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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・閑話編
103/176

100話記念番外:風切り羽は除かれない(後)

 白いシャツの上にライトグレーの上着を羽織り、やや大きめの帽子を被る。

 無駄に出来の良い顔は隠しようもないが、現地に着いたら魔術で幻影でも被せれば良いだろう。

 シンプルだが上質な衣装は、一見すればちょっと裕福な町民レベルの代物だ。今回においては、一目で特権階級と知られる方が都合が悪い。


 玄関に出れば、既に馬車の用意が出来ていた。

 二頭の馬が引いているのは、貴族邸を訪問する時のものより随分と簡素な、飾り気のない箱である。するりと乗り込んだオラトリエルに従って、執事も中に入ってきた。


「五番通りまでで結構です。人通りの少ない所で下ろしてください」


 御者に命じたオラトリエルに、向かいに座った執事が眉根を寄せた。


「あそこはあまり治安が宜しくありません。工房の前までお送り致します」

「結構です。監査と言ったでしょう」


 苦言を呈した執事に、オラトリエルはあっさりと断った。


 治安が悪いと言ったとて、そこらのごろつきや犯罪者程度、オラトリエル相手に傷一つ付けることは出来ないだろう。

 それよりも、正面から馬車で工房に乗り付けたりして、後ろ暗いことを隠す時間でも与えてしまう方が問題だ。


「あの工房で雇っている従業員は、ただでさえ搾取されやすい立場の人々です。不心得者の発生を未然に防ぐためにも、『突発的に監査を行うオーナー』の存在は植え付けておいた方が良い」


 フヴィシュナではあまり見られなかった様々な事業や事業形態は、前世でオラトリエルが焦がれた少女から教えられた知識を元に生み出している。

 中でも今回手掛けた織物事業は、寡婦やシングルマザー、身寄りのない独身女性や老女など、職を求める女性たちの救済措置として発起したものだ。

 彼女たちの公的立場の弱さを知っているからこそ、執事も強くは逆らえない。オラトリエル自身が超級の魔術師であることも手伝って渋々承諾すると、ようやく馬車が動き出した。


 およそ十歳の頃から領地運営の一端に参加し、災害対策や地域産業の振興など画期的なアイデアを次々打ち出してきたオラトリエル・フォン・ブランジュードは、同時に女性や孤児という社会的弱者に対する思慮の深さでも広く知られていた。

 殊に医療師や薬師の育成には熱心で、貧民の妊婦でも入れる清潔な助産院を作った時には、貴族たちの間では賛否両論あったものである。


 オラトリエルとしては、運営に金を出してくれるわけでもない部外者共に否定されようが馬鹿にされようが一向構わないのだが、あれで一気に「女性に甘い」という噂が広がったのだけは嬉しくなかった。

 何せ、ただでさえ父の知り合いや遠縁の貴族から釣り書きが押し寄せていたというのに、あの件から勝手に結婚に乗り気になる令嬢がドカンと増えたのだ。


 氷の彫刻の如き美青年が女性に甘いと聞いて、恋愛小説のようなロマンスでも期待したのだろう、と友人である某公爵家子息が言っていたが、全く迷惑な話だと思う。


 社会的弱者に優しいのは、その中に『彼女』がいるかも知れないからだ。

 妊婦を保護するような施策を押し通したのは、その誰かが『彼女』を生んでくれるかも知れないからだ。


 弱者に優しいと言われたって、慈悲深いと称賛されたって、本当はただ、自分の目的のために最も合理的だと考えられる手段を、機械的に実行しているに過ぎない。

 救い上げ続けた人々に対して何も思うところがないわけではないが、それでもやっぱり彼らは、いるかも知れない『たった一人』のついででしかなくて。


「オラトリエル様、監査の終了はいつ頃になるご予定ですか?」

「とりあえずは三時間というところでしょうかね」

「では、もしも早めに終わったなら連絡を下さいませ。呉々も、お一人で歩いて帰るなどということはなさいませんよう」

「さあ、どうしましょうか。時間が空くなら視察に向かいたい場所は他にもあるので」

「今夜は旦那様がお戻りだそうです。ご夕食を共にしたいとの仰せでしたので、遅れれば厄介なことになるかと」

「……どうせ明後日の見合いの話でしょう。ユトリロ、いい加減諦めてくれるよう、あなたの方から言ってくれませんか」

「申し訳ありませんが、不可能かと」


 儀礼的に頭を下げる執事に、オラトリエルは舌打ちしたい気持ちを堪えた。


 婚約だの、結婚だの。貴族の義務だけでないその催促の真意に気付いていないのは父とオラトリエル以外の全員で、父の述べる言葉を額面通りに受け取っているのだろう執事の陳情すら、不穏極まりない憶測をぶち撒けるわけにもいかないオラトリエルにとっては鬱陶しくて仕方がない。


 大体、『蒼柩』のことを広めるわけにはいかないと分かり切っているにも拘わらず、ああも次々と相手を紹介してくること自体がおかしいのだ。

 万一結婚なんてしたら、妻となった人間とて、出産後にどうされるか分かったものではない。


(その辺については、父上の良心は全く信頼できないんですよね……)


 オラトリエル自身、『彼女』以外に心を砕く気は端からない。愛する努力をする気もなく、父の思惑から守ってやる気すらない妻なんて、どう考えても迎えない方が相手のためだろう。


 がたがたと揺れる馬車の中、物言いたげにこちらを見つめる執事の視線を感じながら、オラトリエルはぼんやりと外を眺める。

 露店や商店、快活な呼び込みの声に、道を歩く人々の姿。

 大した感慨を覚えることもなくそれらを視界に入れ続けて――そして次の瞬間、カッと目を見開いた。


「ハンス! 止めてください!」


 未だかつてない大声で叫んだオラトリエルに、ぎょっとした御者が反射で手綱を目一杯引いた。


 さして速度を出していなかった馬車は、それでも急停止の衝撃に激しく揺れ、地面を蹴る馬の足音と嘶きが響く。

 一体何事かと目を見開く執事が口を開ける前に、オラトリエルは馬車が完全に止まるのも待たず、ドアを叩き開けていた。


「オラトリエル様っ!?」


 悲鳴のような呼び声にも耳を貸さずに、一瞬の躊躇もなく馬車を飛び出す。

 先程人混みの向こうにちらりと見えた顔を求めて、あちこち体をぶつけるのも構わず、驚く通行人たちの間を全速力で駆け抜けた。


 探していた人物はそこにいた。

 僅か十数メートルミル先、薬屋らしき一軒の大店の前。軽い足取りで歩を進める一人の少女が、鼻歌でも歌いそうに元気な様子で存在していた。


 ――あれ、は。


 オラトリエルの双眸が、大きく見開かれる。


 それは、自分とほとんど歳の変わらないだろう、しなやかな体躯の少女だった。


 濃茶の髪に、綺麗に澄んだ青灰色の瞳。一目で目を引くほどの美貌ではないが、愛嬌と朗らかさの目立つ整った相貌。


 かつては穏和そうに少し垂れていた目は、今はぱっちりと大きいものになっていた。

 健康的な白さを保つ肌や、弾けんばかりに快活な表情は、彼女が真っ直ぐに人生を歩んでいる証明だ。

 苦労を知らない特権階級に生まれたわけではない代わりに、先の保証など何一つない人生を、それでも精一杯に力を尽くし謳歌する、下層階級特有の強さと輝きがそこにはあった。


 どうやら今生の彼女には、東の血が入っていないらしい。

 人種的な特徴の変化した顔は大分面変わりしていたけれど、一目で分かるくらいには、彼女は自分の焦がれた『彼女』のままだった。


「……――あ――、」

「オーリ!」


 一体何と声をかければ良いのか。

 喉を震わせた直後にそのことに気付き、今の自分は彼女の名前も知らないことを思い出して、オラトリエルの動きが止まる。

 それに重なるように耳を叩いた別の声に、彼ははっと視線を動かした。


 道の向こうで、少女が足を止めていた。

 きょとんと大きな青灰色の瞳を瞬いて、彼女はオラトリエルではなく、自身の背後を振り返る。

 もう一度「オーリ!」と呼び声がして、見知らぬ男が一人、彼女の腕を掴んでいた。


「――は……」


 茫然と瞠目して、オラトリエルが息を呑む。


 オーリと呼ばれた少女の腕を掴んだのは、彼女よりほんの少し年上だろう、体格の良い吊り目の青年だった。

 走ってきたためか、赤みの強い焦げ茶の髪を僅かに乱し、青年は紅潮した顔で少女を見つめていた。


「ゼファカじゃない。何か用?」


 あっさりと相手の名を呼ぶ姿からは、二人がそれなりに親しい仲であると窺える。

 青年はぐっと息を呑んで、店の前であることも構わず少女に食ってかかった。


「――何か、じゃねぇよ! お前、今度国を離れるって本当なのか!?」

「ジョルジオさんから聞いたの? まあ、うん、そうだね。色々準備もあるから、来年の話になるとは思うけど」

「な、んだよそれ……! 何でお前がそんなこと! お前、ジョルジオじいさんの一番弟子なんだろ? 国の移動なんて危険な長旅しなくても、この街でずっと薬師やれば良いじゃねーか!」

「一番弟子ったって、弟子は私しかいないんだけど……。

 そのジョルジオさんが、研究のために行きたい国があるって言い出したんだよ。アウグニス神国の大図書館ほどじゃないけど、一般人も入れるでっかい図書館があるとかでさ。何年か滞在して、現地の薬師や医療師と情報交換したいんだって」


 けろりと答える少女に、青年はぎゅっと眉根を寄せた。今にも泣きそうなその顔を見て、オラトリエルの背中に不吉な予感が走り抜ける。



(――待て、)



「い、嫌だ! 行くなよ!」


 表情を凍らせたオラトリエルにも気付かず、少女だけを見つめて青年が叫ぶ。なりふり構わず、少女の肩を両手で掴んで訴える。



(――やめろ、)



「嫌だって言われても。じゃあゼファカが資料頂戴よ。研究書レベルの分厚いやつ」

「そ、それは無理だけど……!」


 呆れたように告げる少女は、出来ない要求だと分かって突き放しているのだろう。

 ゼファカの顔が情けなく歪み、唇を強く噛み締める。



(――お前は、)


 オラトリエルの足が無意識に動く。急激に冷えていく感情が枯れ葉色の瞳を凍らせて、言い合う二人を無機質に映し出した。



「オレは、ただ――」


 青年が再び口を開く。

 真っ赤な顔で少女を睨み付け、それでもその目にだけは焦がれるような熱を込めて、決定的な言葉を紡いだ。




 ――お前はその人に、何を言う気だ……!




「ただお前が、オーリが好きなんだよ……! 余所の国になんて行くな! 絶対幸せにするから、オレの嫁になってくれ――!!」



 その告白を聞いた瞬間、全てが崩れ落ちたような気がしたのは、決してただの錯覚ではなかったのだろうと思う。


 駆け寄れなかったオラトリエルの足が、絶望と衝撃にふらりとよろめく。

 極限まで見開いた枯れ葉色の瞳が、たちまちぽうと頬を赤く染め、目を瞬かせて相手を見返す少女の姿を愕然と見ていた。


 あの青年が何を言ったのか、理解したくない。少女の唇から出るだろう答えを、耳に入れたくない。


 ざわり、と不穏に揺らいだ魔力の薄暗さを、察知できる者はここにはいない。


 ただ、彼女に触れる男の手がひどく目障りだった。

 照準を男に合わせ、有り余るオラトリエルの魔力が、無意識に強大な魔術を紡いでいく。

 ずっと焦がれ続けていた人が目の前で奪い去られようとする悪夢のような光景を、力ずくで消してしまおうと。


 少女の顔が、ゆるゆると笑顔を形作った。それこそが確かな恋心を示しているようで、オラトリエルは恐ろしくなる。


 少女の両手が、青年の両手を握り締めた。

 桃色の唇が開いて、日差しのように柔らかな声が答えを紡ぐ――――




「お友達から始めましょう!」

「何それ体の良いお断り文句!? オレら一応幼馴染なんだけどこれ以上何をどう始めようってんの!?」




 青年が絶叫すると同時に、一瞬にして辺りで爆笑が弾けた。



 ……………………エッ?



 思わず硬直したオラトリエルの周りでは、路上で始まった恋愛劇をいつの間にやらわくわく鑑賞していた野次馬たちが、好き勝手に感想を言ったり青年を励ましたりし始めている。


「ぎゃーっはっははははははは! おいおい清々しいまでの振られっぷりだぞサイニーズんちの息子ー!」

「いやぁ悪いけどねぇ、あたしゃこうなると思ってたんだよぉ。オーリちゃんオトすには、ゼファカはちぃっと根性が足りないっていうかねぇ」

「あらやだあたしはゼファカ君良いと思ってたわよ! ちょっと抜けてるけどそこが可愛いし一本気だし、ウチの旦那の若い頃にそっくりでさぁ!」

「何だか知らんけど、落ち込むなよ兄ちゃん! 世の中に女は一人じゃないぜ!」

「おいゼファカ振られたぞ。賭け金寄越せ」

「マジでか……あいつ告白する度胸あったのか……。ヘタレの癖に妙なとこで根性出しやがって、大損じゃねぇかクソが……」

「大穴狙いで成就に賭けたのに……やっぱり奇跡は起きないから奇跡なんだな……」

「そこ聞こえてんぞ一応仮にも友人共ォォォ! しかもなにお前らオレの恋路で賭けてやがったの!?」


 最早半泣きでツッコミを入れるゼファカの傍ら、少女は「いやーお騒がせしてすみませんねー」と野次馬たちにぺこぺこと頭を下げ、呑気に愛嬌を振り撒いている。

 何やら愉快な喜劇の舞台と化してしまった現場を唖然と見つめて、ぶらりと垂れたオラトリエルの手からあっさり魔術光が消失した。


「――オラトリエル様ー!」


 その時になって、ようやく執事が追いついてきた。

 息を荒げた彼は間抜けな顔で立ち尽くすオラトリエルをぎょっと見て、一体何事が起こったのかと辺りを見回し始める。


 娯楽は歓迎のスタンスなのか、馬鹿笑いや怒鳴り声の響くこの騒動にも、周辺住民たちが文句を言いに来る様子はない。

 わざわざ店から出てきて野次馬に事の顛末を聞く店主などもいたりして、もうしばらく騒ぎは収まりそうもなかった。


「そんでお前は何でだよぉぉぉ! さっき顔赤くしてたじゃねーか! 正直いけるかもと思ってたのに!」

「やー、人生初の告白は嬉し恥ずかしかったけど、それとこれとは別って言うか。結婚とか勢いでするもんじゃないし、正直君への感情、別にラブじゃない」

「十年以上の付き合いだろ!? そろそろ友情が恋に変わっても良い頃じゃね!?」

「永遠の友情って美しいと思う。あと、私じきに国外に出るのに、恋愛とか結婚とかしても意味がないって言うか」

「やっぱりそれが一番の理由か! 仕事とオレとどっちが大事なんだよ!?」

「仕事に決まってんでしょ! 薬学ナメんじゃねェ!」

「ごぶるぶあぁっ! ぶ、ぶったな……!? ジョルジオじいさんそっくりの拳でぶったな……!?」

「十年以上師弟だもん、そりゃ似るさ」

「バカ! バーカ! お前みたいに凶暴な女、嫁に貰いたがるのなんてオレくらいのもんなんだからな! 行き遅れてから後悔しても知らねぇぞ……!」

「鼻水垂らして泣かないでよ、情けないな。じゃあ、愛してるって千回言ってみて?」

「愛してる愛してる愛してる愛してる!」

「申し訳ありませんが本日の受け付けは終了しました。次回の受け付け時期は未定です」

「たった二秒で!? 何なのお前、もう、お前、バカ! オレの何が気に入らないんだよ!」

「いまいちツメが甘いとことか? 罵倒のセンスが十歳から成長してないとことか? 小さい頃からアホっぽくて和む奴だったし、見てる分には面白いんだけど、好みのタイプではないな」

「お前オレのことずっとそんな風に思ってたの!?」

「ほら、君が花屋のエリザちゃんに振られたとことかさあ、ああいう光景間近で見ちゃってるとさあ……」

「何歳の頃の話だよ! あ、あれはその、もう終わった恋の話でさ。今好きなのはお前だけだから……」

「あ、私別に元カノへの嫉妬で素直になれないけど本当はあなたが好きなの系ツンデレ女子じゃないんで。そういう反応要らないからもじもじするの真剣にやめて気持ち悪い」

「ちっくしょおおおお! なんでオレお前のことなんか好きなんだああああ!」


 それでも、十分も経てば飛び交っていた野次や励ましの言葉も止んで、集まっていた群集はやっぱり好き勝手に解散していく。

 散っていく野次馬の向こうで二人はまだ何やら押し問答をしていたけれど、オラトリエルにはもう先程のような激情は湧き上がらなかった。


 て言うか、あの男そろそろマジ泣きするんじゃねぇの、みたいな哀れみが微妙に生まれつつあって、憎悪とか殺意とかを向けてやる気がしない。


「オラトリエル様……? あの、大丈夫ですか……?」


 氷のような無表情で、ただし付き合いの長い者には若干引きつっていると分かる表情で固まるオラトリエルを見かねて、執事が恐る恐る、幾度目かの声をかけてくる。

 オラトリエルはひくりと肩を震わせ、それから心なしか疼痛を覚えてきた頭を振った。


「……大丈夫です、すみません、ユトリロ。

 ――あの、失礼、そこのお嬢さん――」


 後半の言葉を向けた相手は、言わずもがなオーリという名の少女である。

 初めてオラトリエルの存在に気付いた少女は、言い合いをやめてきょとんとした目で彼を見た。


 枯れ葉色と青灰色、二対の視線が虚空で絡み合い、オラトリエルは思わず息を呑み込んだ。

 中途半端に上げかけた手が、行き場を見失ったように停止する。

 どんな言葉をかければ、待ちわびた人に相応しいのか。込み上げる想いにぐっと唇を噛んだと同時、少女がはっと表情を変えた。


「あっ……すみません邪魔でしたね! ほらゼファカ、蹲ってないでそこどいて、公道なんだから! そんなんだからヘタレって言われるんだよ」

「うるせぇぇ……お前なんか剛猿(ゴリラ)女の癖にぃぃ……」

「アイアンクロー食らわせてやろうか」

「はっ!? え、ちょっと待ってくださっ……」


 しくしくと泣き濡れつつ憎まれ口を叩く青年を、愛らしい笑顔とドスのきいた声でズルズル引きずって立ち去ろうとする少女に、オラトリエルはぎょっとした。

 咄嗟に引き止めようと踏み出しかけた彼に、少女はグッと親指を立て、キラリと歯が光る笑顔で爽やかに言った。


「あ、うちの診療所でも相談受け付けてますよ! 並木通りんとこのジョルジオ・ブルーローズって言ったら分かると思うんで、その店で駄目だったら来てくださいね!」


 オラトリエルの視線が、先程まで彼女たちが背にしていた店に向いた。

 随分と繁盛しているらしいその大きな薬屋は、期間限定のセールスを行っているらしく、入り口に看板を立てていた。




《あの日のフサフサをもう一度! 諦めないあなたに、帽子もカツラも要らない人生を! 〜名高い美髪の国エジアンから、新開発育毛剤仕入れました。数量限定〜》




「……………………………………………………………………」


 凄まじい沈黙が落ちた。

 完全に停止したオラトリエルから、少女と青年は呑気に遠ざかっていく。

 何一つ展開を理解できていない執事の表情が、そろそろ有史以来初めてナマコを見た人類のようなものになりつつあった。


 ――唐突に、ブチーン、と何かが切れるような音がした。


 茫然と看板を見つめていたオラトリエルが、俯いてくつくつと笑い出す。

 そんな怪しげな主の姿を一度たりとも見たことのなかった執事が驚愕に仰け反ったのが分かったが、オラトリエルは構わずに、ひたすら地の底から湧き上がるような笑い声を上げ続けた。


「ふ、ふふふふふふ……そうですか、そう来るんですか……。これだけ恋焦がれ待ちわびていたこの僕を綺麗に忘れ去り、あたかも通行人Aのような扱いをした挙げ句、事もあろうに僕をハゲだと思ったんですか……。

 ふふふふふふ、いい度胸です。ええ、ええ、あなたが一筋縄でいかない人であることを忘れていた僕が悪いんです。少しでも分かりやすいようにと、髪も目も当時と全く同じ色に揃えていた僕の健気な努力を踏みにじりやがって、そっちがその気ならこっちだって容赦なんかしてやるものか」

「お、オラトリエル様……!?」


 悲鳴のように叫ぶ執事の声を最後に、身を翻したオラトリエルは猛ダッシュで少女を追いかけた。

 被っていた帽子が吹き飛ぶのも構わず突っ走り、凄まじい美貌をまともに目撃してしまった通行人たちが驚愕に口をかっ開くのも無視して、まだ何やら口喧嘩をしながら歩いていた少女と青年に追いつくと、飛びつくようにして少女の腕をわし掴む。

 そしてびくっとこちらを振り向いた少女の瞳に自分の顔が映った瞬間、彼は硝子玉のような水飛沫を大量に飛び散らせ、一瞬の躊躇もなく転移魔術を発動した。


「ええええええいきなり何すんのこの人おぉぉぉぉぉ!!?」

「ぎゃああああああオーリいぃぃぃぃぃ!!?」

「オラトリエル様あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」


 三者三様の絶叫が響く中、オラトリエルは少女を抱え込み、問答無用でその場から姿を消した。


 後には、目の前で何が起こったのか何一つ分からずひたすら青い顔で少女の名を絶叫し続ける青年と、青年より更に血の気が引いて最早土気色になった顔でオラトリエルの名を絶叫し続ける老人とが、仲良く混乱の渦中に取り残されていた。




※※※




「何なの一体何が起きたの!? 言っとくけどうちの診療所は身の代金取れるほど儲かってないからね!?」


 少女諸共シェパの街を見下ろす高台に転移してきたオラトリエルは、建物に遮られることなく吹き抜ける風を全身に感じるや否や、勢いよく手を振り払われた。


 本当は放してやるつもりなどなかったのだが、予想以上に強い力に、少女が先程の青年に剛猿(ゴリラ)と呼ばれていたことを思い出す。

 いきなり誘拐された挙げ句、転移魔術まで使われたとあっては警戒するのも当然で、少女は毛を逆立てた猫のように飛びすさって威嚇した。


 危害は加えぬというように、オラトリエルはゆっくりと両手を挙げてみせる。

 同時に万一にも逃げられないよう、視認できないほど小さな水の粒子を、少女の背後にぐるりと巡らせた。


「――名前を、聞いても良いですか」

「――は?」


 こんな人けのない場所で一体何を要求されるのかと、ぐるぐる獣じみた仕草で唸り声を出していた少女は、オラトリエルの第一声に意表を突かれたように間抜けな声を上げた。


 一気に跳ね上がったトーンが、呆気にとられた彼女の心情を如実に表している。

 弁解も説得も全て後回しにして、オラトリエルはまず礼儀に従って自分から名乗りを上げることにした。


「僕の名はオラト……いえ、そうですね、ラトニと呼んでください。仕事は、管理職のようなことをやっています。あなたは?」


 間違ってはいないが正確でもない自己紹介をしてから再度問いかけると、少女が困惑したように眉根を寄せるのが分かった。


 とは言え彼女は基本的に人が好いらしく、今にも飛びかかってきそうな姿勢をゆっくりと解除しながら、如何にも怪しいオラトリエルに対して素直に名乗りを返してくれる。


「……オーリですよ。しがない薬師の弟子です」

「そうですか。好きです、オーリさん」

「えっ、すいません」

「こん畜生が!」


 見事な即答だった。自己紹介から三十秒でぶっ放した早撃ちのような告白に対し、これまた考える間もなくお断りの文句を叩き返してきた少女に、オラトリエルは思わず膝を折って力の限り地面を殴りつける。


 自慢じゃないけどオラトリエルの愛の告白なんて、実家の領地全部明け渡しても良いから是非下さいと縋ってくる相手は掃いて捨てるほどいるのである。

 言い換えればそれはまあ要するに婚姻の申し出というわけだが、間近に迫る絶世の美貌にグラリともせず、タップダンスを始めた犬でも見るかの如く奇異な目を向けてきた人生初めての異性が、他ならぬ生涯唯一と決めた想い人であるというのは実に腹立たしいことこの上なかった。


 うっかりポロリと零れた口汚い本音は、オラトリエルの友人や使用人が聞いたら一瞬で白目を剥いたのちオラトリエルの正気を疑うようなものであろう。

 けれど、そんなこと今は心底どうでも良いのだ。

 どう考えても前世の記憶がないとしか思えない薄情な想い人に、彼は飛び起きる勢いで食ってかかった。あまりの剣幕に気圧された少女がヒイッと仰け反る。


「分かってましたよそういう夢も希望もないリアクションが返ってくるって! ちなみにあなた、どっかの山中の小さな里で僕と同じ色を持つ健気で賢くて儚い美少年と過ごしてた記憶とかありませんか!?」

「えっ、一時期師匠と山に住んでたことはあるけど、乾布摩擦代わりに滝行するような元気過ぎるジジババしかいない村だったよ」

「やっぱりですかこの薄情者! でも構いません、生まれる前から愛してました、結婚してください!」

「えっ、重い。どえらい美形なのに胡散臭いナンパみたいなこと言い出した」


 常識的な反応ではあるが、心情的にはあまりの理不尽に殺意が湧くレベルである。

 明らかにドン引きしている少女を全力でひっぱたいてやりたい衝動に駆られたが、オラトリエルはぐっと堪えて身を引いた。


 何度か額を押さえて深呼吸し、気を落ち着かせる。

 それから、恐々と覗き込んでくる少女に、努めて穏やかな声をかけた。


「……会いに行きます」

「んあ?」

「あなたの元まで、会いに行きます。お友達からでも知り合いからでも構わない、何回でも追いかけて、何回でもあなたを探し出して、何回でも告白します」

「……なにキミ、本当に何言ってるの」

「千回でも、一万回でも、信じてくれるまで、あなたに『愛してる』を言い続けます。

 幾度あなたが忘れても構わない。僕はあなたを忘れない」


 さく、と草を踏む音を立てて、オラトリエルが少女に一歩踏み出した。

 雰囲気が変わったことを察したのだろう、少女は動かない。困惑し切ったように眉根を寄せ、うろりと僅かに泳ぐ目でその場に棒立ちになっている。


 少女が逃げないのを確認して、オラトリエルはゆっくりと距離を詰めていく。

 そうっと慎重に両腕を伸ばして、立ち竦む少女を抱き締めた。


「だから――だからあなたはもう、僕を置いて行かないでください」


 ぽつりと落とした呟きは、ほんの微かに湿った響きを帯びていた。


 抱き込まれた瞬間びくりと身じろぎしかけた少女は、その声を聞いて抵抗をやめる。

 どうして自分が逃げる気になれないのかも分からない様子で、ただ動揺を露わにしないよう、ひたすら身を縮こまらせていた。


「……あの、さ。ラトニって言ったっけ。その、本当にキミ、誰なの? 私と、何処で会ったことがあるの?」


 しばしの沈黙の後、胸の中でもぞりと顔を上げて、少女が問いを投げかけてきた。


 その声にはオラトリエルの気のせいでなければ、それまでとは明らかに違う、確かな疑問と興味と罪悪感の気配が込められていて。


 風に靡く少女の濃茶色の頭髪を、オラトリエルの指が優しく梳いた。

 さらりと指通りの良い髪に、今世の彼女も綺麗好きのようだと思って、彼は少女を前にして初めて、春の雪解けのようにほんのりと笑った。


「――次に会ったら、きちんと名乗ります。そうしたら、あなたもフルネームを教えてくださいね。求婚相手の名前も知らないのでは、格好が付かないので」




※※※




 ブランジュード侯爵家にあの出来の良すぎる若様が生まれてから十七年、未だかつてこれほどまでに奇怪な行動を取ったことはないだろうと、老いた執事は確信していた。


 無表情かつ無感動ではあるが、きちんと愛想笑いを作り上げ会話が成立するだけの社交性もあり、同時にひとたび敵と判じた相手には一切の容赦をしない。如何なる難題も解決してしまう聡明さと、決して他者に隙を見せない冷徹さを併せ持つ、ブランジュードの誇る美貌の次代。

 常にその身に纏っている真冬の香気の如き怜悧な雰囲気から氷の貴公子とまで謳われる主が、まさか路上で婦女を誘拐したなどということになったなら、主の将来(と人格)は一体どんな勢いで大崩壊してしまうことか。


 そんな風に戦々恐々としていた執事の元にオラトリエルが戻ってきたのは、オラトリエルが見知らぬ少女と姿を消してから三十分後のことだった。

 転移を使って来たのだろう、馬車の前で待機していた執事の前に一人で出現し、そのまま平然と馬車に乗り込んでいくオラトリエルに、驚愕した執事は慌てて「オラトリエル様!」と声をかけた。


「何処に行っていらしたのですか!? あの少女はどうなさいました!」

「勤めている診療所があるという通りまで送って来ました。早く乗りなさいユトリロ、時間が押しています」

「誰のせいですか! あと三十分お戻りにならなければ、屋敷の者に連絡して少女を保護させるところでしたよ!」


 ドアを閉めるとすぐに動き出した馬車の中、もう十年以上聞いていない叱責の響きを帯びた執事の声を耳に入れながら、窓際に頬杖をついてオラトリエルは笑った。


 初めて目にするその綻ぶような笑顔に、執事が思わず叱責を止める。

 枯れ葉色の双眸を柔らかに緩め、彼はいつもより少しだけ弾んだ声で執事に命じた。


「明後日の見合いですが、やはり行かないことにします」

「は――しかし、旦那様が」

「父上には今夜話を通しておきます」


 力ない反論を断ち切ってきっぱりと言い切る。そこには彼がいつも見合いを嫌がる時に見せる、倦怠と諦念の入り混じった色は何処にも無かった。


「オラトリエル様、まさか……」

「ええ、その通りですよ」


 嫌な予感がして問いかけた執事に、オラトリエルは唇を釣り上げた。

 腹一杯温かいミルクを舐めた猫のような、日溜まりで丸くなって眠る獅子のような、ただどこまでも満ち足りた、幸せそうな笑顔だった。


「父上は僕に結婚して欲しいんですよね? 良いでしょう、受け入れます。ただし彼女以外は認めません。

 彼女が望むなら、図書館建造でも薬師医療師の国家間交流会でも、何でもやってやりますよ。その代わり、彼女は国を出ることも街を出ることもなく、ずっと僕の傍にいてもらいます。

 ――僕は今度こそ最後まで、彼女と同じ時間を生きていく」


 自分に言い聞かせるように宣言するオラトリエルの言葉の意味は、執事には半分ほどしか分からない。

 けれど、そのあまりの嬉しそうな姿に、きっと御者席のハンスも、自分と同じことを感じてしまっているのだろうなと思った。


 確実に波乱が起こるだろう。地方の小さな下級貴族程度ならともかく、オラトリエルの地位や知名度は、彼が誰とも知れぬ庶民の娘を娶ることなど許しはしない。


 けれど、オラトリエルがそうしたいと決めたならば、成せてしまうだろうと思えることもまた事実だ。

 下町に助産院を作った時も、多種の事業を急速に展開していった時もそうだった。

 すり寄ってくる者は多く、つけ込もうとする敵はもっと多く。その全てをあしらい、打ち払い、叩き潰して、オラトリエルは一切の瑕疵無く己の目的を果たしてきた。


 オラトリエルが笑う。

 十七年間、一度も見たことがないほど鮮やかに。冷たく鋭い氷の花が、華やかな春の色に一瞬で染め上げられたかのように。


「――だからあなたたちは、僕を助けてくれますよね?」

『勿論です、我らが若様』


 一秒も迷わず応えた声は、寸分違わず同じ言葉を紡ぎ上げる。


 これまで何一つ自分のものを欲しがらなかった大切な若様が初めて欲したのは、出会ったばかりの少女の心だった。

 世界に対して諦観じみた無関心しか向けず、己の生にすら興味がないかのような顔をしていた彼がこんなに鮮やかに笑う姿を、彼を知る者誰一人、想像さえ出来なかったに違いない。


 きっと世界で唯一、若様の心を掬い上げることが出来る人間なのであろうあの少女の心を、どうやって若様の手に落とすか。少女の出現を疎むだろうあらゆる人間たちを、どうやって味方に取り込むか。

 執事と御者は、それぞれ違う座席の上、同じ奇妙な奇跡に対して、忙しく思考を巡らせ始めた。



《登場人物》

※オーリ・キリエリル

 ふと気がついたら生まれ変わってて幼児の体で何故か捨て子で、何だかんだあって薬師の老人に弟子入りしたのち七歳の頃にシェパに辿り着いた、薬師志望の現十八歳。日本で生きていた記憶はあるが『かつて~』時代の記憶は忘れている。天然ヤンデレフラグクラッシャー。

 既にオラトリエルが内政チートしてしまっているため、ここでは天通鳥とは呼ばれておらず、元気に一般人やっている。オラトリエルのことは全く覚えていないが、記憶のどこかに引っかかるものが確かにあり、不可思議な懐かしさや罪悪感となって彼女の意識を刺激している。

 何やかんやオラトリエルに弱い。そのうちジョルジオに付いて国を出るつもりでいるが、もしも本気で泣いて縋られたりしたら、多分おろおろしながら逆らえない。

 剛猿(ゴリラ)は健在。怪力及び、恒久発動型魔術の加護持ち。



※オラトリエル・フォン・ブランジュード

 ブランジュード侯爵家嫡男。『蒼柩』。

 当年とって十七歳、氷の美貌を持つ才人として有名だが、前世の少年そのままの意識と価値観で生きているため、オーリのこと以外は割と心底どうでも良い。もしも今世の両親から真っ当な愛を受け取って育っていたら、狂人卒業にワンチャンあった。

 存在するかも分からないオーリのために社会的弱者救済策を次々打ち出す、病的なまでに一途な青年。彼が貴族であった場合、父親の外出禁止命令には素直に従うため、庶民なオーリとのエンカウント率は著しく下がる。



※ゼファカ・サイニーズ

 当て馬。元ガキ大将。




※※※


 このあとは多分、少女漫画風の王道身分差ラブコメ展開に突入する。オラトリエルは基本合理的で真面目なので、うまいことくっついた後はオーリに滅茶苦茶貴族教育すると思う。ただし周囲にあくまで結婚を妨害されたりオーリを害されたりしたら、あっさり貴族位捨てて駆け落ちする。

 オーリが他の誰かと結婚するとか街を出るとか言い出したら軟禁くらいはするけど、基本的にオーリの天然ヤンデレフラグクラッシャーが仕事して、ダークエンドフラグは折れていくかと。

 押し倒して無理やり展開とかは無い。そっち関係は双方前世でひでぇ目に遭ってる分潔癖だし、オーリ相手にそういう暴挙に出たくもない、良識と常識に則るヤンデレ。



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