103:隣り合わせ、背中合わせ
果樹エリアを突っ切る小道を、オーリとラトニは並んで歩いていく。
オーリの「初めての友達」に気を遣ったアーシャが、二人の三メートルミル後ろからゆっくりついて来ていた。
彼女に聞こえない程度に声をひそめて、ラトニがそっと口を開いた。
「ところでジョルジオさんのことなんですが、先日王都に向けて出立したそうですよ。オセロの特許も取ってきてくれるそうです」
「え、教官殿もう出ちゃったの?」
ジョルジオに聞かれたらまたしばかれるであろう呼び方をしつつ、オーリは目を瞬いた。
ここ最近全く訪問出来ていない薬学の師を思い浮かべ、申し訳なさそうに頭を掻く。
「そっかあ、やっぱり挨拶は間に合わなかったか……出立に立ち会うくらいしたかったんだけど」
「仕方ないですよ。一般人の身では結構な長旅になりますし、寒さが落ち着いたらすぐにでも出ると言っていたじゃないですか」
「王都まで行くなら、まだ雪が残ってる場所もあるだろうに……。目的は薬師仲間の訪問だっけ?」
「それと、研究マニアな友人との情報交換です。きっと新しい薬の作り方でも学んでくるんでしょう」
「そしたらジョルジオさん、また教えてくれるかなあ」
「……あなたは無理かも知れませんよ」
「はは、それならそれで仕方がないね」
たとえ僕が教えてもらえるとしても、と無言で含めた意味を正確に聞き取って、オーリはへらりと苦笑してみせた。
――ああ、もう逆転されちゃったのか。
自分より一年も後に弟子入りした相棒に対して卑屈になるでなく、ただうっすら嫉妬と悔しさと、そして感慨を覚える。
ラトニの予測は、別にオーリに対する意地悪でも優越感でもない。単純に、現時点における二人の習熟度を確認したに過ぎないものだった。
野盗事件にかかり切っていた間は当然として、事件が終息した後も一時期外出を自重していたため、オーリは随分とジョルジオの診療所を訪ねられていない。
屋敷の蔵書で勉強は続けていたが、使われなかった調合の腕はやはり衰えているだろう。
実質的な知識量も、多分、既にラトニに追い越されている。
ラトニはしばしば診療所を訪ねてはジョルジオ直々に実践知識を与えられているし、元より頭はオーリより遥かに良いようだから、オーリが少しでも足踏みすれば、たちまち追い付かれてしまうのは道理である。
何度も本を読まなければ記憶できないオーリと違って、ラトニは一度で大抵のことを覚えてしまうから。
(いずれこんな時が来るだろうとは、ずっと予想してたけど)
たった一年分のアドバンテージなんて、長くは持たないと最初から分かっていた。
貴族としての勉強や、天通鳥としての活動があるオーリが本格的に薬学に打ち込めないのは当たり前だし、弟子入りに際してもそれでジョルジオと散々揉めた。
一方ラトニはオーリより幾分多い時間と、余程に優れた頭脳がある。
追い越されたことに焦って抜き返そうという気にならないのは、そもそも自分の生きる道が薬師ではないことを、オーリが理解しているからだろう。
ラトニは成長している。
オーリに出会った時からずっとずっと――まるで生き急いでいるかのように。
そんな彼の行動原理が、未だ理由の定かではないオーリへの執着心に起因することだけは確かなのだけれど。
――『約束』って、何なんだろう。
遺跡で拾い上げた――そして未だに思い出せない過去の片鱗を、オーリはひっそりと探り直す。
彼が思い出して欲しがっているそれをきちんと取り戻せたなら、ラトニの執着の理由も理解できるのだろうか。彼の献身に、正しく応えることができるのだろうか。
「――そう言えばさ。今更だけど、天通鳥として活動してる時の、キミの素性ってバレないの? 呼び名は『ラト』だから、私の『リア』と違ってほとんど本名じゃない」
ふとそんなことに思い至って、オーリはことりと首を傾げてみせた。
もしも天通鳥の正体を知りたがる人間が相棒であるラトニに目を付けたら、一介の孤児に過ぎない彼には対処が難しい。不安に思う彼女に、ラトニは肩を竦めて「大丈夫ですよ」と返した。
「あまり言いたくはありませんが、僕には『ラトニ』の名を日常的に呼ぶほど親しい人間がそもそもいないんですよ。孤児院の子供たちからは遠巻きにされているし、関わることもない。大人たちは一応名前を呼びますが、大抵は『あなた』や『あの子』で事が済む程度です」
「ああ、そう言えばキミ、例のガキ大将からも名字呼びだったね」
どこか遠慮したように、キリエリル、と彼を呼ぶ少年の姿を思い浮かべて、オーリは納得したようにそう言った。
ラトニが名前を呼び合うことを好むのは、相手がオーリである時だけだ。それ以外の相手なら、たとえアレやらコレやらといった代名詞でしか呼ばれなかろうと一向に構わない。
「上着はシェパの子供には珍しくない量産品ですし、『天通鳥』と行動する時以外は例の帽子も着けないようにしましたから、服装から素性が割れることもないはずです。特にあの帽子を手に入れてからは、認識阻害の魔術で保険もかけられますし」
「ふぅん……」
どうやら今のところ不都合は無いらしいと分かって、オーリはそっと肩の緊張を抜いた。
ラトニの名前を知っているのは、ジョルジオ含めてほんの少しの人間だけだ。
そう言えばラトニは自分よりずっと他人を警戒するたちだったな、と思って、まだ当分は彼の安全が保たれそうなことに安堵した。
「なら大丈夫なのかな。ん、麦藁帽子も似合ってるよ。なんか夏っぽくて爽やかだね」
「ありがとうございます。あなたもワンピースがよく似合ってますよ、まるで良い所のお嬢様みたいです」
「まさしく良い所のお嬢様なんだよ」
けらけらと笑って、ローズドラジェカラーのワンピースを翻す。
白い日差しにふわりとスカートが踊るのを、ラトニは目を細めて見つめていた。
農園に不釣り合いなワンピースを着た少女と、麦藁帽子の少年が並んでいる姿は、どこか物語の一幕のように周囲から浮き上がって見えた。
きっとオーリもラトニも、そして後方で静かに見守っているアーシャも同じことを感じたのだろう。遠く聞こえてくる農夫たちの声を耳に入れながら、小道に満ちる緑の匂いにオーリの唇が綻んだ。
互いに名前も知らない令嬢と、一介の少年と。
素をさらけ出せず中途半端に仮面を被り、どこかもどかしいこの現状は、けれど初めて二人が、共にいることを他者から許された時間でもあった。
「なら、行こう、『少年』! 今日は一日、私の『休暇』に付き合ってね」
軽やかに前へと踏み出したオーリがラトニを振り向いて手を伸ばし、鮮やかに笑う。
前髪の隙間から覗く美しい琥珀色の目をほんのりと緩ませ、ラトニが頷いた。
「はい、『お嬢様』。短い間ですが、お付き合いさせて頂きます」
芝居がかったやり取りを交わし、ラトニがオーリの手を握る。
互いにだけ分かる共犯者の笑みで楽しそうに笑い合った子供たちは、弾むような足取りで小道を駆け出した。
少し遅れて付き従うアーシャが、打ち解けた素振りの子供たちにほっこりと微笑んだ。
※※※
果樹林、野菜、穀物など複数のエリアに分かれた広大な農園は、ブランジュード家や市場に卸される作物を作るだけでなく、外国から新しく入ってきた作物の試作や、肥料の研究なども行われているらしい。
敷地外から引かれた川には澄んだ水が豊富に流れ、大量の水が必要な作物も不足なく育てることが出来る。
日本にあったのとそっくり同じような作物もあれば、本当に植物であるのかも疑問に思うような代物もあって、オーリはきらきらと目を輝かせながら農園を走り回った。
「ミミズコンポストは、ここでは全く使われていないようですね。農村では成果が上がりつつあるはずですが」
「それでもまだ試用段階だもん。そもそも貴族直轄の農園に、農村で使われてる技術なんて取り入れられにくいんじゃないかな」
川の水は、下流から上流に流れたりしない。小さな農村で新しい技術が生まれても、それが上部階層である貴族の農園にまで伝わるには、やはりそれなりの時間が必要だろう。
虫が湧きやすいという欠点はまだ克服できていないが、ミミズコンポストの有用性は証明されつつある。焦らずとも成果さえ示し続ければ、そのうち勝手に広まるだろうとオーリは思っていた。
「ミミズコンポストも良いけど、私はいつか水耕栽培取り入れたいなあ。あれ連作障害がほとんど起こらないんだよ」
「土を一切使わず、無機物の培土を利用して栽培する方法でしたか。土を使わない農業なんて、何だか非現実的に思えます」
「私も初めて知った時はそう思ったけどね、土作りの手間とかいらなくて便利らしいよ。あー、土壌に使うバーミキュライト、何とかして作れないかなあ……」
休耕地らしき畑に蹲り、枝切れで土をつつくと、成長途中らしき小さなミミズがにょろりと顔を出した。ラトニが「汚れますよ」と窘める。
「バーミキュライトって何なんです? 普通の肥料じゃ駄目なんですか?」
「私もあんまり詳しいわけじゃないけど、バーミキュライトと肥料は全然別物だよ。含有成分が水や土に溶け出さないから、そもそも肥料として使えるようなもんじゃないの。
ないかなー、なんか代替品。水や空気を通しやすくてー、無菌で清潔でー」
「それこそこういう農園で研究してくれたら早いんでしょうけどね」
「知識の出所を言えないからねー。かかるお金の規模が違うから、こんな曖昧な情報じゃ乗ってくれないよ」
むす、と唇を尖らせるオーリを、ラトニが手を引いて立ち上がらせた。
離れた所から口を出したそうにはらはらしているアーシャをちらりと見て、小さく会釈する。
「あまり土遊びばかりしていると、侍女さんに叱られますよ。そろそろ移動しませんか、あなた温室を見たいと言っていたでしょう」
「はーい」
ぱんぱんと土を払って、二人は再びぽたぽたと小道を歩き出した。
この農園にある温室はビニールハウスではなく、魔石を混ぜた硝子を使った巨大なドームである。
小さな家が幾つも入るようなそこは、南方の国から輸入した果樹を育てるために最近作ったばかりのものだそうだ。
むっと暖かい温室に入ると、十数人の農夫が作業をしていた。
濃い緑が所狭しと生い茂り、幹の太い短い木や、椰子のような背の高い木がずらりと立ち並んでいる。
ほー、とオーリが口を開けて見つめていると、アーシャがそっと口を挟んできた。
「お嬢様、こちらの植物は、生育が難しいとのことでフヴィシュナでもあまり育てられる者のいない、貴重なものが多いようです。木を傷つけないように気をつけてくださいませ」
「はーい。ねえアーシャ、育てるのが難しいって言うけど、どうしてお父様はそんな植物に手を出す気になったのかな? 温室まで作るくらいだし、そこそこ勝算があったんだと思うけど」
「何でも、肥料に特殊なものを使っているそうですわ。それが安く手に入るようになったから、事業を拡大したんだとか」
「へえ、今度帰ってきたら聞いてみたいなあ。あ、少年、あっちの方見に行こう! 収穫物の仕分けやってるみたい!」
「はい、お嬢様」
小走りで駆け寄った先では、農夫たちが世間話をしながら、里芋のようなものを次々と箱に投げ入れているところだった。
丸々と太ったものは上等そうな木箱へ、傷物は板を張り合わせたように粗末な木箱へ。
如何にも高そうなワンピースを着たオーリを見て農夫たちは目を瞬いたが、アーシャが目配せするとすぐに自分たちの会話と作業に戻っていった。
「こりゃあな、ケノコ芋っつーんだよ」
興味深げにしげしげと芋を見つめている子供たちに、農夫の一人がそう言った。
「ケノコ芋? どうやって食べるんですか?」
「南の国じゃ焼いたり煮たりして食うらしいが、採って半日以内なら生でもいけるらしい。嬢ちゃんでかい商会の娘なんだろ、味見してみるか? 傷物の一つくらいなら構わねぇぞ」
「本当ですか! 是非!」
分かりやすく好奇心をそそられた顔をして、オーリはアーシャをちらりと見る。彼女が頷いたのを確認して、ラトニと一緒に粗末な箱の中から芋を漁り始めた。
「結構重いね。あ、これ中身紫色だ」
「ケノコ芋はオレンジ色のはずだぞ。傷んでんじゃねぇのか?」
「お嬢様、それ駄目だそうです。て言うか、紫ってあからさまに警戒色ですよね」
ラトニに止められて、オーリは無言で紫の芋を手放す。どうやらこの世界に紫芋は普及していないようだった。
破れた皮目からオレンジ色が覗いているものを選んでよく洗い、土に触れて変色していた部分を避けてかじりつく。
みっしり肉質の詰まった実に歯を立てると、しゃく、と予想外に軽やかな食感が返ってきた。
じんわりと滲み出てきた汁は意外と甘くて、干したらもっと甘くなるかな、と考える。
「……固い実だと思ったんですけど、存外に汁が多いですね。絞れば飲み物にもなるでしょうか」
「時間が経つと水分が抜けるのかもね。生食いは半日までって言ってたし」
横からかじりついたラトニが、口をもぐもぐさせながら無表情で小首を傾げている。
別の農夫が「それ町じゃ高いんだから味わえよー」と声をかけてきた。
「どうだ嬢ちゃん、旨いか? 売れそうか?」
「美味しいです。でも、調理したのも試さないと厳密には分からないですね。制限時間が半日なら、生食いってほとんど市場に出回らない珍味だろうし」
「それもそうかー、仕方ねぇな。まあ気が向いたら、世間話ついでに親父さんにでも喋っといてくれや」
「なあ知ってるか、嬢ちゃん? この芋育ててるところは、ブランジュード侯爵様と、あとどこだったかなあ。フヴィシュナじゃあ、肥料があっても南の地方以外の気候じゃ育てにくいとかで、高級品扱いされてんだよ。輸出国じゃありふれた植物なのにな」
「高級品つっても、育てるにはやっぱ金もかかるだろ? だが数が少ないから広まらなくて、まだ知名度が低いから、売り上げもぱっとしねぇんだ。でかい商会が扱うようになったら、もっと流通して、育てたがるとこも増えるかなあ」
「あー、色々苦労してるんですねぇ」
適当に相槌を打ちながら、幾分申し訳ない思いで芋をもう一口。残念ながらオーリは本当は商会の娘ではないので、口利きなんぞは出来ないが。
「高級品ですか……なら孤児院には回ってきそうにないですね」
ぼそりと呟いて、ラトニが唇を親指で拭った。
「あれ、キミは気に入らなかったの? 私は美味しいと思うけど」
「美味しかったですが、個人的にはモヤシの方が好きです」
「ああ……孤児院でも栽培始めたんだっけ……」
相変わらずモヤシに忠誠を誓っているラトニに苦笑いし、オーリはくるりと周りを見回した。
立ち働いている農夫たちは忙しそうだし、茂った植物は気をつけないと踏んだり倒したりしてしまいそうだ。
温室はあまりうろつかずに出た方が良さそうだと思って、纏め役らしき農夫の一人と何事か話しているアーシャをちらりと見やった。
「――ところでお前、これの肥料にきな臭い話があるの知ってるか?」
芋を食べ終え、オーリとラトニがアーシャの元に戻ろうとした時、ふと農夫の一人が声をひそめて同僚に囁いた。
「元はこの肥料、どっかの貴族が作ってたらしいんだけどよ。何でもそこの当主が急死して、別の家が事業吸収したらしい。それがブランジュード侯爵様の知り合いで、侯爵様はその伝手で肥料が安く手に入るようになったんだとさ」
「何だ、それくらいの話ならオレも知ってらぁな。シャルマさんが話してたからよ」
「それが続きがあってよぉ。何でもその急死した貴族、暗殺されたんじゃないかって噂があるんだよ」
「あ? そりゃ何かの行き違いだろ、オレは心臓発作らしいって聞いたぜ」
「それがそうでもねぇんだよ。酒場でジョイが言ってたんだが、警備隊のエイメが、上司が話してんの立ち聞きしたってよ」
「そりゃあお前、確かに侯爵様には色々妙な噂もあるけどよ――」
ひそひそ話が聞こえたのはそこまでで、オーリは早々に身を翻して、温室の入り口まで戻ってきた。
話していた農夫に礼儀正しく挨拶を残したアーシャが、微笑を浮かべて子供たちを迎える。
不審な急死だの暗殺だの、貴族によくあるゴシップだ。追及することはなく、オーリは聞こえた話をそっと頭の片隅に追いやった。
「お嬢様、そろそろ帰宅の刻限ですよ。あと一カ所くらいなら回れますが、どうなさいます?」
問いかけてくるアーシャに何と返事をしようか考えながら、繋いだラトニの手を無意識に握り締めた。
些か不穏な形で聞こえてきたブランジュードの名を、ラトニが気にしていなければ良い、とうっすら思った。