112:ブレッドマスターRATONI
「ローレックはシルバーブレッドの二つ名を持つ、この街きってのパン作り名人だ! これまでローレックのパン屋『銀の宿り木』の売り上げを上回ることができたのは、『剛力』ジョナサン・ハーディーのパン屋のみ! さあさあどう出るちびっ子コンビー!」
「うおおおお、ミュゼイラあああ! 見ていろ、俺はどんな障害にも挫けない!」
『シルバーブレッドおおおおおおおお!!!!』
「――ちょっと待てえええええええ!!」
少年漫画の王道主人公の如く熱く燃え滾るローレックと、甲子園球場の応援団さながら声を揃えて格好良い二つ名を叫ぶ観客たち(主にご老人)を前に、オーリが力一杯ツッコんだ。
「何、パン屋って!? シルバーブレッドなんていかにも射抜く職種系の二つ名で、よりにもよって職業パン屋ってどういうこと!?」
「何じゃ怪力嬢ちゃん、ローレックの家業のこと知らんかったのかい?」
「誰が呼んだか、シルバー世代の歯にも優しい柔らかなパンを製作する達人、略してシルバーブレッドじゃ。うちのばあさんもローレックのファン」
「あと、店にシルバーシートがある」
「ローレックさんの店は奥さん友達と日向ぼっこができて嬉しいのう」
「BulletじゃなくてBreadか!! 紛らわしい!!」
崩れ落ちたオーリが地面をぶん殴り、ラトニが驚いてうごうごもがく仔魔獣をよっこらせと抱え直した。「そう言えば、うちやローレックの仕事については何も言ってなかったような」と呟くミュゼを見やり、少年は冷静な声で問いかける。
「あの、ミュゼさん、あなたが働いていたのって、確か雑貨屋じゃありませんでしたか?」
「あっちは親戚の店よ。父さんが怪我でうちのパン屋を休んでる間、バイトで手伝いをしてるだけ」
「ああ……確かにあの雑貨屋の名前、『ジョナサンの店』じゃなかったような……」
ぐったりと呻いたオーリの顔が、早速準備にかかったローレックの方を見上げて再度地面に落ちる。
ローレックが麻袋から取り出しているのは、野鳥ではなく普通に木の実とか果物とかだった。滅茶苦茶深読みしまくった自分が恥ずかしい。口に出さなくて良かった。
「どうするんです、リアさん? パン職人相手にパン作りで真っ向勝負したって普通に勝ち目はありませんし、諦めますか?」
決勝に残った二人――ローレックやミュゼの父親の仕事がパン職人だということは、ちょっと人に聞けば――と言うか、開始時点にあった紹介の言葉を聞いていれば普通に分かったはずだ。
そして、それを揃って聞き逃してさえいなければ、指定されるメニューがパンだということだって予想ができたはず。ならば見当外れの材料を獲ってきたのは、明らかにこちらのミスである。
調理台に用意されているものは、水に小麦粉、イーストに、塩と砂糖、大小の臼やオーブン。どれもパン作りには基本中の基本な材料ばかりで、ここに自分の獲ってきた食材でアレンジを加えるのが勝負の本旨だったのだろう。
勿論、極めた者なら一切のアレンジを加えることのないシンプルな地のパンの味だけで他者を感動させることもできるのだろうが――当然ながら、そんな卓越した技量ばかりは如何に「反則的知識」とてカバーできるものではない。
しかしその時、オーリはゆらりと頭を不気味に揺らがせた。ギラギラと双眸を輝かせ、地の底から響いてくるような含み笑いを洩らし始める。
「く、くくくくくく……まだだ……まだ私は終わっていないぞ……」
「主人公パーティにボコボコにされたにも拘らず敗北を認めない、諦めの悪い中ボスみたいな台詞ですね」
ただしその不屈の精神を支えているのは、ラスボスへの忠義でも世界征服への執着でもなく、米糠への愛である。そんなに漬物が恋しいのかと呆れつつ、ラトニはざっと手持ちの材料を確認した。
「パン作りには腕力が大事とか言いますし、その点は確かにリアさんなら引けを取らないでしょう。でも、肝心の材料が足りませんよ。
見たところローレックさんは、木の実や果汁を練り込んだパンを作るみたいです。アレンジを加えないシンプルなパンを、どうやって『街の売り』になるほどのものに仕上げるつもりですか?」
ラトニの視線の先には、今しも籤を引き終えた数人の審査員たちがいる。
住人と旅行客の中からランダムに三人ずつが選ばれるようで、比較的若い男と女の計四人と、老人一人と壮年の男が一人、見事に当たりの籤を引いていた。出来立てのパンを味見できる立場に異存はないらしく、彼らは楽しそうに審査員席へと案内されていく。
彼らの舌を納得させるだけのものを用意できるのか。
言外にそう問いかけるラトニに、オーリは緩やかに口角を吊り上げて告げた。
「私じゃないよ。――作るのはキミだ、ラト」
※※※
幼馴染の前ではいまいち言葉と度胸の足りないローレック・ミルグレーブだが、実際のところ彼は街で一、二を争うほどのパン職人でもある。
ハードパンが主のフヴィシュナで、彼の作るパンはふんわりと焼き上げた生地が田舎の街には珍しいほど柔らかく、子供や老人の歯に優しいと評判だ。
その秘訣は、粉を作る段階でかける惜しみない手間である。
コストも考えて使用するのは、別に高価なものでもない、ごく一般的なイラナ麦。代わりに、大小幾つもの臼を用いて丹念にこれを挽く。
大きい臼から小さい臼に、段階的にサイズを下げながら一袋の小麦粉を幾度も臼にかけることで、白くきめ細やかな粉が出来上がるのだ。
しかしそれだけならば、少々根気があれば誰にだって出来るだろう。
ローレックの真骨頂は、街外の林で採ってくる木の実や果物を使った、アレンジ技術の方にあった。
固そうな緑色の木の実が、擂り鉢を操るローレックの手の下で見る見るうちに粉になっていく。完熟する前に採ったこの実が、小麦粉に投入する前のイーストに混ぜ込んでおくと、焼き上がった時に生地をふっくら柔らかく仕上げる作用を持つと気付いたのは、きっとこの街ではローレックが最初だ。
更に混ぜ込むのは、こちらも先程採ってきた、数種の果実の汁。
そのままではえぐみがあって食べられないそれらを、水に漬け込んでしばらく置く。薄く白濁したその水を、粉を捏ねる時に使うと、果実から抽出された糖分が嫌味のない甘みとなり、パンに独特の風味を与えてくれるのだ。
「フハハハハハ! 見ていろミュゼイラ、お前の送り込んできた刺客を打ち破り、俺は今日こそ頂点に立つ! この戦いが終わったら、俺はお前に言わねばならないことがあるんだあああああっ!」
『シルバーブレッドー! 意地を見せろー!』
『キャー、ローレックー!』
ご老人たちの声援(ちなみに黄色い悲鳴は元気なおばあちゃんたちのものである)を浴びつつ、こっちもさらりと特大の敗北フラグ或いは死亡フラグをぶっ立てながら、ローレックはパン生地を台に叩きつけ、ぐいぐいと捏ね上げていく。
しかし、その直後。
「――バターだとぉっ!?」
審査員席から上がった驚愕の声に、ローレックははっと対戦相手を振り返った。
――バター? そんなものは用意されていなかったはずだ! あのミニゴリラ共の獲ってきた食材はエヅメラビット、つまりどう転んでもパンには使えない『肉』のみだったはず――!
険しい顔で子供たちの方を振り向いたローレックが見たものは、台の上に平たく延ばされたパン生地と――ボウルに入った作りたてのバター。
瓶に入れたミルクをガシャガシャとシェイクし、更に追加のバターを作製していた灰色の瞳の少女が、ローレックの視線に気付いてにやりと笑ったと同時、ローレックは事の次第を理解した。
(――そうか、『乳』かっ……!)
突貫工事で作った柵に囲われているのは、仕事を終えて元気そうに鳴いているエヅメラビットの親子だ。
子持ちの雌――つまり、ミルクが出る時期なのである。
(しまった……あいつら存外技術力があったのか……!)
パン職人としてはまだまだ未熟な子供に過ぎないと信じ切っていたローレックは、ぎりりと奥歯を噛み鳴らした。
実際の話、ミルクというものは非常に汎用性の高い食材だ。
ミルクをそのまま使うも良し、生クリームを取るも良し。
オーリがしたように瓶に入れて振れば即席の無塩バターが出来上がるし、バターが分離した後のミルクは、分離前のミルクとはまた違う独特の風味を持つようになる。
更に、ミルクにレモン果汁や塩を加えて弱火でコトコト煮詰めれば、リコッタチーズのような代物も作り出せるのだ。
(まさかあのガキ共、初めからそのつもりでエヅメラビットを狙ったのか? 足の速いエヅメラビットを制限時間内に捕獲できないリスクを負って、尚その加工の多様性に賭けたというのか……!?)
念のために言っておくと大体誤解である。しかし一度警戒心が跳ね上がれば、相手の行動全てが深い意味を持っているように思えてきてしまうのが人間心理というものだ。
パンに乳製品を使うのは確かに目新しいが、大した味を出せなければ審査員には「単に材料に奇をてらっただけ」と判断され、マイナスポイントとすらなってしまうだろう。
なのに、あの子供たちは使いこなせるつもりでいるのだ。そう、誰も食べたことのない何かを、今この瞬間、奴らは作り出そうとしている――!
(エヅメラビットはこの地域特有の魔獣で、『街の顔を作る』という趣旨にも適している。恐らく、エヅメラビットの子供を一緒に連れてきたのも計算のうちだ。愛らしい仔魔獣の存在をさり気なく審査員に見せつけ、あとで親と共に解放することで「徒らな殺生はせぬ」とのアピールに繋げる心算! なんてこった、こんな恐ろしいガキ共がこれまでパン職人界に影すら見せず、虎視眈々と雌伏の時を送っていたというのか……!)
もしもこれをオーリとラトニが聞いていたなら、とりあえずいろんなことについてツッコミを入れてくれただろうが、この場に読心技能を持つ者が誰一人として存在しない以上、ローレックの勘違いを正してくれる者もまたいない。
ので、オーリとラトニはひたすらマイペースに、自分たちの作業を進めていく。
イーストや水や小麦粉を混ぜて膨らませ、台に取り出し正方形に伸ばすまでがオーリの仕事で、力を込めて生地を練り上げたら、次はいよいよラトニの出番だ。
生地全面に行き渡るよう薄く延ばしたバターを、ラトニが生地の上に置き、更にバターを内側にして折り畳んでいく。
麺棒を転がし、ひたすら畳んでは押し広げていくラトニの両手を、この時触った者がいたならさぞかし驚いたに違いない。
――平然とした顔でパン生地を操るラトニの手は、氷のように冷たかった。
これこそオーリが、自身がこのレシピに向いていないと主張する理由である。
何せこのパン、作り手の体温で焼成前にバターが溶けてしまえば、たちまち二流以下の代物となり果てるのだ。
生まれながらの低体温と、魔術で強制的に手の温度を冷やす技能。それらに平然と耐えるラトニの体質があるからこその力技である。
やがて幾百にも重ねたパン生地の層の全てに極薄のバターが挟まり、ラトニはそれを二等辺三角形になるようにカットしていく。
端を捻り、三日月型になるようくるくる巻いて成型したら、鉄板に並べてオーブンへ。好奇と警戒心一杯の顔でオーリ陣営を見ていたローレックも、成型を終えた己のパンに仕上げの砕いた木の実を散らし、ほぼ同時にオーブンへと投入する。
時間を計って、まずはローレックが鉄板を取り出す。
彼が提出したのは、ボウル型の白いカンパーニュ。それが審査員と司会、対戦者である子供たちに一つずつ配られ、それぞれの口に消えていく。
(……ううむ。流石に美味い)
ローレックを絶讃する審査員の声を聞きつつ、ほんのり甘いパンの味と柔らかい食感に、オーリは感心して目を細めた。
このパンの味に限って言えば、オーリの屋敷のパン焼き職人にも並ぶだろう。隣でモフモフとパンを食べるラトニも非常に満足そうである。
しかしオーリとて、勝算なく勝負に臨んだわけではない。
ローレックの試食が終わるのを待ち、オーリがオーブンを開けた瞬間、ぶわっと芳醇なバターの香りが辺り一帯に広がった。
「――『クロワッサン』です。どうぞ!」
誰かがごくりと唾を飲む中、キリッと顔を引き締めて、オーリが木皿に乗せた焼き立てのクロワッサンを差し出した。
初めて見る三日月型のふっくらしたパンに、漂う濃厚なバターの香りはあたかも妖艶な微笑を浮かべて手招きするグラマラスな美女の如く。
真っ先に手を出したのは旅行客らしき若い女で、大きく口を開けて齧り付いた彼女はざくりと香ばしい歯応えに目を見開いた。
「うわ何これ、パイみたい!」
彼女が上げた感嘆の声に、残る審査員と司会、加えてローレックが、次々とパンに手を出していく。
何度も何度も折り畳んで重ねたパンの層は信じ難いほど薄く、パリッと軽い焼き上がりが珍しい。こんがり綺麗な茶色に焼けたクロワッサンを味見しつつ、ラトニが興味深そうに声を上げた。
「へえ、面白いですね……この層の間に空いた隙間は、焼成前にバターがあった空間でしょう」
「当たり。焼ける途中でバターが滴り落ちて、パイ生地みたいな多層構造になるの」
自分もざくりとクロワッサンを噛み砕いて、オーリは満足そうに笑った。
歯を立てると軽やかに飛び散る薄い層は、クロワッサンの醍醐味の一つだ。捏ねの段階でバターが溶けてしまうと、層がくっついて出来損ないのロールパンのようになってしまう。
さくさくと軽い歯応えに、魅惑的なバターの香り。それがないのはクロワッサンではないとオーリは思う。
「馬鹿な……こんな、こんなことが……」
基本的にパンを「日々の糧」として考える人間にとっては、贅沢にバターを使い、最早高級嗜好品の域にまで到達したクロワッサンはカルチャーショックだったらしい。下手に技能が高い故か「模倣は困難」と理解してしまったローレックが、ショックと絶望のあまり再びセルフバイブレーションを起こしているのを後目にしつつ、審査員たちが話を纏めて――
「――では、結果発表の運びとなりました! 投票数四対二で、勝者は『ジョナサンの店』代理、飛び入りお子様カップルに決定でーす!」
「うわああああああああ!」
「よっしゃあああああっ!」
最後の銅鑼が一際大きく鳴り響き、高らかに勝者の名前が挙げられる。
崩れ落ちたローレックの隣で、オーリは遠慮なくガッツポーズを決めた。