104:坂の多い村
山に囲まれたシェパの街に、いよいよ春を運ぶ新緑の色が重なる頃。
春告祭を一月後に控え、ようやく自主謹慎を解いたオーリは、古びた帽子を一つ被った姿で、よくラトニと屯する小さな空き地を訪れていた。
彼女が愛用していたオリーブ色のフード付き上着は、遺跡での騒動の時、野盗に奪われたきり紛失してしまった。
先程立ち寄った古着屋には残念ながら合うものがなく、仕方なく帽子一つで顔を隠すことになっている。
「――ああ、それで代わりに幻影を使っているというわけですか。いきなりその顔で現れるから、少しドキッとしたんですよ」
空中で手のひら大の氷像を作ったり消したりしていたラトニが、納得した様子でそう言った。
普段のオーリと今の姿の共通点は、綺麗に伸ばした濃茶色の髪くらいのものだ。
青灰色だった瞳は灰色になり、顔立ちはやや目尻の垂れた愛嬌のあるものに変化。
そこそこ整ってはいるが、どちらかと言うと呑気そうな印象で、幾らか彫りが浅く東方の血筋が垣間見えるその容姿は、ラトニにもよく覚えがあるものだった。
「王都で纏っていた幻影と同じものですね。確かにそれなら、顔を見られてもバレないと思いますよ」
「そっかー、安心したよ。ラトニが保証するなら、下級の魔術師程度には見破れないと思うし」
何やら細い鉄の棒らしきものをぐいぐいと曲げながら、オーリはにへっと笑ってみせた。
彼女の首にぶら下がる黒石――【まつろわぬ影の眼】という名の魔術具は、これを使って幻影を被る時、オーリが特に形状を指定しなければ、自動的にこの容姿を幻影として作り上げる。
幻術の扱いに慣れていなかった当初は、下手に自分で形状を決めて架空の顔を作ろうとすると、目の位置がずれたり鼻だけ伸びたりと福笑いのようなことになっていたので、黒石にこんな初心者用サポート機能が付いていなければ、活用さえもままならなかったに違いない。
最近この魔術具が予想外に高レベルな代物だと判明したばかりだし、この先もっとしっかり使いこなせるようになれば、上級の魔術師にも見破れない幻術が使えるようになるだろう。
「シェパって冒険者ギルドもあるし、どこかで魔術師と出くわさないとも限らないもんね。幻影って便利だけど、見抜かれたら一発で怪しまれるから、正直不安だったんだよ」
「そうでしょうね。万一身元がバレたらとんでもない騒ぎになるでしょうし」
「屋敷に閉じ込められるのも、遺跡事件の時みたいに使用人が責められるのもごめんだよ。あの時みたいなごり押しの言い訳、もう二度と使えないだろうし」
「ええ。……僕も、またあなたから引き離されるのは困ります」
如何せんラトニの方も、魔術具の帽子と、自分の水属性魔術を用いて幻影を重ねがけしている身だ。
子供二人が揃って幻影で顔をごまかしているなんて、怪しいことこの上ない。バレて追及されたなら、天通鳥として活動することも出来なくなるかも知れない。
垂れぎみの目で苦笑いするその表情がほんの少しだけ胸を刺したような心地がして、ラトニはそっと目を細めた。
術人形に意識を乗せて王都に行った時よりもっと前、彼女がちっとも覚えていない時代の記憶が、頭の奥でしくりと疼く。
彼女が、これとそっくり同じ顔で生きていた頃のことを、ラトニ以外の誰も知らない。
(ここにいるのは、確かに『オーリさん』だ)
彼女は自分が焦がれ、共にいることを願った少女だ。
今も昔もそれは変わらず、かつての彼女の容姿だって、今生のそれと同じように慕わしいことに違いはない。
けれど、敢えて一つ、望みを言うなら。
「――目の、」
ぽつり、と。
思い出したようにラトニが呟いた声に、オーリの頭が不思議そうに傾いだ。
こちらを見てくる彼女の澄んだ灰色の瞳を見ながら、ラトニは心なしか躊躇いを含んだ声で言う。
「目の色を、少しの間だけ元に戻してみてもらうことはできませんか。その灰色も綺麗ですが、僕はあなたの、澄んだ青灰色の瞳を覗き込むのが好きなんです」
なるだけ『天通鳥』と『オーリリア』を繋げないために、瞳の色は変えておいた方が良い。
そうとは分かっていたが、ラトニを映す瞳の色は、出来れば青灰色が良かった。
硝子のように透明できらきら輝く彼女の灰色の瞳は好きだけれど、その色はかつて、命と光を失った彼女の、曇り硝子よりも濁った灰色の目を否応なく思い出させるから。
淡々と告げたラトニに、オーリはピシッと唇を一文字に引き結んだ。
何やら形容し難い表情で目をまん丸くし、動作をぴたりと停止したオーリの様子に、今度はラトニが首を傾げる。
なかなかに熱烈な言葉をさらりと吐いたことには気づかぬまま、ややあってぎしぎしと再起動を始めたオーリをじいっと見つめ続けた。
「あー……うん、前からそうだけど、キミって時々そういうことさらっと言うよね……。分かった、試してみるよ。多分出来ると思う」
ほんのりと頬を赤らめ、困ったように眉を下げて笑った後、オーリは首にかけた黒石をするりと撫でた。
ラトニがオーリに全力の好意を込めた言葉を紡ぐのは決して珍しいことではなかったけれど、遺跡事件の後から、また幾分箍が緩んだような気がしてならない。
まるで愛を告げるような台詞を真っ向ぶつけられればオーリだって照れようというもので、しかしこんな時に限って自分の発言の熱烈っぷりに気付いていない相棒に、彼のツボが分からないと溜め息を吐いた。
(目だけを元の色に、だっけ。前の私なら、幻影の精密な変更なんて出来なかっただろうけど……)
ここ最近、ラトニがノヴァの教えを受けていることは知っている。そのお陰で随分と魔力操作能力が上がっているらしいが、実はオーリにもまた同様のことが言えた。
圧倒的な魔力に満ちた翠月夜と、魔力回路の再構築、遺跡機能の強制操作。
極限状態で行われたそれらはどうやらオーリの魔力操作能力をも飛躍的に向上させたらしく、その効果の一つとして、今のオーリは黒石の精密操作が可能になっている。
黒石がオーリの魔力を吸い上げた。
所有者の指示に従って、きぃん、と一度、微かな光を放つ。
色を変えた少女の双眸を覗き込んで、ラトニは満足そうに頷いた。
「ちゃんと変わって――いえ、戻っています。いつものオーリさんの色ですね」
磨き抜かれた鏡のように己を映し出す澄んだ青灰色に、涙と虚ろに曇った、かつての死色の陰は見て取れない。
灰色の瞳が失った世界の象徴なら、青灰色はラトニとオーリが新たに得た、まっさらな世界の証明だった。
オーリの顔に嵌まった青灰色が、記憶の彼方、全く同じ顔に嵌まっていた濁りの色をゆっくりと塗り替えていく気がした。
青灰色の瞳に映る自分の顔が、静かに強張りを解いていくのが分かる。
――大丈夫だ。今ここにいるのは、壊れた人形のように打ち捨てられた少女の骸ではない。その目に映る少年は、もう何も出来ずに守られるだけだった、弱くてちっぽけな子供の自分ではない。
「ありがとうございます。もう戻して良いですよ」
「よく分かんないけど、納得できたなら良かったよ」
無意識に安堵して、ラトニの口角が緩む。オーリが肩を竦めて瞳の色を灰色に変え、また鉄棒を曲げる作業に戻っていった。
「ところでオーリさん、さっきから何作ってるんですか? ゴミ捨て場を引っ掻き回し始めた時は何事かと思いましたが」
「ダウジングロッド!」
トーンを切り替えて問うてきたラトニに、オーリは元気良くそう答えた。
針金に近いほど細い二本の鉄の棒をL字型に曲げて、持ち手に木の皮を巻き付ける。
極めて粗末な代物だが、機能するならそれで良い。彼女は出来上がった一品を掲げ、くふふと含み笑いをした。
「一度やってみたかったんだよね、ダウジングって。ペンデュラムとかも格好良いけど、最初はロッドくらいが分かりやすいかな」
「ああ、『トレジャーハンター』とやらが使うやつですか。金脈でも探すつもりで?」
「それもやりたいけど、今日は別件。温泉掘り当てに行くよ、ラトニ!」
ぐっと拳を握り締めたオーリに、ラトニは「温泉ですか」と呟いた。
「そう。メイドの噂話を聞いたんだけどさ、昔、シェパの近くに温泉が湧いてた村があるんだって。小さな温泉だし、今は枯れちゃってるそうだけど、もしかしたらまた湧くかも知れないじゃない。もしそうなるなら、私は是非温泉に入りたい! 広々した湯船で泳ぎたい!」
「あなた、お湯と湯船には妙に執着見せますよね……」
元日本人の心を引き継いで、オーリは温泉に目がなかった。
野生の獣と一緒に温泉に入ったりしてみたい。できれば、つるんと美味しい温泉玉子とかも食したい。
既に、毎日欠かさず風呂に入るという庶民では到底叶わない贅沢に耽っている身だが、一応村おこしという大義名分もあるので勘弁して欲しい。
侯爵家の両親に強請れば湯船くらい広げてくれるのではないかと疑問に思いながら、ラトニはふんすと鼻息の荒いオーリを呆れた目で眺めた。
「甘いよラトニ! 普通のお風呂に使ってるのは水から沸かしたお湯だもん。温泉成分をふんだんに含んだ天然温泉じゃ、効能と希少性が違うの!」
「体に良い水、でしたっけ。以前話してくれた『素粒水』とはどう違うんですか?」
「素粒水は『素粒子レベルのエネルギーを発生する水』のことだよ。貴重なのは変わりないけど、全然別物」
素粒水は前世では奇跡の水として取り上げられたもので、約三十五億年前、地球に初めて生命が誕生した頃とほぼ同質の機能を持つ水のことをいう。
生物細胞の酸化を抑制することができる究極の還元力を持ち、同時に年単位での長期保存や、汚染された水の浄化を可能とするため、極めて利用価値が高い。
「ラトニなら、原理さえ分かれば自力で再現出来るかもね。利用できる範囲が凄く広いから、作れるものなら是非欲しい。まあ『これが素粒水です』って出されても、私に真偽なんか分からないんだけどさ」
「つまり、今は手近な温泉で間に合わせるしかないってことですね。それなら早いところ行きましょう、本当に温泉を掘るつもりなら、どれだけ時間がかかるか分かりませんよ」
まじまじとダウジングロッドを見ていたラトニが立ち上がる。
はあい、と返事をして、オーリがロッドをくるりと回した。
※※※
遺跡で発現してから全く衰える気配のない、こちらも著しく上昇したオーリの身体能力をフルに使って数十分。
二人が到着したのは、鶏やジドゥリの声が疎らに響く、閑散とした小さな村だった。
村の入り口は緩やかな下り坂になっており、申し訳程度の柵で敷地を区切られていた。
昔はそれなりに人がいたのだろう、小さいけれどそれなりに整備された村だ。
村の真ん中にはタイルを敷き詰めた道が通り、倉らしき大きな建物や、簡素な教会へと続いている。
昔は小さな温泉が湧き、薬効のある水として外部に売り出されていたと言うから、これらの整備はその当時に行われたものだろう。
眼下に見える村のあちらこちらに緩い坂が幾つもあり、老人には幾分暮らしにくかろうと考える。
(過疎化が進んでるのかなあ)
ここから一番近い街であるシェパは、ブランジュード侯爵領で一番栄えて大きな街だし、冒険者ギルドだってある。少し野心があったり鄙びた村の生活に飽きたりした若者なら、出稼ぎに行くことに躊躇いはないだろう。
こんな小さな村に門番がいるわけもなく、二人並んで村へと坂を降りていけば、物珍しそうに見てくる年寄りが一人二人いたものの、特に話しかけられることもなく背を向けられてしまう。
何処かに畑でもあって、仕事に出払っているのだろうか。住人自体が随分と少ないようで、ぽつぽつと寂しそうに建つ空き家が、遠目にちらほらと見て取れた。
「誰も寄って来ませんね。僕たちが子供だから警戒されないんでしょうか」
「誰かを訪ねてきたんだって思われてるのかも知れないよ。子供の徒歩圏内に別の集落は無いはずだし、遊びに来たとは考えないと思うな」
「成程。でも、こちらから話しかける前に離れて行ってしまうのは困りますね。わざわざ追いかけるのも不審ですし」
ぽそぽそ言い合いながら、とりあえず大きな道を歩いていく。
話の出来そうな村人がいないかとぐるりと見渡した時、オーリの目が人工の色を捉えた。
「ラトニ、いた! あそこの空き家の陰!」
咄嗟にそちらを指差して、オーリはラトニの手を引いてそこへと駆け出した。
視界に入ったそれは、確かに人間の衣服だった。
壁の向こうから覗いた青色の裾が、風に煽られて猫の尻尾のようにオーリを誘う。
低さからしてきっと子供だ。ならば大人よりも話しやすいかも知れないと、勢い良く向こう側を覗き込む。
とうに手入れもされなくなった、穴の空いた壁の反対側。頭を突き出して見下ろせば、そこには一つの小さな影が膝を抱えて蹲っていた。
「ひぃっ」
砂利を蹴り飛ばしながら突進してきた二人――主にオーリの存在に気付き、びくっ、と震えた影が顔を上げる。
きゅう、と眉を下げ、驚いたような表情を向けてきたその子供に、オーリは思わず目を見開いた。
(うわあああああ! 美少女だー!)
年はオーリたちと然程変わりない頃か、それは少し汚れた青い服を着た、とんでもなく美しい少女だった。
ついさっきまで泣いていたのだろう、まん丸く見開いた目は綺麗な翠色で、涙に濡れて宝石のようにきらきらしている。
きっちりとおかっぱに切り揃えられた金髪は愛らしい顔を引き立て、天使の輪が冠のように輝いていた。
宗教画の真ん中に描かれていたって違和感がないに違いない、それこそ天使と見紛うばかりの美貌。長じたならば、その顔一つでどれほど名前を轟かせることだろうか。
「あ、あの……どなたですか……?」
唐突に現れたオーリたちを見て、美少女が恐る恐る問いかけてくる。
涙に濡れたその美貌に面食らっているオーリの代わりに、通常営業のラトニが口を挟んだ。
「こんにちは、お邪魔しています。昔、この村に温泉が湧いていたという話を聞いて来たんですが、良かったら当時の温泉がどのあたりにあったのか教えて頂けませんか」
己の容姿に驚くでもなく淡々と問いかけられて、美少女はぱちりと目を瞬いた。
それから恐る恐る何処かを指差し、花弁のように愛らしいぷるりとした唇を開く。
「あ、あの……それならあっちの脇道を行った先だと思います……。温泉の枯れた跡がそのまま残ってるから、見れば分かると……」
「ありがとうございます。行きましょう、リアさん。いつまでうろたえてるんですか」
「はっ、ごめん。今まで見たことないタイプだったから」
呆れたように腕を引かれ、オーリははっとして謝った。
道を教えてくれた美少女に礼を言い、また並んで道を歩き出す。
壁の向こうからそっと顔を出した美少女が、不思議そうに二人の背中を見送っていた。