102:農園訪問
どどんと聳える大きな門と、ぐるりと敷地を囲む小高い塀の真ん前に、家紋もついていない簡素な箱のような馬車が停止した。
細かな砂を噛んだ車輪がぎしぎし音を立てて止まるが早いか、簡素だがそこそこ頑丈そうなドアが勢い良く開き、待ち切れぬというような軽やかさで幼い少女が飛び降りてくる。
シェパの街にある大きな商会の娘が見学に来た、という触れ込みで本日の農園訪問に臨んだオーリは、初めて父に許可を与えられた外出に、愛らしい顔をきらきら輝かせていた。
続いて心配そうなアーシャも馬車を降りてきて、跳ねるように門へと向かうオーリに従った。
「リアお嬢様、呉々も、呉々も、農園の外に出たり、わたくしのいない場所に連れて行こうとする大人に従ったりしてはいけませんよ。護衛だって、危険を察知してすぐに駆けつけられるわけじゃないんですからね」
「はあい、アーシャ。分かってる分かってる。それより、うっかり名前呼び間違えないようにね」
「本当に分かっておられますか!? 護衛を連れ込まずに門外に待たせることだって、本当は危険なんですからね!」
「アーシャ、心配性! だってこんなガッチガチの護衛兵、一介の商会の子供が連れ込むわけないじゃない。ブランジュードの警備を信用してないのかって思われちゃうよ」
ローズドラジェカラーのワンピースをくるりと翻し、オーリはアーシャにぷくっと頬を膨らませてみせた。
それはそうですが、と眉根を寄せるアーシャはそれでも不安そうで、きっとオーリのことを飴玉に釣られてホイホイ誘拐される幼子だとでも思っているに違いない。
仮にもここは貴族直下の農園なのだ。技術泥棒や作物泥棒を警戒して、被雇用者の身元にも周辺の警備にもよくよく注意を払っているのだから、ごろつきやチンピラの叩き売りをしている街中よりも余程安全だと理解しているだろうに。
今日のオーリの名前は「リア」だ。貴族ですらない商会の娘という設定なので、最初に農園の責任者に挨拶をした後は、アーシャだけを連れて園内を見て回ることになっていた。
とは言え、オーナーであるブランジュード候直々の紹介で訪れた子供ということにもなっているため、責任者――ファーラムという名の、四十絡みの小太りの男は、半ばオーリを放置するような扱いには随分と渋っていた。
最初の三十分だけはファーラムも同行することで手打ちとなったが、もしもオーリが身分そのままで来ていたならば、彼は誰が何と言おうとも、オーリの傍から離れなかったに違いない。
それは「オーナーの一人娘」への下心か、或いは単に、自分の管轄内で何か起きては困るからか。
いずれにせよオーリとしては、彼女なりに仕事の邪魔をしたくない気遣いと、外出先でそんな堅苦しいのはごめんだという思いが重なって、程良く好き勝手させてもらえる現状には極めて機嫌が良かった。
「アーシャ、まずは果樹エリアに行こう! 最近輸入した南方の植物、そこにも搬入されてるんだよね!」
「はい、お嬢様――ああ、走らないで! 転んだらどうなさいますか! ファーラム様、追ってくださいませ!」
「はい、はい! リア様、お待ちくださいー!」
焦った声をかけてくるアーシャを放置して、オーリは緑の匂いに溢れた道を駆け出して目を輝かせた。
まだ実も花も付けていない木は沢山あるが、今を盛りとたわわな実りを見せつけている木々も、初春の風にさわさわと緑の葉を揺らしている。
果樹エリアに漂う甘い香りは、まだ青いものから熟れたものまで幾種類かの果物のそれが混じり合って、むっと熟したような濃い芳香へと変化していた。
果樹林のあちこちには、作業着やエプロンを着けて立ち働く人々の姿が見える。
木に梯子をかけて、まだ青い実に一つ一つ薄い網の袋をつけている者もいれば、数人がかりで大きな布を木の下に広げ、揺らした枝から零れ落ちる小粒の実を大量に受け止めている者もいた。
(やってみたいなあ……流石に言い出せないけど)
ふんわりしたワンピースを見下ろして、オーリは少し肩を落とした。
霞のようなレースがかかったシフォンのワンピースは、野良仕事には全く向かない。また、果実が熟す頃は野鳥の襲撃との戦いでもあるので、気軽に参加させてくれと頼むわけにはいかなかった。
――実際、襲撃受けてるし。
オーリから少し離れた、黄色い大きな実をつけた果樹の下では、現在熾烈な生存競争が行われているところだった。
木製の長い槍や盾を持った農園の警備員が守備に回っている間、収穫器具を持った農婦たちがハイスピードで果実を刈り取っていく。
その彼らにヒットアンドアウェイを繰り返しては果実を奪い去っている鳥は、見た目こそでかいオナガドリに似ているが、羽は黒地に黄色の雷光模様だし、サイズは大人の頭ほどで、槍にも怯まない動作や眼光がやたら猛々しい。
この世界の動物ほんとアグレッシブだな、と思いながら、オーリはようやく追いついてきたアーシャとファーラムを振り返った。
「ファーラムさん、あの鳥、どこにでも出るんですか? 人間は襲います?」
問われて、ファーラムが「はい?」と疲労した顔を上げる。
はあふうと息を荒げて膝に手を置く彼は、体型のせいであまり運動に向いていないのだろう。「子供は元気ですねぇ……」と呻いた後でオナガドリモドキを一瞥し、大きく息を吐いて首を横に振った。
「ええ、カロンといってね、春先はよく出ますよ。ですが、縄張りを侵したのでない限り、生き物は襲いません。あれでも主食は花や果実なのでね」
「あんなに獰猛なのに、そんな妖精さんみたいな食生活してるんだ」
「実際、渾名は『農家の妖精』ですよ。奴らの好みの果物を収穫するのが一晩でも遅れると、次の朝には魔法のように綺麗さっぱり消滅してますから」
「そんな憎しみがこもった妖精呼ばわり初めて聞いた」
「しかも虫に食われてるのだけは綺麗に残していくから、うっかり齧ったりすると絶叫する羽目になります」
「その虫食いを見抜くスキルも羨ましいんですね」
憎々しげに話すファーラムに相槌を打ちながら、オーリは果樹林に囲まれた小道を歩いていく。
がらがらと猫車を押して大量の石ころを運ぶ農夫とすれ違い、「ファーラムさん、あの石は何ですか?」と聞いた。
「あれは石ではなく、砕いて撒いて肥料と虫除けに使います。一般にも販売されている代物ですよ」
「へえ。じゃあ、今アーシャが見てた、背の高い麦藁帽子の人は何してるんですか?」
「あれは青い果実の間引きですね。茂りすぎた葉と枝を一緒に落として、残した果実に沢山日を当ててやると、とても甘い実ができるんですよ」
すらすらと喋って、まだ聞き足りなさそうに辺りを見回すオーリを見下ろし、ファーラムははっはっはと笑った。
「いやあ、リア様は好奇心旺盛でいらっしゃる。何処の商会のお嬢様かは存じませんが、この分ならお父様も将来安泰でしょうな」
「お嬢様は畑など見るのは初めてですから、色々と新鮮で楽しいのでしょう。今回は快く見学を受け入れてくださってありがとうございます」
「なに、ブランジュード侯爵直々のご依頼ですからな。そう言えば侯爵にも幼いお嬢様がいらっしゃるとか、もしやこの方はそのご友人などで?」
「さあ、わたくしからは何とも」
「そうですか。いえいえ、実はわたしにも娘がおりましてな。その子の歳は十三なのですが、ブランジュード侯爵のお嬢様はお幾つで?」
「八歳ですよ。とても素直でお可愛らしい方です」
「おや、アーシャ殿はご令嬢と既知でしたか。やはり、リア様と同じように好奇心旺盛な方で?」
「ええまあ、リアお嬢様と同じくらいには」
「ならば都合が良い。いえね、うちの娘は、お転婆ですが面倒見の良い子でして。もしもいつかブランジュード侯爵のお嬢様がおいでになることでもあれば、是非ともあの子を案内役に付けて差し上げたいと思っているのです」
「そうですね、ここはブランジュード侯爵の直轄農園ですものね。ご令嬢がいらっしゃることもあるでしょう」
当の「ご令嬢」が目の前にいることを知る由もないファーラムと、アーシャがのらくらと誤魔化しながら会話を続けている。
オーリは忙しなく目を動かしては、浮かんだ疑問を質問にして次々と繰り出していった。
「ファーラムさんファーラムさん、あの小川から水を引いてるんですか?」
「そうですよ、魚もおります。お一人で近付いてはいけませんよ」
「はあい。あ、ファーラムさん、あそこにいる子は何をオォォォォォォォォォォォォォォ!!?」
絶叫した。
指差しかけて固まったまま、オーリは顔面のデッサンを目一杯崩して口をかっ開く。
――何せそこにいたのは、最近顔を合わせていなかった、そしてどうにもこうにも予想外の人間だったもので。
「あ、あれは臨時雇いのバイトですよ。同じ年頃の子供は珍しいですかな?」
尋常ならざるオーリの反応に若干引きながら、一応笑顔を作って答えるファーラムが、数メートルミル離れた木の下、先程猫車で運ばれていた肥料の塊をパキョンパキョンと割り続けている少年に視線を向けた。
「訳あって、少々人手が不足していましてね。本当は同僚の紹介で別の子供が入るはずだったのですが、急に体調を崩したとかで代わりにあの子を紹介されましてな。
しかし、随分と作業が早い……あの大箱二つで一日はかかると思っていたんだが」
不思議そうに呟くファーラムの言葉を、オーリはもう聞いていなかった。
少年の容姿は、ぼさついた枯れ葉色の頭髪に、簡素なシャツとズボン。農園からの貸出品らしき麦藁帽子を小さな頭に無理やり被せ、黙々と座って作業に勤しむ――振りをしている。
オーリには、脇目も振らず労働に勤しんでいるように見える少年が、その実全身全霊で意識をこちらへ向けていることが分かっていた。
石ころのような灰色の、それなりに固さのありそうな肥料塊が、少年が金属のヘラのようなものでコツンと一つ叩くと同時に、さらさらと粉になって木箱の中へと落ちていく。しかも見つめているうちにだんだん速度が上がってきて、しまいには掴むと同時に握り潰しているようにすら見えてきた。
――これは、『はよ声かけろやドン亀』と思われている……!
「あのちょっと良いかなアーシャ、ファーラムさん! 私あの子と話してみたいんだけど!」
わんこそばのように肥料塊を砕くラトニの姿から滲み始めた言い知れない苛立ちと威圧感を感じて戦慄し、オーリは慌てて大人たちに訴えると、答えを待たずに彼の元へと駆け寄った。
どんなコネでこんな所にしれっと混ざっているのか知らないが、ここで彼の目的を読み違えた場合、恐らく非常に根に持たれる。
オーリの接近に初めて気付いたような顔で振り向いたラトニは、やっぱり鼻から上をしっかり前髪で隠し、オーリに向かって無表情でぺこりと頭を下げてみせた。
「駆け寄るのが遅いですよ。個人的には見つけた瞬間ダッシュ&ハグに踏み切って欲しいものです」
「無茶を仰る! 私にも立場ってものがあるんだよ!」
初めましての挨拶をする振りで、口だけ動かしていつも通りの言葉をかけてきたラトニに、オーリは力一杯抗議した。
「会いたくても会えない現状に耐え切れず、自らあなたの元までやって来た健気な僕にその言い草ですか。立場と僕とどっちが大事なんです」
「面倒くさい彼女みたいなこと言い出したな。と言うか、キミなんでここにいるの。そんなコネあったっけ?」
「果物を報酬にしてバイトに来るはずだったガキ大将が僕の知人だったので、締め上げて替わってもらいました」
「えげつねェ……しかも何故私が今日ここに来ると知って…………クチバシ飛ばしてたのか!」
「正解です」
ひそひそと言い合う二人の傍に、大人二人がやって来る。
会話の内容までは聞こえなかったのだろう、特に不審に思うこともない様子で、アーシャが「仲良くなったのですか?」とオーリに笑いかけてきた。
「そ、そうなの! ねえアーシャ、私もう少しこの子と話してみたいな! 同じ年頃の男の子なんて初めて会うもの!」
「え、しかしお嬢様……」
「ああ、そういうことなら、見学にその子を同行させては如何ですかな?」
上級貴族のお嬢様を庶民の少年と親しくさせても良いのか戸惑ったのだろう、ほんのりと眉をひそめるアーシャには気付かず、朗らかに提案したのはファーラムだった。
――かかった!
心の中で安堵しながら、オーリは「良いの?」と顔を輝かせてみせる。
「ええ、言いつけた仕事はほとんど終わっているようですし、子供一人抜けたところで構いませんよ。しかし、意外と力が強いんだな……臨時雇いなのが惜しい……」
肥料の粉が溜まった木箱を見てファーラムが首を傾げている隙に、ラトニが手にしていた肥料塊をオーリにそっと掲げてみせる。
ヘラで砕くまでもなく、ただ持っていただけの肥料塊はピシリと音を立てて砕け、細かな砂となって木箱に流れ落ちた。
どんな魔術を使ったのだろうとあれこれ考えを巡らせるオーリに、ファーラムが向き直る。
薄く汗を掻いた額を拭き、彼は大きな腹を揺らして笑いかけた。
「ではリア様、アーシャ殿。わたしはそろそろ仕事に戻らねばなりませんが、何ぞあった時はその子をわたしの所まで走らせてください。――おい、呉々も失礼のないようにするんだぞ」
「分かりました。精一杯供を務めさせて頂きます」
オーリが貴族であると知らないファーラムにとっては、ラトニの身分よりオーリの機嫌を取る方が優先される。
最後の一言はラトニに向けて、ファーラムはオーリとアーシャに挨拶をすると、急ぎ足で来た道を戻っていった。
後には、並んで佇む子供二人と、反対するタイミングを完全に失って困り果てるアーシャが残された。
(お忍びにして本当に良かった……。同行者がアーシャだけだからごり押しできた我が儘だ)
もしもオーリがブランジュード家の令嬢だと知っていれば、ファーラムは絶対にラトニを供に付けたりしなかっただろう。アーシャは何だかんだ甘いから、オーリが無邪気に強請れば大抵のことは折れてくれる。
現にアーシャは、「初めてのお友達」にウキウキしている(ように見える)オーリに、水を差さないことを選んだようだった。
溜め息一つで割り切って、オーリに優しく言い聞かせる。
「……分かりました。良いですか、お嬢様。その子と仲良くするのは構いませんが、はしゃいでわたくしの目の届かない所に行ったりしてはいけませんよ」
「はーい」
ラトニと繋いだ手を高く挙げて、オーリは元気良く返事をした。
ラトニが行儀良くアーシャに頭を下げて、「僕もちゃんと彼女を見ておきます」と言った。