第8話 フラっと選挙宣伝されて(汗)
選挙期間に入ると、街は急に“アレを借りたい人たち”であふれ始める。
候補者の顔写真が貼られたポスターは、まるで「貸してくれ」と書かれた札のように、電柱や掲示板に無造作に並んでいく。
街中にいた吉岡杏樹は、その光景にいつも「急に頼みごとが増える親戚みたい」と思っていた。
普段は顔も見ないのに、必要なときだけ丁寧に電話してくる——
そんな関係に少し似ていた。
ある午後、街頭演説のマイクが、遠くの商店街から風にのって届く。
杏樹は、スーパーの帰り道、“いつもここに来ない人の声”が響く違和感に足を止めた。
「市民のみなさんの“力”を、どうか私に——」
その言い方がどうにも引っかかる。
力なんて、丸ごと貸す必要がどこにあるのだろう。自分の一票は、一部であって全部ではないはずだ。
候補者たちは、その“一部”をまとめて借りようとする。
「あの、こちらどうぞ」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、若いスタッフが短冊状のチラシを差し出していた。選挙期間になると、妙に丁寧な笑顔の人が増える。
杏樹はその笑顔を見ると、
相手の本音の温度が見えなくなるような気がして、少し苦手だった。
「候補者の政策がまとめてあります。よろしければ——」
「ああ、どうも」
受け取ると、若いスタッフはさらに声を落とした。
「応援、いただけますか?」
その一言だけ、ほんの少しだけ本音に近かった。“貸してほしいんです”という、控えめな必死さが透けて見える。
杏樹は相手の真剣さを無下にできず、曖昧に頷きながらチラシを折り畳む。
「……まあ、考えておきます」
「ありがとうございます!」
スタッフの声は、借りられたと勘違いしたように明るかった。
杏樹は、胸の中で小さな申し訳なさを覚える。
貸したつもりはないのに、相手は借りたつもりになる——
選挙では、それがよくある。というか、むしろあり過ぎて。
チラシを眺めると、政策はどれも
「市民のため」
「暮らしを良くするため」と書かれていた。
どれも正しく、どれも少し嘘だった。
“誰のため”かを言い切れる政治家なんて、おそらく存在しないからだ。
家に帰ると、テレビの討論会がついていた。
候補者たちは、視聴者の“一票”をまるでまとめて借りられるかのような口ぶりで話している。
「市民の皆さんは、私を信じて——」
杏樹はテレビを消し、窓から外を眺めた。
夕暮れの空は、どこにも属さずにただ広がっていた。
——少しだけなら、貸してもいいのかもしれない。
杏樹はそんなことを考えた。
丸ごと貸せば裏切られる。全部預ければ、返ってこない。だけど、期待のほんの欠片みたいなものなら、貸してもいい。
選挙なんて結局、誰かに“一部だけ希望を貸す行為”なのかもしれない。
翌日、また別の候補者が駅前に来ていた。
同じようにスタッフがビラを配り、同じように丁寧すぎる笑顔を浮かべている。
杏樹はその候補者の前を通りかかったとき、足を止めた。
候補者が少し驚いて、しかしすぐに営業用の笑顔を整える。
「ご関心、ありますか?」
「はい、ちょっとだけ。少しだけ」
候補者は一瞬、意味を測りかねたように眉を動かしたが、すぐに笑顔に戻る。
杏樹は続けた。
「全部は貸せません。
でも、“少しだけなら”向けられます!」
候補者は言葉を詰まらせ、その一言の重さをどう受け取るべきか迷っているようだった。
杏樹はそれ以上何も言わずに歩き出した。
背中の方で、マイクの音が風に流される。
──“少しだけ”貸すという態度は、
借りる側にとって理解しづらいのかもしれない。
けれど、返ってこないことを前提に
丸ごと貸す必要なんて、どこにもない。
家に帰る途中、杏樹は思う。
市民であるということは、誰かのために全部を差し出すことではなくて、
疲労も裏切りも込みで、“貸せる分だけで付き合う”そんな距離感を選ぶ自由のことなのだ、と。
その夜、窓を開けると、
遠くでまた別の候補者がマイクを握っていた。
風が音を千切って運んでいく。
杏樹は小さく笑い、冷めかけたお茶を口に含んだ。
——今回は“少しだけ”貸そう。
そう思える程度には、世界との距離を自分で決められる夜だった。




