100:種無し西瓜は何処に行った?
「――あれ?」
花飾りのついた可愛らしい靴に包まれた足が止まり、丁寧にケアをされた濃茶の髪が、首を傾げた拍子にさらりと揺れる。
青灰色の瞳を瞬かせ、オーリは先日まで確かに存在しなかったはずの階段を見上げた。
否、正確には「見つけることの出来なかった階段」だ。
三カ月ほど前、元旦の日に一度だけ見つけ、翌日には消えてしまった小塔への道――露草色の瞳に神秘的な美貌(ただし言動はいまいち俗物だった)を持つ、少女の姿をした精霊の元へと続く階段が、確かにそこに姿を現していた。
「ルシア様……?」
階段を見上げて眉を寄せ、オーリはその先に住まう精霊の名をぽつりと呟く。
年明けの頃、あれほど探しても見つけられなかったこの階段が、今唐突に現れる意味が分からない。
知らぬ顔をすべきかと迷ったが、次に戻ってきた時、再び階段が消えていたらと思うと踏ん切れなかった。
もしや、ルシアに何かあったのだろうか。疑問と懸念に背中を押されるようにそっと手を伸ばし、けれど彼女の手は空気のようにするりと踏み段を突き抜けた。
――え?
ぱちりと目を瞬いて、今度は足を踏み出してみる。
一つ目の段に乗せようとした足は、まるでホログラムででもあるかのようにするりと段を通り抜け、こつんと床に着地した。
「道は見えてるけど、登ることは出来ないってこと……?」
ならばこの階段は、何のために自分の前に姿を見せたのか。
不可思議な現象に顔を顰め、オーリはしばし、遥か上の方を睨み付けていた。
※※※
冬もほぼ終えたブランジュード邸は、今日も主人夫婦を迎えることが出来ないままだ。
代わりにあるのは留守を守って忙しく立ち働く使用人たちと、唯一の子供たる少女の存在。
あの遺跡と翠月の一夜から、既に三週間以上が経過していた。
今はウヅの月――日本で言う四月の上旬に当たるが、フヴィシュナの春は日本のそれよりも幾分遅い。漸う花も綻び始めた外の気温はまだ低いものの、煉瓦造りの大きな暖炉に火を入れる回数はこれからどんどん減っていくだろう。
窓外を深と暗い闇に包まれた静かな夜、どこまでも体が沈み込んでいきそうに大きなソファとクッションに埋もれながら、特上のドレスに使われる薄布の如くひらりひらりと踊るオレンジ色の炎と、ぱちぱち爆ぜる金色の火花を眺めてのんびりまったり過ごすのは、まこと心の痛まない贅沢だった。
更に贅沢を言うなら、是非長い串にマシュマロを刺して、あの火で焼いたりしたかった。
この国には存在しないらしいマシュマロを、いずれどうにかして入手したいものである。手に入ったらどうしよう。焼いてビスケットに挟むのは鉄板として、溶かしたチョコレートをフォンデュみたいにつけて食べるのも良いし、ホットドリンクに溶かして飲むのも――
「――では、オーリリア様。短い間ですが、お世話になりました。儂はこのウヅの月が終わる前に、シェパの街を出立する予定です」
低いしわがれた、けれど落ち着いた威厳のある声を受けて、オーリは完全に欲望へと飛んでいた思考を引きずり戻した。
今にもウェヘヘヘと怪しげに笑い出さんばかりに浮いていた意識を、はっと覚醒させる。
「はい、先生。三カ月間、色んなお話をありがとうございました。どうかこれからもご健勝で、先生の旅路に幸あらんことを祈ります」
何事もなかったかのようにキリッとした顔で挨拶を返したが、テーブルの傍に控えるアーシャと対面に座する老人には完全にバレていた。
オーリの視界内に入っていないアーシャは、いつもの傍付き侍女らしい微笑の下でグッと拳を握り締め、「うちのお嬢様ほんとアホ可愛い」と悶える体勢。
白髪混じりの小柄な老人の方は、もっと直接的に孫でも見るかの如くほっこりと眦を下げている。
この老人は使用人ではない。以前、一般的な冒険者に話を聞いてみたいと言ったオーリの言葉を受けて呼ばれた、期間限定の「お話相手」だった。
現役冒険者だが、御年八十にも届こうかという、非常に元気なご老人である。
年が明けてすぐにブランジュード家からの依頼を受け、彼は冬の終わりまで定期的に屋敷を訪問する契約を交わしていた。
雪と寒さで移動に適さない冬の間だけ、一つの街に留まって期間限定の依頼を受ける冒険者は珍しくない。
老人もまたその一人で、長らく冒険者を続けていることと、幾人かの貴族や学生に対して似たような仕事をしてきた経験を買われたらしい。
流石に侯爵家に招くのならば、腕が良くても粗暴だったり、貴族に対する礼儀作法を習得していなかったりする人間は呼べないだろう。
その点この老人には歳相応の落ち着きと人生経験があり、潜り抜けてきた冒険の話もスリルと深みに話術の巧みさが加わって、契約の一冬は極めて円滑に過ぎ去っていった。
「でも残念です、先生のお話はとても面白かったので。シェパを出た後は、何処に向かう予定なんですか?」
今日は老冒険者の最後の訪問ということで、一緒に昼食をとっている。
メイドに下げられていく空き皿を見送りながら、オーリは少しだけ眉を下げた。
国を越えて旅をする現役冒険者と、幼い貴族令嬢。二度と会えない可能性が高いことを残念だと思う程度には、オーリは彼に懐いていた。
好々爺じみた人格も慕わしかったが、何より老人は異国の出身者で多種の文化に造詣が深く、また短刀術と体術を主に使う腕利きで、一時期どこぞの学校に特別講師として呼ばれたことさえあるそうだ。
興味があるからと強請って触りだけ教えてもらった体術は、使用人の目さえ無ければもっと踏み込んで教えを受けたいほどのものだった。
音もなく動くメイドたちが、老人の前に紅茶を設置していく。
満腹を理由にデザートを断った老人は、柔らかに表情を緩めながら、考え考え言葉を返してきた。
「当初は南方のロズティーグか、東の新ルシャリ辺りを予定しておりましたが、どうやら先日、きな臭い噂を聞きましたのでな。幸いこれから暖かくなることですし、北の方に抜けてみようかと思っております」
「ええと、ロズティーグって、ザレフ帝国絡みで騒いでる王国でしたっけ。独立を巡って紛争中だとか」
「ええ。先頭に立っていた王族の一人が、最近一気に旗色が悪くなったらしく、今は予断を許されませんな。何やら外国に持っていた後援者の一部と手が切れてしまって、資金調達やザレフとの折衝にも影響が出ているとか」
「へぇ。ロズティーグって、先に独立を果たした新ルシャリとも最近急激に折り合いが悪くなってるって、家庭教師から聞きましたよ。それなら確かに、ロズティーグや新ルシャリには行かない方が良いでしょうね」
同じザレフに独立問題で攻撃を受けている仲なのに、ロズティーグと新ルシャリはいまいち仲が悪いらしい。
ロズティーグも新ルシャリも、ザレフが自国以外の対処に掛かり切っている間に、未だ不安定な国内を取りまとめてザレフに対抗したいのだろう。共通の敵がいるから協力体勢を作ろう、という話で済まないのが国際紛争の難しいところである。
(新ルシャリに至っては、一年前に公王様が死んでから未だに後継が決まってないって言うし。あっちもこっちもガタガタしてるなあ)
デザートのライスプディングをつつきながら、家庭教師に習ったばかりの世界地図を思い浮かべて溜め息をつく。
政情の不安定さは、オーリにとって最大の不安要素だ。何故なら、それは容易く戦争を導く。たとえフヴィシュナが直接戦火に巻き込まれずとも、近隣国で起こった戦は確実に何らかの形で火の粉を飛ばしてくるだろう。
(まあ、フヴィシュナにはエルゼさんとかがいるし。そう簡単に戦争に巻き込まれたりはしないと信じたいけど)
有能で知られるかの公爵家嫡男は、成人もまだの身でありながら、既に国政に関してある程度の実権を握っている。
国王の方にはあまり期待が出来ないが、エルゼがうまいこと手綱をとってくれたら良いなあ、と思いつつ、粘り気のない米で作られた、甘ったるいライスプディングを飲み込んだ。
(ううむ、相変わらずコレジャナイ感がひどいなぁ……。味噌汁と漬け物で炊きたてご飯が食べたい……)
一見すればヨーグルトのような姿だが、ミルクとクリームで煮立てた米は口に含めばシナモンが香り、申し訳程度に加えたベリーが彩りを添える。
とろりと甘いそれは温かく、これがチキンブイヨンやチーズで味付けをされたものであれば好ましいのだがと、オーリはほんのり遠い目をした。
フヴィシュナにおいて、米は主食ではなく野菜の一種である。一度だけ強請って、日本の炊飯通りの手順で鍋炊きしてもらったそれは、調理方法が悪かったのかそれとも単純に品質の差か、米らしい甘みや香りの全く無い、何やら妙にパサパサプチプチした、何かの種のような物体だった。
別に、食材の味や品質の違いについて煩くこき下ろすつもりはない。ジャポニカ米だろうがインディカ米だろうが、それぞれに合った調理法というものがあり発生起源があり、その性質にも長短があるものだ。
ライスコロッケもライスサラダも、食卓に出てくれば美味しく食す。
それでも、甘い米だけは未だに慣れなかった。牡丹餅と似たようなものだと言い聞かせながら食べてはいるが、毎度果てしない違和感に襲われて仕方がないのだ。
砂時計を使って紅茶の蒸らし時間を計っていたアーシャが、入室してきたメイドに手振りで呼ばれて離れていく。
注がれた紅茶に砂糖を入れながら、老冒険者が潜めた声で問うてきた。
「浮かないお顔をしておられますよ。オーリリア様は、いくさごとはお嫌いですかな?」
「普通はそうだと思うんですけど……」
「女性は多く血を厭いましょうが、男はそうとは言っていられない者も多いのですよ。何せ、騎士や兵士として戦場で手柄を立てれば、立身出世の大きな足掛かりにもなります。戦に勝利して支配国となれれば、国力も増加する」
「それで民の生命力削られてちゃ、元も子もないでしょうに」
国が興る時と国が滅ぶ時は、平時の商売が馬鹿馬鹿しくなるほどの莫大な金が動く。
成程、自身の身を立てる空前絶後の好機としてそれを歓迎する者もいるだろう――けれど一方で、その金を捻出するために日々の糧すら吸い上げられ、搾取される者が幾万といることも忘れてはならない。
何らの権限も持たぬ身とは言え、オーリは爵位持つ家の嫡子だ。
一番に慮るべきは国と民の安寧。戦争なんて博打みたいな真似をして亡国の危機に晒されるより、明日も一年後も変わらない平穏を約束された方が遥かに嬉しいに決まっている。
全然好みじゃないライスプディングを、表情を動かさないようにもう一口。
全然好みじゃないけれど、こんなものすら食べられない環境なんて、考えただけでぞっとする。
「それに被支配国なんて作ったって、相手がいつまでも弱者の立場でいてくれるとは限りませんよ。実際ザレフは、そうしてロズティーグや新ルシャリに敵対されてるんでしょう」
「はっはっはっ、オーリリア様は国の在りかたについて、随分と明確なビジョンを持っていらっしゃる。もしも男子であったなら、きっと良い文官になられたでしょうな」
アーシャが戻ってきたのを合図にして、興味深そうに耳を傾けていた老人がいつもの声量で笑い、それで話はおしまいになった。
あくまで一時雇いに過ぎない冒険者と貴族令嬢が二人、声高に他国の国政批判など行うのは宜しくない。
双方共に素知らぬ顔で自分の皿に向き直ったと同時に、アーシャが「お嬢様」と声をかけてきた。
「ご歓談中に申し訳ございません。旦那様の使いから伝言を預かりました。明日の予定について、だそうです」
「お父様から?」
スプーンを咥えたまま、オーリはきょとんとアーシャを見上げる。
また帰宅の予告だろうか。遺跡事件以降はこっそり脱走することもなく屋敷で大人しくしているし、叱責を受ける心当たりなどはない。
顔に疑問符を浮かべているオーリに、アーシャは微笑んでこう告げた。
「以前よりお嬢様が見たがっていた、ブランジュード家直轄の農園を訪問する許可を頂けました。護衛はきちんと連れていくようにとのことです」
「農園!?」
ぱあっと顔を輝かせて、オーリはスプーンを放り出した。
これまで農村になら「天通鳥」として訪問できても、貴族直轄である農園には近付けなかったのだ。
加えて今回は、初めて父母の付き添い無しで外出を許されたことになる。
それは是非とも楽しまなければと、興奮に赤くなった顔で食いつくように椅子から立ち上がった。
「アーシャ、アーシャ、それなら私、お忍びが良い! どっかお金持ちの子供が見学に来たって感じで!」
「お、お忍び? いえ、でもお嬢様、護衛は同行させるのが旦那様からの指示でして」
「アーシャには付き添ってもらうけど、護衛兵には入り口付近で待っててもらえば良いよ! 農園にも警備はいるでしょ?
この前お父様が言ってたよ、農園に新しい作物を入れたから、しばらく目が離せないって。雇い主の娘がぞろぞろ護衛兵引き連れて歩き回ったんじゃ、農園の仕事が滞るもの。色々見て回れないよ!」
「そ、それはそうですが……」
「そうだよ! それに――」
畳みかけるオーリに、アーシャは目を白黒させる。
オーリの我儘を聞いてやりたい思いと父の命令の板挟みになっているようだが、この分なら押し切れそうだと考えて、オーリは説得する言葉に力を込めた。
「オーリリア様はなかなか口が達者なようですな。好奇心も旺盛で良いことです」
呑気に笑う老冒険者に、アーシャが額を押さえた。
他人事だと思って、と言いたげな侍女に、老人はまた声を上げて笑った。