11:鳥が呼ぶ人
王国フヴィシュナの中心地であり王族の住まう土地でもある王都に対しては後塵を拝するものの、ブランジュード侯爵という強大な権力者家が治めるシェパはやはりそれなりに大きな街である。
そしてそんなシェパに住んでいる貴族は、当然のことながらその侯爵家だけではない。ブランジュードのように国政にまで口出しできるほどの隆盛を誇る家もあれば、貴族社会より商売の方面で成功した家もあり、また没落し、財どころか家人まで失った家も数多くあった。
ラトニが持ち出した発信器からの反応は、そんな建物の一つ、今は廃屋となっている没落貴族の館の中にあった。
「本当に一人で行くんですか、鳥の子さん?」
至極不安そうに見つめてくる隊員――サイードに、オリーブ色のフードを目深に被ったオーリは、鳥の子ってなんか紙の名前みたいだなあ、と思いながら、当然のように頷いた。
「自分から協力するって言ったのに、途中で離脱することになってすみません。でも囮が必要なくなったのなら、こっちで私のやることはないと思うので」
「この嬢ちゃんがこうと決めたら止めるのは無理だぞ、サイード。特にガキ関係では譲らない」
子供に被害が出た時のオーリの凶相を思い出しているのか、イアンが苦い顔でそう口を挟んだ。
あまつさえ、今回巻き込まれたのは彼女の大切な相方だ。本来巻き込むつもりのなかった人間が敵陣真っ只中にいるということで、オーリはいつにも増してビリビリ殺気立っている。
「なあに、心配すんな。この嬢ちゃんは本当に剛猿、間違えた、鳥みたいに身軽な奴だからな。狭い隙間にも入れるし、一人で潜入するならまず大丈夫だろう」
「今なんか心を抉る間違いしませんでしたか」
「副隊長はそう言うけど、いくら凄くても子供でしょうに……」
「納得した振りして勝手に突入されるより、別行動してるって分かってる方がまだマシだろ。何かあったらちゃんと助けに行くさ」
「さらりと流しましたね、この理不尽な大人め。そういう子供を顧みない大人の態度が、真っ直ぐ声を聞いてもらえない子供の諦めと非行を招くんです」
イアンの脇腹に人差し指を突き込んでおいて、オーリはサイードを振り返った。
「じゃあ、私は先に行きますね。万一見つかったら『脱走した子供』を装って大人しく捕まることにしますので」
「了解しました。こちらも急いで捕縛と保護を進めますから、くれぐれも突っ走らないように」
「分かってます」
そう言って、オーリの姿は軽々と塀の向こうに消えた。サイードはそれを心配そうに見送り、傍らで脇腹を抑えてプルプル蹲っている上司の頭を引っ叩く。
「いつまで遊んでるんですか、副隊長。他の連中はもう動いてるんです、俺たちも急いで移動しますよ。時間がないんですから」
「お前、いっぺんあいつの怪力で鳩尾突かれてから言ってみやがれ……」
呻いたイアンの反論は、川に浮かべた笹船の如く優雅に流された。
※※※
かつてはどこぞの子爵家が所有していたというこの館は、敷地をぐるりと囲む塀と、広大な庭に囲まれて建っていた。
だだっ広い庭は大人数で移動するには不便だろうが、少数ならば植物が適度に身を隠してくれる。手入れなどされていない木々は今や野放図に生い茂り、オーリの足場となる枝をあちこちに伸ばしていた。
二階に大きく割れた窓があるのを見付けたオーリは、素早く木々を伝って体を滑り込ませ、館の内部に降り立った。小走りで近付いてくる足音に、一瞬考えて跳躍し、天井の隅にべたりと張り付く。
蝋燭も置いていない廊下は、月明かりしか光源がない暗闇だ。上方のオーリには気付かずに通り過ぎて行く、誘拐犯一味らしき男の姿を見送って、再び廊下に足を着けたオーリは男がやって来た方向へと歩き出した。
誘拐犯共を見逃すのは業腹だが、残念ながら一々相手を叩き潰して回るような余裕はなかった。
何せ、オーリの目的は子供たち及びラトニの安全確保なのだ。倒れている仲間が見つかれば当然騒ぎになるだろうし、オーリが確実に瞬殺できるレベルの相手しかいないという保障はない。
(話が伝わって子供たちを盾にされたら、イアンさんたちの邪魔にもなっちゃうしね。交戦は最低限にしておきたい)
けれど、逆にラトニたちの無事さえ確認できれば、後は周辺に結界でも張って時を待てば良い。イアンから預かってきた結界封珠と持参の封珠をうまく使って立て籠もれば、余程のことがない限り助けが来るまで保つに違いない。
発信器の反応だけではラトニが何階にいるのかまでは分からないが、捕まえた捕虜を置くのなら一般に地下がセオリーだろう、とオーリは思っていた。何に使っているのかなど知りたくもないが、貴族の館には往々にして地下室という名の牢屋があるからだ。
――しかし、そう考えていたオーリは、間もなく足を止めざるを得なくなる。
(……おかしい。階段すら見つからないなんて)
どこまでも延びる廊下の真ん中で足を止め、眉を顰めたオーリはぐるりと周りを見回した。
如何に広い館とて、いつまでも廊下ばかり続くのはどう考えても不自然である。何故ならここはダンジョンではなく、貴族の住んでいた館なのだ。あまつさえドアさえないというのは、どう考えてもおかしい。
人差し指を顎に当て、オーリはしばし思案する。
先程二人目の男をやり過ごしたが、その男は別段道に迷っている様子でもなく駆け去っていった。それから誰にもかち合わなかったことを考えると、あの男たちはこの階に留まっているわけでもないだろう。
まずは何とかこの階から脱出するべきだ。そう考えたオーリは、罅割れた窓に手を掛ける。
(……へえ……)
――ぐ、と返ってきた固い手応えに、青灰の目が険しく光った。
案の定と言うべきか、鍵は開いているはずなのに、窓は一ミリも開かなかった。揺れることもない窓は、空間ごと凍っているようで不気味になる。
次にオーリは廊下に落ちていた石を拾い上げた。盛大な音が出るのを覚悟で、ガラス目掛けて力一杯叩き付けてみる。
「――いっ!?」
ギィンッ!!と耳障りな音がして、石が激しく打ち返された。衝撃にびりびりと痺れる右手を握り締め、オーリは心臓をドクドク言わせながら、頬を掠めて飛んでいった石から視線を逸らした。
(……今のは怖かった。反動の強さは加えられた攻撃に比例するのか……)
意外と好戦的な反応に引きつり笑いを浮かべながら、なんか学校怪談みたいなシチュエーションになってきたな、と緊張感のないことを考える。
人並みに怪談が好きだった昔、オーリは時折こういう状況をブラウン管越しに目にしていた。
閉じ込められた旧校舎、暗い廊下、走り回る人体模型、校庭で手招く透き通った手の群れ。あの時の主人公がどうやって脱出したかなんて、今は何の参考にもならないけれど。
(まさかこの世界でトイレを探したって、そこに花子さんなんかいるわけがないからなぁ)
侵入時は割れた窓から潜り込んだが、見回しても周辺にオーリが潜れそうな割れ目はない。さて、もう一度あの割れ目を探せば出られるのか、それとも一度入れば出ることの出来ない仕組みなのか――。
(……いや。それよりも、別の仮定を試しておくべきか)
曲がり角に身を潜め、オーリはしばらく機会を待つことにした。程無く遠くから近付いてくる足音に、息を潜めて飛び出す準備をする。
廊下の向こうから髭面の男が現れたのと、オーリが仕掛けたのは同時だった。
「がッ!?」
鳩尾に強烈な一撃を食らい、薄汚れた服装の男は何が起きたのかも分からず昏倒した。倒れ伏した男を廊下に放り出し、オーリは早速男の服を漁り始める。
男は装飾品の類はあまり持っていないようだが、小物を幾つかあちこちに忍ばせているようだった。
ベルトを引っこ抜き、ポケットを裏返し、容赦なく持ち物を廊下に並べていく。
鍵、ナイフ、カード、ペン、木札、メモ用紙のような紙切れ。ズボンまで剥がねばならないかと思っていたが、紙切れを手に取った時、ぐねりと周囲の空間が歪んだのが分かった。
(当たり)
胸中でそう呟いて、口の端を僅かに吊り上げる。
周囲を見回すと、廊下には今までなかったドアが幾つか出現していた。一見何も書いていないように見えるこの紙切れが、館で迷わないための通行証となっているらしい。
しっかり懐に収めて立ち上がると、オーリは気絶した男を手早くベルトで拘束し、口に布を詰め込んで、手近な部屋の中に放り込んだ。
ドアを閉めて廊下を進み出せば、今度はすぐに下へ降りる階段が見つかった。
――まずは地下を探さなねばならない。きっと、ラトニもそこにいるはずなのだから。
そう考えたオーリは、そっと階段に足を踏み出して――ふと、小さな羽音が聞こえた気がして立ち止まった。
――ぱさり、と。
どこから入り込んだのか、鮮やかな水色の小鳥が見えた。小鳥は壁にぶつかることもなく、オーリの元へと飛んでくる。
「……?」
その姿にどことなく違和感を覚えて、オーリはこくんと首を傾げた。
「小鳥、だよね……? 大きさは普通、牙があるわけでもなければ嘴が毒針になってるわけでもない。見た目は毛色の変わった普通の鳥だけど、何がおかしいんだろう……?」
にしても、なんかどっかで見たことあるような。
名状し難いもやもやした感覚に、むぐむぐと首を左右に傾けているオーリの周りを、小鳥は知らん顔でぐるりと一周して。
それから付いて来いと言うように、下階に向かって飛んでいった。
(また罠……ではなさそうだなぁ。多分だけど、鳥から嫌な感じがしないし)
階段の下でこちらを見上げ、ピィピィと呼ばわる小鳥の姿が見える。
――ふむ、と一つ頷いて。
オーリは自らの勘に従い、とりあえず小鳥の後を追ってみることにした。
※※※
結論から言うと、オーリの選択は正解だったらしい。
小鳥に案内されてすんなり地下に辿り着いたオーリは、そこにいた男二人を蹴り倒し、地下牢から引き出されようとしていた子供たちを発見することが出来たのだ。
けれど、十人ほどの子供が集められたそこに、ラトニの姿は見当たらなかった。
「ねえ、誰かラトニって子を知らない? 多分一番最後に来たと思う、フードを被った男の子なんだけど」
全ての牢を覗き込んでも、そこにあの少年の姿はない。
いつだって淡々として聡明で、怒鳴ったことなどこれまで一度もないのではないかと思わせられるほど冷静なラトニなら、今回も巧く立ち回れているのではないかと、期待していなかったと言えば嘘になる。
けれどその姿が未だ確認できない現状で、募るのは不安と緊張だ。
(……いや。そもそも冷静な子供なら、わざわざこんな敵陣真っ只中に潜り込もうなんて思わないか。実はあの子、意外と無鉄砲なとこあったのかも)
じわりと浮かび上がる嫌な予感。僅かに焦りを再燃させ始めたオーリに、子供たちが小さくざわめいた。
オーリが一瞬で男たちの意識を刈り取り、拘束して牢に放り込む姿を見ていた子供たちは、若干腰が引けているものの大人しい。
そっと仲間内で目配せし合った後、十二才ほどの一人が恐る恐る手を挙げた。
「あの、その子がいたかは分かんないけど。さっき、あんたが来る少し前に、十人くらいが連れ出されたよ……です」
「十人くらい?」
「半分だけ先に街を出るって言ってたから……」
「成程。じゃあその中にラトニも……?」
「あ、でも一番最後に来たって奴なら、そっちじゃないかも。その前に、一人だけどこかに連れて行かれたような音がしてたから」
「それでまだ戻ってきてないんだ。どこに連れて行かれたか、心当たりはある?」
「……多分、オレたちを誘拐した奴らの一人のとこ。なんか、子供全員と必ず一度会ってる、金髪の男がいるんだ」
――それは気に掛かるなあ、とオーリは思った。
子供全てと顔合わせをしたという金髪野郎が何を考えているのかなど知らないが、連れて行かれた後の消息が不明な以上、ラトニはまだ館内にいる可能性があった。ここで下手に見逃して、金髪野郎諸共消えられてしまえば目も当てられない。
(先に連れて行かれた十人の子供は、門に着くまでに待ち伏せしている警備隊が捕まえてくれる。なら、ここで私がラトニを優先しても問題はないはずだ)
思考は数秒。
そうして方針を決めたオーリは、その子供から更に詳細を聞き出した。
曰く、薄い金髪に緑の目をした、今一やる気のなさそうな若い男らしい。一味の協力者として発言力はあるようだが、正しい意味での仲間ではなさそうだ。
最低限の特徴を頭に入れ、次いでイアンから預けられた封珠を発動させて牢に結界を張る。
恐らく、警備隊が到着するまで然程の時間はかからないだろう。助けが来るまでここから出るなと子供たちに言い含め、自身は再び階上に向かうことにした。
――ピィ、と、オーリを導く声がする。
最早迷っている時間はない。パタパタと飛んでいく小鳥を追って、オーリは廊下を駆け出した。
――小鳥を初めて見た時の違和感の正体には、もう気付いていた。
オーリの記憶の底に、この小鳥の姿はあった。名前も生態も知らないが、この小鳥は確か、以前ストリートチルドレンを訪ねて路地裏に行った時、ひっそりとそこに居た鳥だ。別鳥の可能性もあるが、空のような水色の羽はこの世界にも珍しかった。
そして、梟など夜行性の鳥ならともかく、日中に活動していた鳥が夜も活発に動いているのは明らかにおかしい。
一般に鳥は夜間も人間と同程度の視力を保てるというが、それでもうっかり木や壁にぶつかる危険の上がる時間を、好んで活動時間にする鳥は少ないだろう。翼を傷めた鳥は、もう野生では生きられないのだから。
(つまりこの鳥は、その危険すらないほど夜目が利くか――或いは、鳥でさえないか)
オーリを案内するような行動を取る知能に、このタイミングの良さ。どんなに楽観的な人間だって、怪しいと思わないわけがない。
――けれど何故だろう。今に限ってオーリは、この水色の小鳥に案内されることを疑問に思うことができなかった。
――これでただの罠だったら、この鳥絶対鳥肉にしてやる。
腹黒いことを思いながら、オーリは闇に溶け込みそうになる小鳥の姿を必死で追いかけた。
小鳥は迷うことなく飛び続けるし、オーリ一人で館を調べ尽くすなど無理がある。何せ今は、一刻も早くラトニを見つけ出さなければならないのだ。
犯人たちが倒されていることと侵入者の存在に気付かれたら、リスクは一気に跳ね上がる。他に手掛かりがない以上、出所さえ怪しい藁にも縋らねば、無駄に時間が過ぎていくばかりだった。
(街でも農村でも、ラトニはいつだって如才なく振る舞ってた。頭が良いラトニなら、敵相手に下手なことは言わないだろうけど……。でも相手の目的次第では、危害を加えられる可能性はゼロじゃない。早く安全圏に連れて行かないと)
――爪を、噛みたいなあ。
焦りと苛立ちに眉が寄る。ぎりりと噛み締めた歯の間にいつもの爪の感触はなく、代わりに拳を強く握り締めた。
手遊びのように爪を傷付けるオーリの手を呆れた顔で取り上げる少年は、今はいない。
既に犯人の一部が出立してしまったせいもあるのだろう、どうやら館にはあまり人が多くないようだった。
途中で一度だけ一味らしき二人連れに遭遇したが、オーリは顔を合わせる前に危なげなく彼らを昏倒させた。
子供たちが結界で守られている以上、もう人質に取られる心配はないので、八つ当たりも兼ねて遠慮なく潰させてもらうことにする。ぎょろりと目付きの悪い男の方は随分と機嫌が悪そうにピリピリしていたし、もう一人の痩せこけた男は、オーリが一度、二階で迷っている時に見かけた男だった。
(地下に向かう道を歩いてたってことは、これから残りの脱出組と合流しに行く予定だったのかな。例の金髪野郎らしき人間だけは、まだ見かけてないけど)
階段を三つ上った頃、オーリの視線の先でようやく小鳥が進むのを止める。
廊下の奥に佇む、大きな扉。その前で一度旋回して、小鳥はピィと鳴いた。
――ここだ、と主張したいのか。
「あんたが何なのかはよく分からないけど、ここにラトニがいてくれることを祈るよ。……案内ありがとう」
短く告げて、オーリは扉に手を触れた。ぎぎ、と軋んだ音を立てる扉の隙間から、そっと室内を見回して――
部屋の真ん中に倒れ伏す、見覚えのある上着を纏った子供の姿を視界に捉え、ぐっと息を呑んだ。