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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・野盗と遺跡編
100/176

98:秘密のお茶会でまた会おう

 離宮の一室にて静かな会談が行われている、丁度同じ頃。

 王都に広大な敷地を持つファルムルカ公爵邸の一室でも、密やかな報告会が行われていた。


「――ですので、例の遺跡の回復には、恐らく年単位の時間を要するものと思われます。シェパ領主、ブランジュード候の出方については未だ不明のままです」


 中肉中背の茶髪の男が、姿勢を正して口答で報告を述べている。


 報告書を指先で捲りながら耳を傾けているのは、この部屋の持ち主である青年だ。

 極めて精悍でありながらも涼しげな顔立ちは、肉体の成長期を終えた大人にはない発展途上のアンバランスさがあり、水仙のような凛とした面差しを引き立てている。芸術品の如く整った眉間に寄った皺だけが、彼の美貌に一筋、懸念の陰を落としていた。


 エイルゼシア・ロウ・ファルムルカ子爵。誉れ高きファルムルカ公爵の嫡男にして、当代フヴィシュナ国王の甥。

 名実ともに若手貴族の頂点に立つ青年――エルゼは、ランプの光を受けて輝く紫銀の髪をさらさらと揺らし、考え深げに一つ頷いてみせる。


「そうか……ご苦労。お前以外の目撃者は、四人だけで間違いないな?」

「はい。遺跡を根城にしていた野盗のうち、八人は死亡を確認。最後の一人も遺跡機能に取り込まれたのちこちらの世界に帰還してこなかったので、そのまま『向こう』で息絶えたのではないかと」


 訓練の行き届いた態度で主の前に控える男が、つい二日前まで野盗の一味として山に潜んでいた人間だなどと、言い当てられる者が何人いることか。


 あの遺跡に、野盗は全部で『十人』いた。

 死して水中に囚われた八人、制御室で試験起動の捨て駒となった一人、そして報告者である彼。


 目立たず、他者と軋轢を生まないように。粗暴な者が多い野盗たちの中でも敢えてそう努めてもいたのは、少々姿が見えなくても怪しまれないようにするためだった。

 不自然でない程度に変装もしていたから、たとえこの先「野盗の一味」として出会ったことのある人間に会ったとしても、気付かれることはまずないだろう。


(遺跡が本格的に動き出す少し前、こそこそ話し合っていた三人――ストラガとウェーザとアリアナの姿を見つけて、サイジェスがぶち切れた時。

 あの崩落に巻き込まれた折りに、うまく身を潜めて単独行動に移れたのは幸いだった)


 少しだけ過去のことを思い返して、間諜であった彼はそう考える。


 高い高い壁と天井に囲まれた薄闇の中、興奮してストラガたちに怒鳴り散らすサイジェスを宥め賺していた時には一体どうしたものかと思ったが、もしもサイジェスを引き止めることに成功していたなら、今度は彼自身が動きを制限されていたに違いない。

 危険を察知して早々に脱出していなければ、彼自身「燃料」として、あのおぞましい緑光の水に取り込まれていただろう。或いは脱出前に遺跡が休眠状態に入ってしまい、転移機能を使えず異相世界に閉じ込められていたか。


 結構な綱渡りであった今回の任務の結果が、少しでも紫銀の主君の役に立つものであれば良いと願う。


「そう言えば、『燃料』として遺跡に取り込まれた人間の条件は分かっているのかい?」

「はい。恐らく、水です。遺跡内の水路に流れる水を飲んだ者から、遺跡に組み込まれる要因を得てしまったものと推測しています」

「ならば魔術師(ノヴァ)は、一人だけ飲料水を外部から手に入れていたんだろうね。目撃者全員始末できる算段が出来ていたからこそ、野盗だろうとロズティーグの工作員だろうと、自分の存在を知られても一向に構わなかったわけか」


 噂通り性格が悪い、とエルゼは苦笑した。

 もしも今回の事件が起きなければ、野盗たちは自分が放った間諜を含め、早晩ノヴァの手で全滅していたかも知れない。話に聞く「暴食漢」ならば、遺跡機能は既に粗方掌握されていたと見て良いだろう。


(しかし、聞けば遺跡でのノヴァは、不気味なほど大人しくしていたらしい。よしんば納得いくほど遺跡の調査が済んでいなかったにせよ、知識欲に天秤が振り切れている男が、『異相世界(エノルメ)の現出』などという希少な機会をみすみす潰させるものなのか?)


 何か自分の知らない要因がありそうだ、と。

 軽く唇を噛んだ口元に手を当て、エルゼは自問する。


 気になる単語はもう一つ。目の前の間諜が聞いてきたそれ――【まつろわぬ影の眼(ハクサ・ディオード)】。

 もしもそんな魔術具(ウズ)があの遺跡に存在したというなら――当の現物は今、一体どこにあるというのか。


(ロズティーグの工作員が本国に送った後……ということはないだろう。ならばノヴァか、アリアナという女か)


 厳密にはもう二人、幼い子供がいたらしいが、野盗の一人が少女の方をいたく恨んでいたらしいということ以外、エルゼはよく知らない。

 どうやらその少女は、シェパで「天通鳥」と呼ばれているそうだ。不可思議な知識をもって領民に恵みを与える物の怪じみた子供だそうなので、少しばかり調査してみるのも良いだろう。


「エイルゼシア様、遺跡の方はどうなさいますか。必要なら今からでも、転移起点となっていた柱の瓦礫を拾ってきますが」


 問いかけてきた部下に、エルゼは軽く手を振った。

 大きな椅子の背もたれに背中を預け、上質なブーツを履いた長い足を組み替える。


「いや、今は必要ない。……年末の事件でこちらの網を読まれたせいで、首が幾つかすげ代わった。そちらに懸かりきっている間にシェパで一歩出遅れたのは失策だったな。春告祭までには、体勢を立て直しておかなければならない」

「王都の大合議――いえ、南方領主会議ですか。ブランジュード候が動くとお思いで?」

「どうかな、あそこの狸は厄介だ。いつものらくらして尻尾を掴ませない」


 く、と口角を釣り上げる。

 ブランジュード家。その特異性ゆえ、フヴィシュナで一定の地位を保ち続けている――保たせねばならない家。長い年月を経て水面下の事情を知る者は激減したが、今もってひっそりとかの家の動向を窺い続ける者も確かに存在する。


 ――じり、とランプの火が震えて、壁を染める二つの影が揺れる。

 冬空のような青い瞳をじっと凍らせ、思考に落ちていたエルゼは、やがて淀みない口調で言葉を紡いだ。


「――リーゼはまだ起きているかな。起きているならば呼んでくれ。あの子に頼みがある」

「御意に」


 応えた部下が、一瞬にしてエルゼの前から姿を消した。

 広い部屋に、しばしの静寂が戻る。




※※※




 さく、と背後で草を踏んだ音がして、魔術文字で埋め尽くされた書物を読んでいたノヴァはゆっくりと目を細めた。


 咥えていたメープルシロップの小袋を唇から離し、深い紺瑠璃の瞳だけをちらりと音の方向に向ける。

 午後の日差しの中、そこに立っていた人間――大きな帽子を被った幼い少年に、彼はうっそりと口角を釣り上げてみせた。


「予想よりは早かったな。ヒントが簡単過ぎたか?」

「あなたは水辺に痕跡を残してくれていましたから。活動区域を絞り込めれば、接触可能な地点も推測できます」


 応えた少年――ラトニ・キリエリルが帽子を取り、むらのある黒茶の髪と、そして琥珀色の瞳を露わにする。

 ノヴァを捜索するのに使ったのだろう。細い肩に青い小鳥が舞い降りて、魔力光と共に消失した。


 ここは、シェパの街から程近い山中だ。

 打ち捨てられた小さな集落で、廃墟をねぐらにノヴァが待ったのはおよそ七日。あと三日待って来なければヒントをばら撒くのはやめようと決めていたが、少年はしっかりとノヴァを見つけて会いに来た。


「挨拶は要らない。本題を述べろ、番犬。シェパからここまで自力で辿り着けるなら、話を聞いてやるくらいの価値はある」

「……では遠慮なく」


 ぺらり、次のページが捲られる。

 飄々と先を促すノヴァの前で、ラトニは迷わず膝を折った。

 邪魔な前髪を除け、真っ直ぐにノヴァを見上げた後、ぐっと上半身を曲げて地面に頭を落とす。


「僕に、魔術を教えてください」


 精一杯身を低くした、土下座と呼ばれる体勢で。

 紡がれた声は、至極落ち着き払ったものだった。


 ノヴァの指がページを繰る。

 何の興味も覚えぬとでもいうかのようにひたすら文字を追いながら、ただラトニに向けられた声色だけが嘲笑の気配を微かに孕んだ。


「弟子にしろということか? それはまた、随分と図々しい申し出だな。何の義理があってこのオレが、たかが子供如きに貴重な時間を割かねばならない」

「百も承知です。けれど、僕は現時点で、あなた以上の適任を――あなた以上の魔術師を知らない」


 既に予想していた反応なのか、揶揄を含んだ問いかけに、ラトニは怯む気配もない。ただ淡々と平身低頭し、説得の言葉を紡ぐだけで。


「毎日でなくて良いんです、あなたの気が向いた時だけで構わない。独学に限界があるのは、あなたにも分かっているでしょう」

「ふむ。ならば、対価は? オレの授業を受けるために、お前は何を差し出す?」

「――『蒼柩』について、あなたの得られる限りの情報を」


 ゆらり、と。

 長く落ちた前髪の下で、一対の琥珀が水面のような光を帯びた。


 その言葉に、ページを捲る手が停止する。ざわ、と木々が風に揺れる中、ノヴァの動きが初めて止まった。


 ゆっくりと、ゆっくりと、その顔がラトニの方を向いていく。

 たとえ国王直々に万金を積まれたとて、如何な崇高な目的も気が乗らなければ交渉台に上げる価値すら無し。そうとすら思っているような男が僅かでも意表を突かれる姿など、一体どれほど貴重なものか。


 ――く、と唇が引き攣れた。

 ノヴァの肩が微かに震え始め、やがてそれは徐々に哄笑へと変わっていく。

 酷薄な目が弧を描き、男は毒々しいまでに悦を孕んだ表情で笑っていた。


「――よく嘯いた!」


 ぱん、と片手で本を閉じる。

 ぐいと振り向けたノヴァの顔が、ようやく真っ向からラトニに向き合った。


 暴食漢。そんな二つ名を持つ男が、その腹の奥に潜めた牙をぎらりと一気に剥き出しにする。

 さして大柄でもない体躯から発する魔力が、押し潰すような圧と化してラトニの全身に負荷をかけた。


 全身の産毛がびりびりと逆立つような感覚に、しかしラトニは小揺るぎもしない。

 ひたすら冷静に頭を下げ続けている少年の後頭部を見下ろし、ノヴァは獲物を見つけた獣のような笑みで言葉を繋いだ。


「たとえお前自身のことであれ、『蒼柩』についてなんて当のお前にすらよく分かっていない事柄だろうに! オレがお前への指導を通して、『蒼柩』の存在に関する新たな説や情報の一つも手に入れればそれで良し。けれどお前自身がその過程で独自に何かを知ったとしても、オレに情報を開示する義務は一切負わない。

『オレが得られる限りの情報』とは、要するにそういう意味だろう。結局のところオレが知識欲を満たすには、お前の師としてお前をある程度自由に動かす権利を持ちつつ、魔術の修行を通して『蒼柩(お前)』の能力値を見極めることから始めるしかない」


 提示された条件の抜け穴を容易く見抜いて、ノヴァは引き裂けたかのように歪に釣り上がる唇で言い放つ。


 乗ると思っているのか、と。

 その不平等極まりない条件を、受け入れる義理が何処にある、と。


「でも、それでもあなたは乗るでしょう?」


 静かに上半身を持ち上げて。

 ラトニは平然とそう返した。


異相世界(エノルメ)の現出さえ厭わないほど狂気的な知識欲に支配された貴方なら、生きた『蒼柩』なんて絶対に逃がせない素材です。この場で僕を解剖したいとでもいうならともかく、そうでないなら僕に対して半永久的に影響力を持てる立場は、喉から手が出るほど欲しいはず。

 いつ如何なる状況でどんな事実が発見されるか分からない以上、あなたは可能な限り、『僕の同意のもとで』僕と強い繋がりを作っておきたい」


 ラトニのカードとは即ち、ラトニとの関係性、そしてラトニに対して支障なく一定の干渉を行える権利だった。


 たとえノヴァにとってのラトニが興味深い観察対象――或いは研究対象でしかないとしても、だからこそラトニが反抗的な人格でないに越したことはない。


 師というものは、弟子に対して一生ものの影響を及ぼす存在だ。

 自ら弟子入りを望むからには、ラトニもある程度ノヴァに従順に振る舞うだろうし、うまく刷り込めばこの上なく使い勝手の良い駒に育つだろう。


「あなたの目的のために、僕を利用してください。僕があなたに対してそうするように」


 ――成程考え方を変えれば、ラトニは実に扱いにくい人間である。たとえ幾年教えようが絆そうが、完全に首輪をつけることはまず出来ないだろう。


 何故なら、彼には既にオーリがいる。

 譲れない「絶対」の位置がとうに埋まってしまっている以上、如何に手塩にかけたとて、彼は師に対して盲目にならない。彼はあくまで彼自身の都合のためにノヴァに従うのであり、利害が反すれば敵対することも厭わないからだ。


 ――けれど、『妥協』は出来るのだ。


 忠心などというものとは無縁のラトニであっても、恩義を知らぬ畜生でもなければ、自ら進んで敵を作りたいわけでもない。


 何よりラトニ自身が、ノヴァを敵に回す愚を知っている。

 時間を持ち交流を持ち、その人格と価値観を分析することが出来たなら、多少ラトニの意に添わぬことでも妥協点を探り出し、うまくノヴァから誘導して、行動を操れるラインを見極められるようにもなるだろう。


 他ならぬノヴァ本人が認めるほどの才を持つラトニを、更にその手で導き磨き上げる。

 それは、近い将来確実に強大な魔術師に成長するであろう少年の基盤に、ノヴァという存在を植え付けられる最大のチャンスでもあった。


「――手懐けてみろと言うか」

「――あなたにその力があるのなら」


 深淵の気配がどろりと滲み出る顔で嗤ったノヴァに、ラトニは即答で切り返した。


 悪心ある者に事が知られたり、別の魔術師が師の立場を得たり。

 そんな風にラトニの身柄が他者の手に渡ることは、ノヴァにとって決して愉快なものではないとラトニは知っていた。


 この男は貪欲だ。

 欲するもののためならば、如何なる手間も犠牲も惜しまない。


「僕は強くなります」


 真冬の流水の如き清冽な声に、真摯な礼と誠意と、そしてありったけの意志を込めて、ラトニはそう宣言した。


 一片の傲慢もない、ただただ本気の顔で。

 当たり前の未来を語るように、落ち着き払った眼差しで。


「ノヴァさんが満足するほどに。ノヴァさんの手にも負えないほどに。ノヴァさんには見られない景色すら、追いかけることが出来るほどに」

「大言壮語しか能のない輩には、いっそ哀れみすら覚える。オレを超えると? 超えられると?」


 言葉とは裏腹に、至極楽しそうな顔でノヴァが問う。

 ラトニはやはり怯まなかった。真っ直ぐに背筋を伸ばして、彼にとっての確信を短く舌に乗せた。



「――はい」



 少年は、『蒼柩』という名の怪物で。

 少年自身もまた、世界に対して諦観じみた無関心しか向けていない、緩やかに壊れた心の持ち主で。


 なのにどうしてか。

 ギリギリのところで情を見出し、たった一つのために全てを切り捨てることを決めた美しい少年の姿は――儚いほどに透徹して、そして酷く人間らしいものに見えた。


「あの遺跡で、僕はあなたに全く敵わなかった。あなたの強さは、今の僕には遠過ぎる。恐怖すら感じる。だけど――届かない、とは思わなかった。

 それが全てだ。それだけが全てだ。たったそれだけ分かっていれば、僕は一歩を踏み出せる。

 どんな理不尽からも、たとえあなたや、『蒼柩』からですら彼女を守れるように――僕はあなたを超えて、そしてその先に進みます」




※※※




 言葉の刃を打ち合わせるような交渉を終えて、小さな少年が一人街へと帰った後。

 手のひらに収まるサイズの小袋の蓋を、ぱきん、と捻って開けながら、ノヴァはうっそりと笑みを零した。


 ラトニという少年は、オーリに拠ることでしか存在し得ない人間だ。

 彼女が在るからこそ彼が居て、もしも彼女が欠ければ最後、意思も信念も生きる意味も、彼の積み重ねてきたあらゆるものは全て土台から崩れ去る。


 ノヴァにとって、自身の存在価値を他人に預けるような人間は、正直あまり好ましくない。

 けれど、唯一絶対を自らの意思で選択し、代替品を見つけるなどということは思いもよらず、たとえどちらかが死のうが決して揺らがない一本芯を有しているという意味では、あの少年は評価できた。


 静謐にして苛烈。オーリという存在を絡めた時、ラトニは決して進む道を迷わない。


「番犬は道を定めたが、仔猫は未だ岐路の前。ようやく生えかけたあれの爪が、整う時は遠くない」


 片手で弄ぶのは、遺跡で拾い上げた小さな毛玉飾り。魔術の仕込まれたそれをぽんぽんと、投げ上げては受け止めるを繰り返す。


 脳裏に思い浮かべる、青灰色の瞳の少女の姿。

 少年と同じくらいに興味を惹く、未だ発展途上の幼い子供。


「爪も生え揃わない身で、番犬を巻き込み死地に飛び込んだ行為は愚かしい。無事に家に帰りたいのならば、あそこはさっさと見切りをつけて遺跡を逃げ出すのが最善だった。

 ――ただし、逃げた対価は死でもあったが」


 蛍火樹(ルクス・ティーラ)異相世界(エノルメ)の大樹。


 もしもあそこで遺跡を止めていなければ、遺跡が現出した衝撃で周囲の山は吹き飛んでいただろう。

 確かに、シェパには届かぬと予測した。けれどそれは第一段階。第二段階である「開花」が起きれば、被害は更に拡大する。


 あの遺跡が全機能をもって眠らせていたのは、水の中に蕾をつけていた蛍火樹の花である。言い換えれば、たった一輪の花を休眠させるためだけに、あれほどの規模の施設が必要とされていたのだ。


 蛍火樹は、一本の樹にただ一輪、美しい純白の花を咲かせる。

 もしも現出したこちらの世界で開花していたならば、花は程なく大量の胞子を撒き散らし、辺り一帯の植物に寄生・増殖して、見渡す限りの景色を己と同じ白花に塗り替えてしまっていただろう。


 金色の胞子を無数に飛ばす様が蛍の群れに似ていることから、ついた名前が『蛍火樹(ルクス・ティーラ)』。

 あれは異相世界を呼び込み、異相世界を現出させる花だった。

 あらゆる生物が花の養分にされ、土地が侵蝕を受けていけば、そう遠くないうちにシェパもまた、あの異界の花と、そして異相世界に呑み込まれていたことだろう。


 ――辛い、怖い、助けて、どうしたらいいの。

 一度もそんなことを言って縋らなかったオーリを、ノヴァはそこそこ気に入っていた。深く興味を注いでいた異相世界を現出させることを、当面諦めても良いと思う程度には。


「仔猫は恐怖を飲み込んで踏みとどまった。だが、番犬は違う。

 本能的な恐怖を遥かに凌駕する、鎖のような依存心と執着心。あいつはどちらでも良かったんだ。遺跡の操作が成功しようが失敗しようが、自分が死のうが生きようが、それが仔猫と共に往く道でさえあるなら構わなかった」


 異常な人間の傍には、異常な人間が寄ってくる。動力室ほどではないとは言え、制御室にだって相当な魔力が溜め込まれていたはずなのだ。あれほど莫大な魔力の制御を、あの短時間でやってのける『常人』が何処にいる。

 加えて、少女の意識を問答無用で深層世界に落とした時のこと。精神と魂に一片の瑕疵もなく戻ってきたその姿に、どれほど興がそそられたことか。


「あの時オレは、あの仔猫が『戻って』こられなくても構わなかったんだ。だが、あいつは何の助けもヒントもない中で迷わず最善の選択肢を選び、呑み込まれることなく帰還した。

 もしも己を構成する記憶と魂の欠片(ピース)を一つでも失っていたら、あいつは二度と帰れなかった。時が過ぎ、深層世界に精神が同化し過ぎてしまっても同じこと」


 凡人だ。

 しかし、同時に異常だ。


 仔猫の家も随分複雑らしいが、彼女自身を構成する背景もまた、奇跡のように複雑な要素が絡み合って出来ている。

 優秀な魔術師でも失敗するあの「潜水」をあっさりとクリアした少女は、確かに『蒼柩』の隣に立つに相応しい、立派な怪物の萌芽だった。


「世界の全てを知りたい。異相世界もまた、例外ではない。

 今回は貴重な機会だったんだが……まあ、良しとしよう」


 機嫌良さげにそう呟いて、ノヴァは最愛のメープルシロップを口に咥えた。


 シェパに来た時には予想もしていなかった状況だが、完全に予想外だったからこそ楽しみで仕方ない。

 暇潰しと言うには上等過ぎる弟子も手に入れたことだし、今しばらくはあの奇妙な子供たちを観察させてもらうことにしよう。


 才能のあり過ぎる弟子をどうやって鍛えようかと考えながら、ノヴァはくつくつと喉奥で笑った。

 軽く投げ上げた毛玉飾りが虚空で炎に包まれて、灰も残さず消滅した。



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