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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
7歳・シェパの街編
10/176

10:単純な目的さ

 ゆらゆらと頼りない蝋燭の明かりに照らされた、石造りの地下室。現在そこには、十数人分の気配が存在していた。

 鉄格子付きの扉は幾つか並んでおり、その奥では複数の小さな気配が息を潜め、或いは啜り泣いている。

 そんな中、最も手前にある小さな牢屋に、泣きも怯えもしていない一つの影があった。

 まだ幼いその子供の姿は、こんな場所にはひどく不釣り合いに見えるだろう。茶色みがかったショートの黒髪はボサボサで、前髪に隠れて目元は見えない。ダークブラウンの上着は土に汚れ、フードがだらりと力なく背中に垂れていた。

 空き箱くらいしか転がっていない石の床に膝を抱えて蹲り、その子供は静かに目を閉じていた。

 眠っているわけではないことは、時折床を叩く指の動きで分かる。やがてすうと顔を上げ、子供――ラトニ・キリエリルは、億劫そうに溜息を吐いた。


「……バレましたか。願わくば、オーリさんが合流する前に追跡を始めて欲しかったんですが……」


 警備隊員から報告を受けるなり蒼白になった少女の顔を視界の半分に捉えながら、ラトニはぽつりと呟いた。

 ラトニの操る魔力の鳥は、純粋な生物でないため夜目が利く。普段は後で記憶を統合する録画装置のような使い方をしているが、時にはリアルタイムで視覚と聴覚を共有する、監視カメラの役目を果たすこともできた。尤もそれなりに集中力を必要とするため、日常的に使うことはないのだが。

 そして現在オーリの傍に張り付けているのは、その監視カメラ式の方だった。今はつかず離れずオーリの後を追いかけているのだろう、常にオーリの姿を視認しながら、全く気付かれる気配がない。

 この様子なら遠からずここに辿り着くだろうと予想しながら、朝までには孤児院に戻れるだろうかとラトニは思った。


 誘拐犯一味と思われる人間たちに「発見」され、捕まったラトニが首尾よくここに放り込まれたのは、つい十分前の話になる。

 どうやら連中は、シェパに幾らでも転がっている、古い廃屋の一つをアジトにしているらしい。

 ボサボサの髪と汚れた服装のラトニを孤児だと思ったのか迷子だと思ったのかは知らないが、少なくともラトニを捕まえた男たちは、ラトニを無力な獲物としか目していないようだった。


(所持品チェックもせずにここに放り込んで、後は放置ですからね……逃げ出す準備に忙しいなら、今更新しい子供など誘拐して来なければ良いようなものですが)


 殺風景な牢の中を見回して、ラトニは小さく息を吐いた。

 この分だと、警備隊が来るまであまりやることはなさそうだ。ただの子供として警戒されていない分、余計な危害を加えられることがないのは幸いだった。

 鳥を飛ばして確認したところ、地下にいる子供はおよそ二十人。他は既に移動させられたのか、はたまたこれで全部なのか、いずれにせよ地上階に子供の姿はないようだ。


(僕だけが他の子供たちと同じ牢に入れられなかったことだけがやや不可解ですが、これはこれで良かったんですかね。他人を励ますことに向いていない自覚はありますし)


 ――と言うか、人と関わること自体が好きじゃないのだけど。

 ラトニが自ら関わりに行くのなんて、それこそオーリくらいのものである。

 孤児院でも、ラトニは単独行動が好きな子供と認識されていた。何せ言い付けられた仕事こそ全てきちんとこなすものの、自由時間に他の子供たちと遊んだ試しがない。


(庭を駆け回っているより、オーリさんを盤上でフルボッコにしている方が楽しいんですよねぇ……)


 本人が聞いたら絶叫しそうなことを考えながら、ラトニは前髪を指で摘まんだ。

 孤児院の院長たちがラトニを扱いかねている理由には、ラトニが頑なに顔を見せようとしないこともあるだろう。

 以前は帽子や前髪で、今はオーリに貰った上着で。髪は染められても目の色は変えられないから、ラトニは決して人前で素顔を晒さない。

 院の子供と関わらない代わりのように、ラトニはいつも本や外出で時間を潰していた。

 野良猫のようにふらりと何処かへ姿を消すラトニを、院長たちが止めたことはほとんどない。

 尤も、彼らの言う「職務に忠実」は「子供に優しい」とは一致しないので、或いは他の子供に対しても似たようなものなのかも知れないが。

 次にオーリさんと出かける時は綺麗な花を見に連れて行ってくれる約束だったなあ、と考えながら、ラトニは閉ざされた扉の方をちらりと見た。


(さて、いざ身の危険がないと思うと、些か手持ち無沙汰ですね……。牢が同じなら、この間に子供たちから聞き出せる情報もあったかも知れないのですが……)


 尤も、怯えて泣く子供たちの中に放り込まれても、自分がまともに慰めてやれるとは思えないから、これはこれで良かったのかも知れない。しくしく啜り泣く子供たちの傍で小さくなっている自分の姿しか想像できなくて、ラトニは少しげんなりした。


(――ああ、でももし潜入したのがオーリさんだったのなら、話は別だったんでしょうが)


 もしもオーリが他の子供たちと同じ牢に入れられたなら、嬉々として子供たちを周りに集め、面白おかしい小話でも語り始めたに違いない。

 御伽噺にサスペンス、どこで役に立つかも分からない雑学まで、彼女の持ちネタは実に豊かだ。彼女なら、えげつない怪談話で見張りをびびらせるくらいのことは平然とやってのける。

 オーリの呑気な顔をふと思って、ほんの一瞬、微かに綻んだ唇は無意識だった。


(……見張りは入口の所に二人だけ。地下室を丸ごと覆うように結界を起動させて立て籠もれば、最悪のことは避けられるでしょう)


 この世界で採れる特殊な魔石(シード)に魔力を込め、炎や雷、光などの効果を発揮する簡易なアイテムとして造り上げたものを封珠(フルーレ)と呼ぶ。

 上は攻撃用の爆弾や閃光弾から、下は火点け石の代わりや少し高価な灯りまで。様々あるそれは勿論シェパの警備隊も活用しており、今回ラトニはそのうち結界効果のあるものを一つ、警備隊から預かってきた。


(オーリさん、心配してるでしょうね。帰ったら死ぬほど怒られそうです)


 オーリに何も言わずに出て来たことを悪いと思わないわけではない。

 けれど、それでもラトニはオーリが心配だった。

 僅かな苛立ちを吐き出すように、とん、と床を指で叩く。ひっそりと目を伏せながら、ラトニは幾度か見る機会のあった、オーリの戦う姿を思い出した。


 これまでオーリは、街のごろつきや犯罪者などを相手に、毎回危なげなく勝ちを収めている。けれど実のところ、ラトニはオーリが、少なくとも戦いという意味ではそれほど強者でないことに、既に気付いていた。

 オーリの戦闘方法は、並外れた身体能力に物を言わせた力押しだ。つまり、強者に弱く弱者に強いその辺のごろつき相手なら有効でも、技術や経験は明らかに不足している。

 その道のプロを相手にすれば危ういだろうと本人も自覚しているから、彼女は滅多に真っ向勝負をしない。それより、罠や不意打ちなどの搦め手を使うのだ。


 勿論ラトニとて、戦い慣れしているとは言い難い。魔力の量には自信があるが、それと戦闘とは別問題だった。

 ごろつき数人、不意打ちで葬る程度は容易いだろう。けれど、こちらもやはり本式の知識や鍛錬方法を学んだわけでもなく、正式に訓練を受けた戦闘職種や魔術師複数と真っ向勝負して勝てるかと言われれば、やはり分からないと答えざるを得ない。


 それでも、少なくともラトニなら、目の前で何を見ようと冷静でいられる自信があった。たとえうっかり犯人たちが子供に悪趣味な暴行をしようとも、我を忘れて飛び掛かったりはしないだろう。

 加えて――


(プロでも素人でも同じです。いざという時、相手を殺す覚悟があるか否かで、結果は大分違ってきますからね)


 殺人への忌避と恐怖。それこそが、ラトニの抱く最大の懸念だった。

 オーリには人を殺せない。少なくとも、今はまだ。恐らく彼女にとって自衛や戦闘と殺人の間には、ラトニが思っている以上に絶対的な差があった。

 ラトニの知る限り、これまでオーリは畑を荒らす獣を狩ったことこそあれど、その対象を人にしたことは一度もない。どれほど頭に血が昇ろうと、どこかでブレーキを掛けていたのだ。

 きっと、今回もそうするつもりだろう。これまでずっとそうだったように。


(初めから殺すつもりでかかって来る犯罪者相手に、甘いと言うしかありません。「殺さない」ことが許されるなんて、絶対的な実力差がある時だけだというのに)


 リスクもデメリットも全部分かっていて、それでもきっとオーリには出来ない。それが彼女の甘さで、愛すべき弱さだ。

 だからラトニがここに来たのだ。ラトニならば、オーリよりは死ににくい。殺すことを禁忌と感じていないから。

 ラトニは、自分とオーリを除く人間の命にほとんど価値を覚えない。もしも自分やオーリに危害が加わるなら、ラトニは迷わずその命を刈るに違いなかった。かつて薄暗い裏路地で、ごろつきたちの命を平然と消したように。

 いっそ国一つ滅んだとて、そこにオーリがいるのなら、変わらず幸せに笑えるだろう。


(……それにオーリさんのプランでは、万が一のことがあっても、僕が彼女の所に行ってやれませんし)


 孤児院にいるはずのラトニが何の脈絡もなく現れるなど、展開としても不自然に過ぎる。ならば警備隊の詰め所で話を立ち聞きしたことにして、置いて行かれることを嫌うラトニが勝手に突っ走ったと思わせる方がまだましだ。

 要するにラトニは、手の届かない場所でオーリに何かあるのが嫌なのである。

 傷付くのならば、苦しむのならば、それはいつだって自分の傍で。それならすぐに手を差し伸べられるから。この手が届かない所で彼女を失う恐怖など、味わいたいわけがないのだから。


(――彼女が初めて人を殺すのは僕のためであって欲しい、なんて。考えるのは、やっぱり歪んでいるんでしょうかね……?)


 そうしたら、きっと手を伸ばしてあげるのに。

 泣いて叫んで苦しんで、自分のやったことに怯えるオーリを、いつまででも傍にいて慰めてあげるのに。

 ――或いは今回の行動は、彼女への意趣返しもあったのかも知れない。ラトニのためとは言えラトニを除け者にしようとした、彼女の「甘い」選択への。

 ラトニはこんなに彼女に執着しているのに、彼女はあっさりラトニの手を離してしまえるのだと言われているようで――


(……、……やめましょう。このままだと、オーリさんのためにならないことを考えてしまいそうです)


 思考が暗い方へと呑まれかけていることに気付いて、ラトニはふるふると頭を横に振った。

 今考えるべきは、犯人連中の出方だ。彼らが子供たちをどう扱うかで、ラトニも行動を変えねばならない。そうでなければ、わざわざこうして出向いてきた意味がないのだから。


(まあ、今回は取り越し苦労だったかも知れませんけどね。どうやら今は犯人連中も、誘拐してきた子供に構う余裕なんて無さそうですし。このまま警備隊が間に合えば良いんですが――)


 そんなことを考えた時、ふとラトニは地下室の扉が動く音を聞いた気がした。

 ――ぎぎぃぃ、と、錆び付いた扉が開かれる重々しい異音。その後早足に近付いてきた足音は、ラトニの部屋の前でぴたりと止まる。鍵が鳴る音に続いて外側から開かれた扉に、ラトニはぼさぼさの前髪の下で眉を顰めた。


「――おい、連れて来た奴ってのは、こいつで間違いないんだな?」


 扉から入って来たのは、目付きの悪い大柄な男だった。ラトニを拉致した者の中にはいなかった。ぎょろりと大きな目でラトニを睨み下ろし、男は背後に控えていた別の男に問いかけた。


(何だ? まさか、またどこかから情報が洩れたとか……?)


 背後の男が肯定の返事を返すと、ギョロ目の男は大股で歩み寄って来る。怯えた素振りで体を縮込めたラトニの首を軽々掴んで引き起こし、乱暴に肩に担いで身を翻した。


「い、イーゴォさん、そのガキどこに連れてくんッスか? 何かおかしなことでも――」

「支援者殿がお呼びなんだよ。やっぱり捕まえたガキは全員見ておきたいから、今からでも連れてこいだとさ」


 その言葉にラトニは、自分が一人だけ別の牢屋に分けられていた理由を察した。つまりここは、『支援者』に面通ししていない者を区別しておく専用の部屋だったらしい。

 面白くもなさそうに言い捨てて、イーゴォと呼ばれたギョロ目の男はそのまま地下室を後にする。それなりに偉そうな様子ではあるが、どうやらこの男も誰かに使いっ走りにされているらしい。支援者というのはどういう意味だろうか、とラトニは考えた。


「あのモヤシ野郎、このクソ忙しい時にまで呑気なこと抜かしやがって……。おい、お前は他のガキ共を移動させる準備しとけ。あと一時間もしないうちに出るからな」


 ただ座して待っていれば良いと思っていたのだが、この分ではそうも行かなくなりそうだ。ラトニは服に潜ませた発信器の感触を確認しながら、何だか困ったことになってきた、と舌打ちしたい心地で考えた。

 とは言え、この場で抵抗には何の意味もない。不穏な気配を感じながらも、ラトニはしばらくの間、大人しく状況を観察することに決めた。

 確かめたところ、ここにいる犯人たちは精々十人かそこらだ。慌ただしい人の声や、走り回る音が時折聞こえる。

 所々ガラスの罅割れた窓、得体の知れない染みで汚れている廊下。ぎしぎし軋む階段を三つ昇った後、男はようやく足を止めた。

 ――廊下の奥に佇んでいたのは、重そうな木製の扉だった。

 位置や装飾からして、元はこの建物の所有者が占有していた部屋だったのではないだろうか。

 男が乱暴にノックして、返事も待たずに扉を開ける。そこにいた人間の姿を見て、ラトニはそっと眉間に皺を寄せた。

 元からここに置き去りにされていたのだろう、色褪せたカーペットと、家紋の入った古い大きなデスクに安楽椅子。申し訳程度に掃除がされたその部屋の真ん中で、だらりと力を抜いて椅子に体を預けていたのは、まだ若い一人の青年だった。

 年の頃は十代後半から二十代半ばほどか。肩を覆うほどの長さの頭髪は薄い金色で、やる気が無さげながらも整った顔立ちは、誘拐犯一味の只中にいるにしては違和感を覚えるほどに端正だ。

 贅肉などとは縁のなさそうな細い体を覆うのは、白をベースにした質の良さそうな衣装。艶のある細い髪が、所々寝癖のように跳ねている。

 ピーコックグリーンの眼がくるりと動いて、部屋に入ってきた男とラトニを交互に見比べた。


「あー、イーゴォじゃん。連れてきてくれたんだー。今夜来たばっかの子って、その子のことだよねー?」


 妙に間延びした声は、発声の仕方によっては聞き映えもするのだろうが、今は抜けた印象を与えるだけだ。

 明らかに他の連中とは違う雰囲気を持つ青年に、イーゴォは不機嫌そうに舌打ちを返す。ラトニを無造作に放り出し、ここにいるのも不快だと言うようにさっさと踵を返してしまった。


「あれー、もう行っちゃうのー? 終わるまで待ってなくていいわけー?」

「まだ準備が終わってないんでな、そっちに掛かり切ってんのは分かってるだろうが。地下に戻したいんなら他の奴を呼べや」


 吐き捨てるようにそう言って、イーゴォは部屋を出て行った。振り向きもしない背中を見送り、青年が心底不思議そうに下唇を突き出してみせる。


「あの人ってさぁ、オレの前ではいっつも不機嫌そうにしてるんだよ。オレそこそこ愛想良くしてるつもりなのに、何でだろーねぇ?」

「…………」


 その愛想の良さが余裕に見えて気に食わないんじゃないんですか、と正直なことは言わないでおいた。

『支援者』などと呼ばれ、イーゴォを使いっ走りにするような権限があるのなら、やはりこの青年は一味に対してそれなりの発言力を持っているのだろう。自己顕示欲の強そうなあの男には、目の上の瘤にしか思えるまい。


「キミも誰かに苛められなかったー? だから早くシェパを離れようって言ったのに、忠告聞かずに今更ピリピリしちゃってさぁ。こないだだって、折角警備隊が来るよって教えてあげたのに、モタモタしてて逃げ遅れそうになる奴とかも出るしー。ねえねえ、お名前聞いても良いー?」


 この青年が誰の指示でここにいるのかは分からないが、見た目通りあまりやる気はなさそうだ、とラトニは考えた。

 とは言え「やる気がない」と「何もしない」は同一ではないようで、とぼけた言動ながらも最低限の職務を果たすつもりはあるらしい。幸い今夜の警備隊の動きはまだリークされていないらしいのが、現状唯一の希望だろうか。

 背凭れに顎を乗せ、ガッコンガッコンと椅子を揺らして遊んでいた青年は、口を噤んでじっと無表情で見上げてくるだけのラトニに、不思議そうに首を傾げる。「喋れないわけじゃないんでしょー?」と催促され、ラトニは仕方なく、最近会った農村の住人の名を借りることにした。


「……ジェイク、といいます」

「嘘は駄目ー」


 ――ぬらり、とピーコックグリーンの双眸が光った気がして、ラトニは一瞬で警戒度を跳ね上げた。

 ぞわりと背筋を駆け上がる寒気。変わらないトーンで言い放たれたにも拘わらず、どくんっ、と心臓が大きく鳴るのが分かる。こちらを見下ろす青年の眼が、蛇のように細まったように思えた。

 ――数秒の沈黙。息詰まる緊張感の中で見つめ合っていた彼らは、やはり青年の一声で元の空気を取り戻した。


「あ、そっか。うっかりしてた、ごめんねー」


 ぽんと手を叩いて、青年は間延びした声でこう言った。


「オレのことはねー、ジルって呼んでー」


 いや、別に先に名乗れと言いたかったわけではないのだが。

 青年のマイペースさに妙に疲れるものを覚えながら、ようやく呼吸を取り戻したラトニは僅かに肩を落とした。


「……ラトニといいます」

「そっかー、じゃあラトニ君、もうちょっとこっち来てー」


 オーリの声以外に慣れ慣れしく呼ばれることを、微かに不快に感じはしたが。

 それでも拒否権のないラトニは、ゆっくりとジルに近付いていく。

 空々しいほど無邪気な仕草で、ジルはことんと首を傾げた。


「オレもさぁ、こんなバタバタしてる時に面倒なチェックしたくなかったんだよ。でも命令だからさ、仕方なくてー。イーゴォたちにも困ったもんだー。こんな時にまでお金のモトは掴み損ねたくないなんて、欲張りって良くないよねぇ」


 ジルの手が、ラトニの方に伸びてくる。日に当てたことがないのではと思わせるほど白い指が何かを握っていると気付いた時には、それは無造作にラトニの額に押し当てられていた。


「――――っ!!?」


 その瞬間、触れた個所から勢いよく何かが流れ出ていくような感覚を覚えて、ラトニは目を見開いた。

 ひゅ、と息を呑み、掠れた声が反射で洩れる。ぐらりと激しく視界が揺れ、大きな耳鳴りがわぁんと響いて脳を揺らした。


「あれ、ひょっとして最後の最後で大当たりー?」


 ふらりと横倒しになっていく光景。深海に引きずり込まれていくかのような気分に、逆らうことはできなかった。

 惚けた声できょとんと呟いたジルの声が、急速に霞んでゆく意識の中に空しく響いていた。

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