113:全ては我が手の内よ
真剣にパン屋を営んでいる相手をチート知識全開で叩きのめす行為、実に大人げない。だが全力で勝ち誇る。
ミュゼとミュゼ父が司会に呼ばれ、広場の広場の真ん中にやって来る。オーリたちの保証人であるミュゼと、その父の店であるパン屋が紹介と宣伝を受け、興味深そうな視線と拍手をミュゼ父が代表で浴びて、町おこしイベントは終了となった。
「凄いわ、リアちゃんもラト君も! まさか本当に勝っちゃうなんて……初めての競争会で優勝なんて店の良い宣伝になったわ、ありがとう!」
「えへへー、ありがとうございます。あ、これクロワッサンのレシピと、味見用の試食品です」
感心しきりといった様子で、ミュゼが勢いよく二人に抱きついてくる。小さな籠に三つだけ入ったクロワッサンを差し出して、オーリは素直ににこにこ照れてみせ、ラトニは軽く頭を下げてみせた。
それからミュゼが横を向いて、じろりと胡乱げな半目になる。三々五々解散していく観客たちにばしばしと肩を叩かれたり励ましの言葉を投げられたりしているローレックを見て、腰に手を当てて問いかけた。
「……で、あんたはいつまでそうやってしょんぼりへたり込んでるつもりなのよ。私に言いたいことがあるとかいうのは、結局どうなったわけ?」
「み、ミュゼイラ……」
のろのろと顔を上げて、ローレックがくしゃりと表情を歪める。
「言いたいことは……今はまだ言えない……」
「はあ? あんた、半年前父さんにパン作り勝負挑む前にも同じこと言ってなかった? いつまで引っ張るつもりよ!」
「そ、それはお前の親父さんがピヨコの毛布なんか携帯していたからだろう! お陰であの日は『火の半日間』なんて呼ばれるような惨事になって、結局決着がつかなかったんだ……!」
何だか発生した事件の内容に全く見当がつかないのだが、口を挟んでも良いのだろうか。
困惑するオーリとラトニの頭上に、その時ぬっと影が差す。太い腕が伸びて、ミュゼの持つ籠からクロワッサンを一つ取り出した。
「………………」
見上げれば、無言でこちらを見下ろすミュゼ父――ジョナサンと、ラトニの視線がカチリと合う。ジョナサンはそのまま無言で口を開け、クロワッサンを一口齧った。
……噛む。
…………噛む。
………………噛む。
「いや何か言いましょうよ」
口が重いのが二人揃うと、会話の糸口が掴めない。
見つめ合ったまま微動だにしないラトニと、ひたすら無言でクロワッサンを咀嚼するジョナサンに、ズビシとオーリが裏手ツッコミをする。ミュゼがこちらを振り返り、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさい、うちの父さん口下手で……。ほら父さん、うちの名前背負って優勝してくれたんだから、お礼くらい言いなさいよ」
「……………………」
ミュゼに促され、ジョナサンが数秒の間を置いて、オーリとラトニを交互に見ながら小さく「感謝する」と告げた。
「……俺の出場が無駄にならなかった。美味だった」
「いえ、決勝まで勝ち進んだのはジョナサンさんですし。私たちは便乗しただけなんで」
「それでもだ。俺もローレックも、己がまだ道半ばであることを、そして世界の広さを思い知った」
いや世界って言うか異世界なんだけど。そんなことを胸の中で思うオーリを他所に、ジョナサンはひたすら真剣である。
「知恵を与えた娘、応えて作り上げた坊主、共に見事だった。パン職人界で生きるとは、無明長夜の広野を荒ぶる風の中ただひたすら歩み進んでいくかの如し。まさに今日、その広野にまた新たな道が拓け、一筋の光が射した」
人生を修行に捧げた求道者の如く謹厳実直な言葉を告げながら、ジョナサンがラトニの手を取る。
人より体温が低くて小さい――パン作りには向いていないその手を、彼はどこまでも真摯な眼差しで握り締めた。
「未だ幼いこの手は、まさしく天より与えられしお前だけの武器なのだろう。この手を模倣することはきっと俺には出来ない、が……いつか必ず、俺のやり方で辿り着いてみせる」
「……恐縮です」
どこまでも生真面目な求道者を相手に嫌そうな顔をするわけにもいかず、珍しく気圧された様子でラトニが頷いた。
そんな二人を見つめて、ふ、とローレックの肩から力が抜ける。
「……そうだな、俺はまだまだ道半ばだった……。今回のイベントで優勝すればフヴィシュナの国内大会に推薦を受けることができ、そこで更に成績を残せば、年に一回ザキ・マウンテンで開催される最高峰パン職人の世界大会、通称『修羅のパン祭り』でブレッドマイスターへの挑戦権を得られる。そこで自分の限界に挑戦しようと思っていたんだが、この分じゃ行けなくて正解だったみたいだな」
「修羅のパン祭り」
「世のパン職人は一体どんな茨の道を歩んでるんでしょうね」
「町おこしイベントの賞品には、新式の設備を備えた自分だけの店が含まれている。店を手に入れて実家のパン屋から独立するつもりだったが……ふっ、未だ時期尚早だったってわけだ」
「あ、それはローレックさんに譲るんで。て言うか、賞品はほとんど受け取るつもりないんで、どうぞ有効に役立ててください」
さらっとオーリに言われて、一拍置いてローレックとミュゼが目を見開いた。
新式の設備を備えた店一軒。買えば結構な資金がかかるだろうそれを、あっさり譲ると言ったことに衝撃を受ける。
「は!? え、良いのリアちゃん!? 自分で店を持たないにしろ、誰かに売れば一財産よ!?」
「まあ、ギルドあたりに募集かければ買い手は幾らでも見つかるでしょうけど……それより素直にローレックさんが店開いた方が、この街のためには良いんじゃないですか?」
「そりゃそうだけど……なら、ラト君はそれで良いの?」
「僕はリアさんに付き合っただけなので、彼女が良いなら異論はありませんよ」
当たり前のように返されて、ミュゼが言葉を失う。いやしかし、と口をもごもごさせているローレックの手を両手で握り、オーリは教科書に載せたくなるほど真摯で誠実な表情を形作った。信者に託宣を与えるエセ宗教家のようだ、とラトニは思った。
「良いんです、ローレックさん。確かに新名物って意味では、目新しくてインパクトの強いクロワッサンが勝ちました。でも『この街の顔』って意味では、本当はローレックさんの作ったパンの方が上だったんですよ」
この街は高齢化が進み、住民には老人が多い。そんな人々に、バターを大量に使ったクロワッサンは少々重いだろう。
実際、審査員六人のうち二人が、クロワッサンにNOを出した。一人はこの街在住の老人、もう一人はあっさり系好みらしい青年だった。
一方ローレックの作ったものは、素朴な白いカンパーニュ。外側の皮は固いが、中は意外なほどふんわりしていて、仄かに果物の風味があった。上に散らされた木の実は適度に火が通っていて香ばしく、丁寧に挽いたイラナ麦の香りを引き立てていた。
街の目玉、としては些か地味かも知れない。けれど毎日食べても飽きないだろうあの味は、移住を考える人々に、この街の日常をふっと感じさせるに相応しいパンだった。
また、ローレック自身の卓越した技量も、あのパンには詰められていた。毎日食べる基本のパンをあれほど洗練して作ることができるならば、更に贅沢な材料と複雑なレシピを用いたパンは一体どれほどのものになるのかという期待を抱かせる。
更には食材。
ローレックが使用した果実や木の実はほとんどが街近郊で採れる特徴的な品であり、街の売りとして充分な代物ばかりだ。更に食材としての有用性が認められ、栽培事業を始めることにでもなれば、増えた収穫物を使って新しい調味料や果実酒を作り出すこともできるだろう。
「――作るものは敢えてシンプルに、しかしその先には大いなる可能性を抱かせる。町おこしの品として、あれほどの完成度を持つ逸品は珍しい」
切々と訴えるオーリに、ミュゼとその父は『ローレック……』と、これまで知らなかった昔馴染みの思わぬ思慮深さと街を愛する心に深く感じ入った顔をしていた。
オーリに手を握られたままのローレックは、『え、マジで? 俺そんな凄いことやってたの?』と、唐突に突き付けられた偉業と賞賛に混乱して目を泳がせていた。
ローレックを捕まえるオーリの手をひたすら真顔でガン見しているラトニは、『あの指を逆方向にひん曲げてやれば彼女は手を離すだろうか』と考えていた。
うっかり己の指がヤンデレの危険思考に晒されていることにも気付かず、雰囲気に流して説得するモードに入っているオーリはローレックに向かって柔らかに微笑んだ。心からの敬意と感嘆を込めた、ように見える、穏やかな日差しの如き微笑だった。
「私のパンは、競争会という名目があったからこそ勝てたに過ぎない。私の中では、そしてこの街のご老人たちの中では、やっぱりあなたが、街を愛し人を愛するあなたこそが、紛れもなく勝者なんですよ。
事実、旅行者以外の観客たちは皆、帰り際、勝者である私やラトではなく、あなたを励まして行ったり、心配そうに見たりしていました。この街のご老人たちに、その家族に愛されてきたその腕を――どうかこれからも磨き続けて欲しい」
――それは、正しく激励であった。一度は己の無力に打ちひしがれ、敗北者として地に膝をついたローレックへの。
オーリがローレックの手を離し、そして改めて右手を差し伸べた。
堂々と相手の健闘を讃えるオーリを、ローレックが迷子の子供のような眼差しで見上げる。そしてふっと笑って、彼女の差し伸べた手に右手を伸ばした。
「俺は慢心していた。そんな俺の技術と心を讃えてくれたお前に恥じないよう、これからも弛まぬ研鑽を積むと誓おう。――お前の、お前たちの未来と才能に、心からの敬意を」
がっちりと固く握手を交わし、彼らは今度こそ本当に、彼らの勝負が幕を閉じたことを知った。
美しい物語に感動するミュゼ親子を眺めながら、ラトニはオーリが、言いくるめに成功したことを悟って内心悪辣なゲス笑いを洩らしているであろうことを確信していた。
(だってパン屋の新店舗とかブレッドマイスターへの挑戦権とか、彼女、普通にいりませんし)
ついでにラトニは、実のところオーリが、自分たちの作ったパンの完成度に決して満足していないことも察していた。
オーリにしろラトニにしろ、パン作りそのものにおいては紛れもなく素人である以上、ほぼ生まれて初めて自分の手で作ったパンが、本来そのままプロの製作品と並べるものになるわけもない。
初見殺しの最先端贅沢パン、尚且つ評価をする者の大半が素人の若者であるという前提があったからこそ決行できたごり押しだったのだ。
「――ところでローレックさん、あっちの木箱は何なんですか? 米糠じゃない方」
「ああ、あれは銀食器だ」
空気を変える目的か、はたまた本当に気になったのか。
ふと思い出した素振りで疑問を投げかけたオーリに、ローレックはそう答えた。何故かジョナサンがすっとミュゼの耳を塞ぐ。
「銀食器……へえ、わざわざ賞品として出すのは珍しいですね。それも街の特産品か何かですか?」
「ああ、昔は製造が盛んだったみたいでな……実は今もその名残で、まあその、上等の銀食器を一式、嫁入り道具に持っていくと幸せになれるというジンクスがある」
ぼそぼそと付け加えるローレックに、オーリはぱちりと目を瞬かせた。数秒置いてローレックの意図に気付き、おやまあと目元をにんまりさせる。
「……もしかしてローレックさん、それ差し出してミュゼさんに求婚しようとしてました?『この銀食器持って嫁に来てくれ』って」
「わっ……分かるか、やっぱり? 言おう言おうと思ってるんだが、手ぶらで求婚するのは格好つかない気がしてな! 自分の店と嫁入り道具持っていけば、告白する度胸も出るかと思ったんだが……」
「わあ、良いですねえ! 思い返せばローレックさんの態度って、結構分かりやすかったですもんね! こんだけ分かりやすい幼馴染のアピールに気付かないなんて、ミュゼさんも意外と鈍いなあ……どうしたのラトニ、そんな『こいつどうしてくれよう』みたいな苛立ちに満ちた目をして」
「いえ別に。『どの口が抜かす』とか思ってませんよ」
やさぐれた顔をしてチッと舌打ちするラトニにオーリが静かに怯えていると、ジョナサンがずいっと一歩前に出た。
「ローレック。勝負の景品のようにミュゼに求婚することなぞ認めんぞ」
「おじさ――いや、ジョナサンさん……」
「だから次の機会こそ、正々堂々と俺に勝利しろ。研鑽を積み、あの銀食器を賞品として得るに相応しい男になったと心から思えるようになった時――あれをミュゼに差し出すことを許そう」
ジョナサンの言葉に、ローレックはぐっと表情を引き締め、そして強く頷いた。ようやく耳を解放されたミュゼが、何やら分かり合っている父親と幼馴染に首を傾げていた。
「じゃあ私たちは、両親との約束もあるのでそろそろ失礼しますね。ああ、でも一つだけ――」
良いタイミングだと判断したオーリが、ラトニと共に身を翻した。
挨拶をして広場を立ち去る、と見せかけて、ふと思い出したように小さな木箱を手に取る。蓋を開けて中身を確認し、流れるような動作で荷物に収めた。
「――良ければ、この『コメヌカ』だけはくださいな。新たな境地へ至るための道標と、そして誇り高い強敵に出会えた記念として」
(ただし『パン職人としての』とは言ってない)
詐欺師がよくやる「嘘ではないが正確でもない言い回し」に内心で突っ込みながら、ラトニはシェパに飛ばしたクチバシの方へと意識を向けた。しっかり到着していることを確認し、今なら転移が使えるだろうと一安心する。
「ああ、勿論だ。元よりお前が勝ち取った賞品だろう、好きなものを持っていってくれや。――お前との再戦を、いちパン職人として楽しみにしている」
「リアちゃん、ラト君……短い間だったけど楽しかったわ。いつか、うちの店にも来て頂戴ね」
「クロワッサンのレシピ、感謝する。必ず再現してみせよう」
口々に別れの言葉を告げる彼らに、オーリはにこりと手を振って、ラトニは軽くお辞儀をして、街の大門に向かって歩き去っていった。
「――幼き者たちよ……彼女たちもまた、誇り高き求道者なのだ」
風に乗って届いた誰かの小さな独白に、オーリは振り返らなかった。代わりに拳をグッと握り締め、最高級ブート・ジョロキアを手に入れた激辛マニアのような悦に満ちた顔をする。
「――米糠ゲットおおお! 待ってろ瓜、すぐに私が美味しく漬けてあげるからねぇぇぇ……!」
「求道者、滅茶苦茶欲望に支配されてますね」
元よりオーリが出場したのは、米糠に目が眩んだからでしかなかったのだ。決勝までを勝ち進んだのがジョナサンである以上は彼女が賞品を手に入れる正当性も薄く、欲を出して賞品総取りなどすれば、事情を知る住民からの反感は免れない。
言葉を適当なオブラートに包んで目当ての代物を確実に手に入れれば、あとはローレックの実力を認める発言をしつつ、残りの賞品全てを置いてくるのが一番の落とし所だったのである。
万一転移に失敗して米糠をぶち撒けたりしようものなら、オーリがショック死しかねない。
突っ込みたいことは色々あるが、まずは彼女を無事にシェパに帰すことに全力を尽くそうとラトニは思った。
※※※
【それから何日か経って、オーリさんは『コメヌカ』を使って『ヌカドコ』を作りました。瓜で漬け物を作って、物凄く嬉しそうな顔で皿に並べた後、『炊きたてゴハン』とやらがないことに気付いて、ひどい悪夢を見たような顔をしていました。
『どうにかならないのか』という目でしばらくヌカヅケを見つめた後、『どうにもならないらしい』と悟ったような顔になって、仕方なくパンにヌカヅケを挟んで食べました。
期待していたものとは違う感覚だったらしく、黙って肩を落として、その日はとても口数を減らし、とぼとぼとお屋敷に帰ってしまいました。
ちなみにヌカドコは管理に失敗したらしく、間もなくカビが生えました。
黴びたヌカドコを見たオーリさんは、もう一度ひどい悪夢を見たような顔をして、『世の中ってクソだ』と叫んでいました。
彼女の目尻に本気の涙が見えたので、しばらくの間、ちょっと優しくしてあげようと思います。
――ラトニ 心の日記――】