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第9話 本当に要るなら

 最近、この街の人々は疑い深くなったからなのか「情報を貸したがらない」。

 正確には、貸してくれたり、貸してくれなかったり、ほんの少しだけ貸してくれたり――そのムラの大きさが、かえって社会全体の空気を重くしていた。道を教えるにも遠回し、仕事のノウハウは「まあ、そのうちね」で濁され、誰かが知っているはずの答えに手を伸ばしても、透明な壁に阻まれるような感覚だけが返ってくる。


 晴人はるとは今日、その透明な壁に三回ぶつかった。

 業務で必要なデータの所在を尋ねても、返ってくるのは曖昧な笑顔と「たぶん共有フォルダのどこか」のみ。どこか、とはどこだ。壁の中か。壁の外か。


「ねえ、あの人たちさ」


 と、同僚の瑠衣るいがひそひそ声で言った。


「情報、貸してるつもりなんだよ。きっと」


「貸してるつもりの人ほど、貸せてないよね」


「そうなんだよね。貸したって思い込んでる分、こっちの困り顔が届かないんだよ」


 二人は休憩スペースの丸テーブルに向かい合い、缶コーヒーを開けた。

 貸し渋りの空気は会社だけでなく、SNSでも街中でも感じられ、まるで“情報そのものの値段”がじわじわ上がっているような世界だった。


「で、晴人はどうしたいの?」


「どうしたいって?」


「今日の件、あの人たちから情報借りるの諦めるのか、もう一回行くのか」


 晴人は缶のプルタブを指でいじりながら、答えを探した。

 怒っているわけではない。ただ、いつのまにか“情報の貸し借りにも気疲れが必要な社会”に慣れてしまった自分に、じんわり違和感があった。


「正直さ……」


「うん」


「借りたいよ。情報が欲しいっていうより、“貸してもらえる関係でいたい”っていうほうが、でかい」


 瑠衣は眉を上げた。


「分かる。めちゃくちゃ分かる」


「情報そのものは、探せばどこかにあるんだよ。でも、“あなたなら貸すよ”っていう、あの小さな合図がないと、社会がやけに冷える」


「それ、今日の核心だね」


 瑠衣はカップの縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。


「私さ、こないだ別の部署に訊きに行ったとき、“教えていいのかな”って言われたんだよね。あの声色が忘れられないの」


「それって……貸すか渋るか、相手が迷ったってこと?」


「そう。自分が持ってる情報に“身分証チェック”みたいなものを付けてる感じ。権利証明してからじゃないと渡せませんって」


「それ、もう貸し渋りじゃなくて、貸す気ないよね」


「本人は“慎重なだけ”って思ってるんだけどね」


 二人の会話には、皮肉と疲労が半々に混じっていた。

 だが柔らかい声のやり取りは、今日に限っては救いになっていた。


「じゃあさ」


 瑠衣が缶をテーブルに置き、少し前のめりになる。


「晴人は、どのくらい“貸してほしい”わけ?」


「具体的には……」


 晴人は目を細め、会社の天井を仰いだ。

 光の反射が白っぽく揺れ、言葉がゆっくり形を取っていく。


「必要な情報を、“必要だね”って言ってくれる温度で渡してほしい」


「温度?」


「うん。貸す・貸さないじゃなくて、“困ってるよね”っていう体温。情報より、そっちのほうが大事」


「たしかにね……情報って、内容より“手渡し方”で値段が変わるよね」


「そうなんだよ。雑に投げられると、合ってても受け取りたくなくなるし」


 瑠衣は苦笑した。


「貸し渋りってさ、本当は“貸すことのリスクが大きく見える社会”が生んでる現象なんだよね。誰かに教えて、その誰かが失敗したら、自分も巻き込まれるって思い込んでる」


「それ、あるな」


「でしょ。だからみんな、“貸したふり”だけして逃げる。責任は負わず、評価だけ守りたい感じ」


「貸したふりって、一番キツいよね……」


「そう。貸してもらった気がしないから」


 晴人はうなずきながら、缶コーヒーを両手で包んだ。

 温度がほとんど残っていないのに、不思議と手の中の重みだけは確かだった。


「瑠衣」


「何?」


「今日のデータさ。君なら少し貸してくれる?」


「もちろん。全部は渡せないけど、今日必要な分だけなら、ちゃんと渡すよ。温度つきで」


「温度つき?」


「そう。“大変だったね”の温度。情報の価値はそこにある」


 瑠衣はノートPCを開き、画面をこちらに向けた。

 そこには必要なフォルダへの道筋が丁寧に整理されていた。


「はい、貸し出し。在庫は十分あります」


 冗談めかした言い方に、晴人はふっと笑った。


「ありがとう。返却は?」


「返さなくていいよ。情報は返却不要。ただ……」


「ただ?」


「いつか“別の情報”を貸して。あなたが持ってるやつでいいから」


 その交換条件は、社会に漂う冷たい貸し渋りとは正反対だった。

 貸せるぶんだけ貸し、借りられるぶんだけ借りる――その循環が、小さな場所で静かに息を吹き返していた。


「もちろん。貸すよ。今日の温度、ちゃんと覚えておくから」


「よし。それで十分」


 ふたりはPC画面を挟んで向き合いながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 社会全体が情報を渋っても、こうして“貸し借りの温度”を分け合える関係がひとつあれば、それだけで十分に世界はやわらかくなる。

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