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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・春告祭編
118/176

114:春風、喧騒の気配と共に

 ――轟、と吹き付けた風に、彼はふと足を止めた。


 視界の端で踊る紫銀の髪を軽く手で押さえながら、花の香りがする風の走り抜けた方向へと視線を送る。冬の空を想わせるような澄んだ青の瞳がほんの一瞬瞼に隠れ、そして緩やかに細められた。


 春の気配を含んだ大風の余韻にさやさやと揺れる庭園の木々が、王都イオレに降り注ぐ日差しを受けて柔らかな緑に染め上げられている。

 辺りには槍や剣を持った警備兵の姿が点々と存在し、美しく整えられた王城の庭に武骨な色を添えていた。


「――エイルゼシア様」


 風の届く先は一体如何なる地か、人か。ぼんやりと視線を泳がせていた青年へと、背後に控える従者が控えた声量で訴えた。

 名前を呼ぶだけの短いそれが催促の意味を含んでいることを察して、青年は無言で身を翻す。長いコートの裾がふわりとはためき、しなやかに伸びた足を一瞬包んだ。


「分かっているよ、リドリー。心配しなくても、遅刻なんて醜態を俺が晒すわけがないだろう」

「左様ですか」


 エルゼ――エイルゼシア・ロウ・ファルムルカ。現公爵の嫡男であり、自身も子爵の位を持つその青年は、水仙を想わせる美貌を引き締めて、再び回廊を歩き始める。リドリーと呼ばれた男は、恭しく礼をしてエルゼに付き従った。


 広大な王城を迷うこともなく歩き抜け、やがて重々しい大扉の前に辿り着く。

 名乗ることもなく、速度を緩めることすらなく。当然のように足を動かし続けるエルゼに、扉の両脇に控える兵士たちは即座に扉の中へと合図を送り、頭を下げて扉を開いた。


 背後で閉じた扉のすぐ傍で立ち止まったリドリーが、無言で片膝をついて主の動きを待つ。毛足の長い絨毯の上を、規則正しい足音が一つだけ渡っていった。


 オーク材で作られた重厚なテーブルの傍で立ち止まる。

 木目の美しい、長年使い込まれた大テーブルは、色鮮やかな花や菓子で華やかに飾り立てられていた。そこに二人の人間が座し、エルゼの動向をじっと見つめていた。


 ――すい、と。


 エルゼが姿勢を正す。指先まで綺麗に揃えた完璧な礼を、真正面の一人に対して捧げた。


「ご無沙汰しています、伯父上。エイルゼシア・ロウ・ファルムルカ、只今参上致しました」

「うむ、楽にせよ」


 気怠げに一つ、頷いて。

 奢侈な衣装に身を包み、足を組んでエルゼを見据えていた国王が、皺の目立つ顔にゆったりとした笑みを作り上げた。




※※※




 当代フヴィシュナ国王ギルヴィガーレ・ロア・フヴィシュナは、歳のために色褪せたアッシュグレーの頭髪に、ちらほらと白髪を混じえさせた初老の男だった。


 芸術品の如き美貌で謳われるエルゼやその妹ほどとまではいかないものの、王族らしく若い頃はそれなりの美形であったのだろうと思わせる容貌。

 痩せた相貌に色濃く映るのは、長年一国を治めてきた者としての威厳と寛容――ただし、それが相変わらず凡庸な本性の上に貼り付けられた薄っぺらな仮面に過ぎないこともまた、エルゼは密やかに悟っていた。


 王族として国王として、これまで数多くの危機も確かに乗り越えてきたはずなのに、振り返ってみれば結局は国を富ませたわけでもなく、さりとて決定的に堕落させたわけでもなく。


 そのどちらを成すほどの器も無かった、と言ったなら、括り方が乱暴過ぎると言われるだろうか。

 良くも悪くも凡庸でしかいられず、ただ今を保つことにばかり腐心する国王の姿は、時代にさえ恵まれたならば、消極的ながら善君として敬われたかも知れないが。


 ――権威だの、見栄だの、虚勢だの。

 そういったものを削ぎ落とせば、目の前の男はきっと随分と小さくなるに違いない。今でさえ、実際に重ねた年月より幾分も余計に老いて見えるのだから。


(だからこそ、隠れ蓑には使えるタイプだろうが)


 もう五十歳も越えたというのに子がいないせいか、国王が『近親として』を名目に降嫁した妹の家族を呼び出すのは決して珍しいことではない。

 中でも自らの鷹揚さをアピールするかのように彼が寵愛してみせる相手は、専ら孫ほども年の離れた腹違いの弟であることが多かった。


 王弟――ヴィアレンフィル・ロア・フヴィシュナ。

 亡き先王が寵姫との間に作った末子。エルゼの、年端もゆかぬ小さな叔父。存外肝が小さくコンプレックスを自覚している国王が、憂いなく寵を傾けることのできる、幼く大人しく、そしてその体質故に決して兄を超えることができない『持たざる者』。

 それと同時に、現在「次期国王候補」であるエルゼの最大のライバルだと目されている――そして、エルゼ自身も静かな警戒心を向けている相手である。


 その王弟は、やはり今回もこの場に呼ばれていたらしい。彼は国王の隣の椅子に座し、十にもならぬ幼子とは思えない落ち着きようでちょこんと控えていた。


「お久し振りです、エイルゼシア卿。お元気そうで何よりです」


 人形のように綺麗な表情でにこりと微笑んで、少年はエルゼにそう告げた。


 実兄とは似ても似つかぬ幽遠な美貌と、どこか浮世離れした雰囲気は、エルゼのそれより遥かに儚げで、密かに囁かれる「人形王弟」の名を想起させるに相応しい。

 少年の左目は前髪に隠され、露わな右目と頭髪は光を吸い込むような漆黒色。

 およそエルゼも目の前の少年以外に見たことのない、『魔力を持たざる者』の証である忌色を纏って、なお平然として可憐に微笑むその姿は、しっかりと閉ざされた胸の内など微塵も読み取らせなかった。


「お久し振りです、ヴィアレンフィル様。顔を合わせる機会も少なく、ついご無沙汰するばかりで申し訳ありません」

「お気になさらず。あなたが多忙であるのは、誰だって承知のことですから」


 卒なく返すその言葉は、エルゼが未だ学生身分であることを指摘している――だけではないのだろう。

 さて、相手はこちらのことをどこまで掴んでいるのか。やはり国王よりもこちらの幼子の方が遥かに読みにくいと考えながら、エルゼはゆっくりと椅子に腰を下ろした。


 ここは謁見の間ではなく、王族に対する正式な礼を要求される場ではない。

 故に、臣下であるエルゼが王族と同じ高さに座り、気軽に言葉を交わすことが許されて――同時に、だからこそ己の一挙手一投足に気を払わねばならないことを、彼はよくよく知っていた。


「――そう言えば、エイルゼシア。近く王都で行う大合議のことだがな」


 学生生活について話を強請る王弟にエルゼが笑顔で応じ、しばらく益体もない世間話に時間を費やした後。

 ふと思い出したような素振りで国王が口火を切った。


「やはり焦点は、ザレフ帝国との関係模索に集中しそうだ。ついては例の『浮島』の扱いに関してだが……エイルゼシア、そなたはどう思う?」


 さり気ない口調ながら目だけが微かに輝いて、これが今回の本題なのだと確信した。


 一口、考える間を取るように紅茶で口を湿らせて、エルゼは冷静な声で言葉を紡ぐ。


「――そう、ですね。現時点では、やはり『浮島』を手放すことは得策ではないかと思います。あそこを失えば、ザレフに送る()を作れなくなる。

 会議でも、ザレフに返すか、このまま我が国で領有を主張するかで意見が割れているのではないですか?」

「ああ、あそこはもう三十年も我が国で領有しているのだ。()()()()()()()()()()ことを盾に押し切ってしまっても良いのではないかと、強硬派は主張している」

「このままうちで『浮島』を持っておけば、対ザレフとの交渉には有利ですからね」

「うむ。しかし、如何せんザレフは大国だ。ザレフとの関係強化のため、敢えて『浮島』を渡すのも良いとの意見も多い。

 それでまあ、どの派閥もファルムルカ公の動向を気にしておってな。忙しいところ相済まなんだが、今回はこうしてそなたを呼びつけたわけだ」

「いいえ、心中お察しします」


 かち、と誰かのソーサーが音を立てた。


「で、その件――ルシャリは、何と?」


 うっすらと冬空色の目を細め、エルゼが舌に乗せたのは、『浮島』に関するもう一つの当事国の名前だ。「返還対象が明確でない」と言われる原因――即ち、『浮島』の所有権を主張できる、第三の国。


 国王は深々と溜め息を吐き、痩せた首を横に振った。


「新ルシャリ公国からは、未だ回答が得られていない」

「それは、ルシャリの宰相殿から、という意味でしょうか?」

「そうだ。しかし先代公王が死去して久しいにも拘らず、未だに新たな公王すら決まっていない小さな公国、さして気にする必要もなかろうよ……そなたもそう思うだろう、ヴィアレンフィル?」

「はい、兄上」


 不意に話を振られ、大人しく国王の隣で菓子を食べていた王弟が従順に言葉を返した。


 彼の前にある陶器の皿に盛られているのは、最近王都で流行り始めたヨーグルトクリームを、冬林檎に絡めて焼いたグラタンだ。

 縁にこびりついたカラメルをこそげ取るのに専念していた――ように見える少年は、ぺろりと軽く唇を舐め、月下の花露を想わせる繊細な美貌を持ち上げて、老いた兄に微笑みかけた。


「ルシャリは確か、後継者候補がザレフとの小競り合いでほぼ全滅したと聞きました。後継者不在でいつ潰れるかも分からない小国に近付くよりも、この機にザレフ帝国との関係を強化したらどうか、という意見が優勢みたいですね。あそこは侵攻によって急激に勢力を伸ばしてきたから、フヴィシュナにまで牙が向くことを恐れるひとも多い――って、家庭教師(チューター)の先生が教えてくれましたよ」

「そうかそうか。よく知っているな、ヴィアレンフィル。きちんと勉強しているようで何よりだ」

「早く賢くなって、兄上のお役に立ちたいですから」


 自分を見上げて花のように笑う美しい弟に、国王は満更でもないらしい。愛孫でも見るように眦を下げて何度も頷いた後、再び表情を引き締めてエルゼに向き直った。


「――とは言え、ルシャリはエンジェ大樹海を擁する古き歴史の国だ。容易く切り捨てるわけにもいかん。それでエイルゼシア、そなたはどう思う? ファルムルカ公爵家は、もう立ち位置を定めているのか?」

「申し訳ありません、伯父上。この件に関して、父は俺に何も話してくれなくて……。ただ、『すぐには結論を出すことのできない、難しい問題だ』とだけ」

「そうか……やはりあれも決めかねておるのかな」


 申し訳なさそうに眉尻を下げてみせれば、国王は残念そうに肩を落とした。


 おおよそ多方面からの主張を折衷するのに、国王も神経をすり減らしているのだろう。

 ザレフ帝国に近付くか、ザレフからの多少の不興を覚悟で今の優位を維持するか、はたまた新ルシャリ公国との関係を強化するか。

 ザレフは軍備に優れた大国だし、支配国も多い。

 なればこそ機を伺うのに慎重な上位の政務官や大貴族は未だ方針を明確にしておらず、勿論軍部とて黙ってはいないだろう。このまま各陣営を纏め切れなければ、来たる春の大合議は確実に紛糾する。


(伯父上では――陛下では無理だろう。本人が自らの立ち位置を決めかねている現在、関係各所からせっつかれても答えを濁すのが関の山……なら、その隙間を縫うにはどうしたら良い?)


 思考に沈みながら、エルゼは菓子を一欠け口に入れる。

 こんもりと白いメレンゲをオーブンで焼き上げ、甘い生クリームを乗せたパブロヴァ。存外舌触り滑らかなそれは、エルゼ好みに色とりどりの甘酸っぱい果物を山ほど刻んで乗せてある。


「……時に、オルドゥル・フォン・ブランジュード侯爵は、この件については何か?」


 小首を傾げて問いかけたエルゼに、王は困り顔で軽く手を振ってみせた。


「いや、あやつもまだだ。南方貴族の意見が、未だ統一には程遠いらしい。ブランジュード侯も気苦労が多い立場だ、あまり結論を急がせるわけにもいかなかろう」

「でも南方領主会議で意見を纏めて、大合議では確実に提出できるようにすると言っていましたね。兄上も、南方領の意見が統一されるなら、大合議での手間が省けて良いでしょう」


 気の毒そうに語る王と、にこにこ無害そうに笑う王弟に対して殊勝げに頷いてみせながら、白々しいことだ、とエルゼは思った。


 何せ『浮島』の管理は、まさにその南方領こそが管轄を任されているのだ。つまり南方貴族筆頭であるブランジュード侯爵は、必然的に今件の推移に最も神経を尖らせているうちの一人ということになる。


 国王が威容の仮面を被った凡人なら、当代ブランジュード侯爵は凡庸の仮面を被った化け狸だった。

 麾下の貴族たちの意見を取り纏め切れずに足踏みしている? 冗談じゃない、あの不気味な男がそんなことを許すものか。甘く見れば誰も彼もが化かされて、毒の牙で腹を食い破られてもおかしくない。


 そこでふと、エルゼは思い出す。

 真冬の夜会で出会った、一人の子供のこと。妹――リーゼロッテが珍しく気に入った、幼い少女の顔を。


(そう言えば、ブランジュード侯爵には娘がいたな。確か名前は……)


 オーリリア。

 オーリリア・フォン・ブランジュード。


 その名を胸の中でだけ呟いて、エルゼは静かにカトラリーを置く。


 鏡のように澄んだ青灰色の瞳と濃茶色の頭髪を持つ、ブランジュード侯爵の一人娘。見た目も中身も父親にはまるで似ていないように思えたが、彼女の存在は今回、父親の策謀には組み込まれているのだろうか。


(……まあ良い。どの道彼女には、近くリーゼが接触するはずだ。当面はあの子の判断に任せよう)


 ――何よりも警戒すべきはブランジュード侯爵、そして王弟・ヴィアレンフィル。それぞれの立ち位置にこそ既におおよその見当がついているが、それを実現するために取る手段については、容易く読ませてくれるような連中ではない。


 にこにこと無垢げな笑顔で国王に話しかけている王弟を視界の端に、既に動かしている己の手駒――他ならぬ自身の妹のことを思い浮かべつつ、エルゼは密やかに思考を巡らせ続けた。


 ――盤上に上がる駒は、未だ出揃ってはいない。


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