろす。如何にも興味深そうにうっすらと目を細めてみせてから、オーリの方へと視線を戻した。
「――例えばこの子みたいにねー。
ラトニ君は魔力が物凄く多かったから、その分盛大に引っ掻き回しちゃってー。だから、どうあっても回復までには時間がかかるよー」
「…………」
「魔力のキャパシティが大きければ大きいほど、回復には時間がかかる。その子の場合は最低三時間以上かな。そして回復しない限り、体が目覚めることもない。そうやってオーリちゃんが、必死で時間を稼いでもねー」
――つう、とオーリの頬を汗が伝った。
もしも相手がただの人間なら、ラトニを担いで窓を突き破ることも出来ただろう。
けれど、恐らく魔術師であるジルを相手に、庇う相手がいるのは少々リスクが高かった。ラトニが動けるなら隙を見て逃げてくれるだろうが、意識がないならそれは出来ない。
加えて、この部屋自体に魔術結界が張られている可能性もあった。もしもそうなら、館に侵入した時オーリが無限の廊下に閉じ込められたように、この部屋からもジルの許可なく出ることが出来なくなる。
「ここまで来られたってことは、オレの仕掛けてあった迷いの幻覚を抜けてきたってことだよねー? ひょっとしてキミも、魔術師の素養あったりする?」
にこー、と笑って、ジルが奏醒盤をわざとらしく見せる。
「オレの上司って、日頃からサボるな寝るなって煩くてさぁー……。使い道のありそうな『お土産』を二つも持って帰ったら、ご機嫌取りになるかなぁ?」
「――――ッッッ!!!」
次の瞬間、金属同士を激しくぶつけ合ったような轟音が響き渡った。刹那の間に距離を詰めたオーリの拳を、ジルが構築したドーム状の結界が阻んでいた。
「わあ、素早ーい」
幼い子供を――オーリの大切な友達を、道具扱い、物扱い。何に使うつもりかなど知りたくもないが、少なくとも断じて許容できるものではないのは確かだ。
呑気に拍手をしているジルを、今や手負いの獣の眼になったオーリが睨み据える。一度バックステップで距離を取る――と、見せるや否や、今度は結界の上空にオーリの姿が出現した。頭上に移動した影に気付いたジルが目線を跳ね上げた時、迅雷の速度で強烈な蹴撃が放たれる。
――――ピキッ、
微かな音に、双方が同時に反応した。ジルの眉間が初めて薄い皺を刻み、鋭く輝くオーリの双眸に意識を合わせる。直後、オーリは結界を蹴って空中で一回転し、生じた僅かな罅目掛けて、全力の回し蹴りを叩き込んでいた。
――破砕音。
地面にガラスを叩き付けるような音と共に、結界が粉々になって砕け散る。しかし、着地するのも待たず追撃を加えようとしたオーリの目に映ったのは、愉快そうに唇を吊り上げたジルの顔と、空間に展開された青白い魔法陣だった。
――號っ!!!!
ぎょっと身構え、警戒した時には既に遅く。
猛烈な音と共に全身を打ち据えた衝撃に、オーリは声にならない悲鳴を上げて吹き飛ばされていた。