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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・野盗と遺跡編
101/176

99:あいのあかしをくださいな

 鮮やかな翠月の昇る、神秘的な一夜が明けて。

 翌日早速会いに向かった母レクサーヌは体調が優れないとのことで、オーリは母付きの侍女に面会を断られ、ご機嫌伺いは更に三日ほど待つことになってしまった。


 面会だのご機嫌伺いだの、幼い娘が母親に使う言葉としては未だにかなりの違和感を覚えるのだが、それが貴族としての礼節ならば仕方がない。

 同じ屋敷の中で寝起きする機会も少ない身としては、会える時に会っておかねばうっかり顔を忘れてしまいそうだ、と思いながら、オーリは本日ようやく会うことの出来た母の顔を見上げていた。


 紅茶や茶菓子の並んだ小テーブルの向こうにいる、未だ三十路にも届かぬ年頃のレクサーヌは、艶やかなオレンジがかった金髪を持つ貴婦人である。

 もし肖像画を描くことになったとしても、特殊メイク並みに美化することも珍しくないよくある貴族の(涙ぐましい)努力など全く必要がないだろうと思わせるその美貌は、すっと背の伸びた綺麗な姿勢も手伝って、人に溢れた舞踏会場の中などでも充分な存在感があるだろう。


 そんな今生の母は、常に複数の愛人を抱え屋敷の外を遊び歩いていると囁かれる割には、いつも美しい顔を無感動に凍らせ、楽しげな様子を見せたことなど一度もない人だった。

 翠月夜の行方不明事件について述べられたオーリの謝罪を静かに聞き、そして大した興味もなさげに受容して、彼女はあっさりその話を終了させた。


「体調を崩したそうですね。大事はなかったのですか」


 早速本題が終わってしまったが、折角なので何か話題はないものか。

 そんなことを考えて悩んでいたオーリは、ぽつりと落とされた問いかけに驚いて目を瞬いた。


 固めに焼き上げられたケーキの一切れに二杯目の温かいカスタードをかけていたスプーンが、皿とぶつかってカシャンと音を立てる。

 卵とミルクの香りがするカスタードは大分緩くて、少しばかり皿の縁まで飛び散ってしまったようだった。

 ケーキの切り口から見える濃い色のプラムが、とろりと流れ落ちたカスタードに隠されて見えなくなった。


 思わず視線を上げて、オーリは静かにこちらを見下ろすレクサーヌの顔を真っ向から見てしまう。

 この母が父や自分に自ら話題を振ってきたのは、一体いつが最後だっただろうか。


 不意打ちの驚愕に思考が停止し、数秒ぽかんと見上げているうちに、オーリは母の瞳がごく淡い薄氷色をしていることに初めて気付いた。


 この瞳に真っ直ぐ自分が映ったことなど幾度あったものか、とどこかで思う。

 薄氷色の瞳には、今この瞬間にも一切の温もりを感じ取れない。

 記憶も自我もない小さな赤子であった頃、母はほんの少しでも、自分を見てその眦を下げてくれたのだろうか。


「と、くに問題ないです。夜には治りましたし、医療師の先生も診てくれましたから」

「そう。……また胸が痛んだらアーシャに言いなさい。医療師と、わたくしの知己の魔術師を呼べるように手配しておきます」

「ありがとうございます、お母様」


 いつになく続けられる会話に、オーリは大きな目をぱちぱちさせて頷いた。


 健康優良児のオーリは、定型文以外で母に体調を案じる言葉をかけられたことなど一度も無かった。

 今日は本当に何がどうしたのかと思いつつ、言い知れない照れに何となくもじもじ顔を赤くしている娘の様子に気付いているのかいないのか、レクサーヌは「そう」と短く言葉を切った。


 会話が繋げられないのを確認して、オーリはそろそろとケーキを口に入れる。

 ふんだんにプラムを詰め込まれ、カスタードをたっぷり絡めたケーキはとても甘いはずなのに、今回ばかりはまともに味が分からなかった。


 上目遣いにレクサーヌの様子を窺いながらケーキを食すオーリの前で、レクサーヌは黙々と紅茶を飲んでいる。

 ごくん、とケーキの最後の一欠片を飲み込んで、オーリは再び口火を切った。


「あの、お母様も、体調が悪かったと聞いたのですが。もう全快したんですか?」

「ええ」

「屋敷には、まだ居てくれますか?」

「いいえ、今夜にはまた出かけます」

「ゆ、夕食は……」

「夕方には出る予定です」

「あ、そうですか……」


 淡々と返される答えはやっぱり短くて、オーリは居心地悪げに視線を逸らした。


 そう言えば、母と二人切りで茶会なんてするのも初めてだった。

 いまいち交流の少なかった過去を思い返しつつ、手持ち無沙汰をごまかすようにテーブルの上を眺める。

 大皿に並ぶベリーとナバナのマフィンに目移りした後、綺麗に盛り付けられた硝子の器を取ることにした。


 一人用の小さな硝子の深皿に入っているのは、砂糖煮にした冬林檎の上に、白いヨーグルトソースをかけた一品だった。

 ジャムと称するには気が引けるほど形の残った角切りの冬林檎は、食べ応えがありしゃくしゃくと爽やかな食感がして、保存のためか砂糖が濃かったが、その分甘みの少ないヨーグルトソースとよく合って美味しかった。


「わたくしの贈った本は読んでいるかしら?」


 またもやいきなり話を振られて、オーリは「んぐっ!」と喉を詰まらせた。


 壁際に控えていたアーシャが速やかに寄ってきて、オーリの背中を丁寧に撫でる。

 咳き込んで紅茶を飲み干し、ほんの少し眉を顰めてこちらを見ているレクサーヌに一言詫びた。


「はい、読んでます。ええと、この前贈って頂いた中では、『赤い花の見た夢』が特に好きでした。ちょっと謎があって、切なくて」

「そう。あれが読めるなら、もっと難しい本にしても問題なさそうですね」


 オーリに贈られる書物は、既に幼子向けを卒業しつつある。

 先程オーリが挙げた本は、字のサイズは大きいし挿し絵もついているが、ページ数が多く内容の濃度も増しているハードカバーのものだ。

 オーリには書物の適正年齢など分からないし、時折哲学的な小難しい文章が出てきた場合「どこまで理解してみせるのが正しいのか」などと迷ったりもする。とりあえず当面は、別段レクサーヌが違和感も感じていないようなので良しとしていた。


「今度は、もっと年長の子供が読むような本も買ってあげます。読んでみて理解が出来ないようなら、その都度アーシャに言いなさい」

「はい、お母様」

「もうあなたも八つになったのですから、ぬいぐるみ遊びなど子供っぽい真似は控えることです」

「はい……」


 冷ややかに言われて、オーリの視線がうろ、と泳いだ。


(て言っても、贈ってくれるのは父上様なんだけどなぁ……)


 兎に猫に、犬に熊に。父がプレゼントとして贈ってくれるのは大半が様々なぬいぐるみで、オーリ自身ぬいぐるみが好きなこともあって、断る気には正直なれない。

 一方書物は母個人からか、或いは父と母の連名か。やはりレクサーヌはぬいぐるみが嫌いなのだろうかと思いつつ、曖昧な相槌で返答をごまかした。


 レクサーヌの侍女が無音で寄ってきて、空になった女主人のカップに紅茶を注ぐ。

 追加で添えられたレモンの一片をレクサーヌは当たり前のように紅茶に浮かべて、オーリはきっちり主の好みを掌握した侍女のハイスペック振りにひっそり感嘆した。


 ――それから後は、レクサーヌはぷっつりと口を噤んでしまった。

 時折マフィンやクッキーを摘まみながら物憂げに睫毛の陰を落とす母の姿を、オーリはティーポットの後ろからぼんやり眺めていた。




※※※




「お嬢様、この後はお部屋に戻られますか?」


 母の部屋を辞し、廊下を戻っていく道のり。

 オーリの斜め後ろを歩きながら、アーシャがそう問うてきた。


「そうだね、大人しく勉強してることにするよ。宿題沢山出されてるし」

「承知しました。お夕食は、少し遅くした方が宜しいですか?」

「うん、お願い」


 苦笑して頷いたオーリに、アーシャも微笑んで「厨房に伝えておきます」と言った。


 中盤から茶会が終わるまでほとんど会話を膨らませることが出来なかったオーリの腹は、時間を埋めるためにひたすら詰め込んだ菓子と紅茶で一杯だ。

 流石に消化には時間がかかりそうだが、どうせ一人の夕食なら、多少遅れたところで支障はあるまい。

 父は昨日の朝から、早速屋敷を空けてしまっていた。


 ――翠月夜の騒ぎについて、結局誰も罰を受けずに済んだのは本当に幸いだった。

 そうでなければこうしてアーシャが傍を歩いていることもなかっただろうと考えて、オーリはちらりとアーシャを見る。


 翠月夜の翌日、まだ混乱が続いている様を装ってアーシャにべったり張り付き、頼りにしているアピールを父へと示したことが良かったのか、降格もなく傍付きを続行することになったアーシャは、けれど少しだけ過保護になったように思えた。


 恐らく、「著しく体調を崩した」という証言を気にかけているのだろう。

 体調を崩したこと自体は事実であっても、ノヴァの手によるかなり強引な助力によって一応の解決を見たことを知っているオーリとしては、それを正直に言えないことが心苦しい。

 勝手に姿を消して騒ぎを起こした愚行を謝ることすらままならない身としては、とりあえずしばらくの間は、極力アーシャの視界の中で大人しくしているつもりだった。


(イアンさんにも、悪いことしたなぁ……)


 野盗の討伐許可が何故か降りず、増える被害に歯噛みしていたシェパ警備隊の総副隊長は、急遽ねじ込まれた領主の命令にさぞかし頭をかきむしったことだろう。

 野盗事件そのものは既に終息したとは言え、かけた気苦労を思えば頭を下げるしかない。


 イアンはもう、野盗が消えたことを察しただろうか。

 薬師のジョルジオは、壊れた温度計を買い替えられただろうか。


「あの日の翠月夜は、お嬢様に食べて頂きたいと、料理人がご馳走を作っていたのですよ」


 ふと思い出したように、ぽつりとアーシャが言った。

 ふわりと彼女のスカートが靡くたび、微かなラベンダーの香りが香る。香水を変えたのかな、と思っていたオーリは、立ち止まって大きな瞳を瞬き、穏やかな眼差しのアーシャをじっと見上げた。


「特に料理長が張り切って、大きなケーキを焼いておりました。

 きっと、八年前を思い出して浮かれていたのだと思います。お嬢様のお生まれになった夜も、先日のように見事な翠の月が浮かんでおりましたから」


 誕生日のことは初耳だな、と思いながら、オーリは静かに語るアーシャの声を大人しく聞いていた。

 子猫のような目でじっとこちらを見つめている少女の姿に、アーシャの眦が少しだけ柔らかく緩む。


 オーリは翠月夜の翌日、医療師の指示で重い食事を控えていたし、ケーキは保存がきかなくて、オーリを待つことが出来なかった。

 オーリが好きなチョコレートをふんだんに使った贅沢なケーキは全て使用人たちの腹に収まったけれど、小さなお嬢様の取り分まで自分たちの口に入ったことを、喜ぶ者など誰もいなかった。


「お嬢様はわたくしたちに何度も謝ってくださいましたけれど、わたくしたちは本当に、お嬢様に何事もなくて良かったとばかり思っているのですよ。

 ただ、一つだけアーシャのお願いを聞いて頂けるなら――次の翠月夜こそは、どうかこのお屋敷で、料理長のケーキを食べてやってくださいませ」


 きっとその時も、料理長は大きなケーキを作るだろうから、と。


 告げたアーシャのささやかな望みに、オーリは「分かった」と頷いた。


「そうするよ。――ありがとう、アーシャ。料理長たちも」


 返された言葉は簡単だけれど、少女が自分の言葉をしっかり心に刻み込んだことが、アーシャにはきちんと理解できた。


「恐縮でございます」


 だから彼女は、心から嬉しそうに微笑んで。

 それから踵を返した主の後を、再びゆっくりと追って歩き出した。


 午後の日差しが差し込む明るい廊下。

 二つの細い影が、静かに奥へと消えていった。



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