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第7話 ほわっ、と

 放課後の音というのは、どうしてこんなに落ち着きがないのだろう、と黎斗はときどき思う。

 チャイムが鳴ってから三十分も経つのに、校舎のどこかではまだ誰かが笑い、誰かが走り、誰かが教室の扉を乱暴に締めていく。

 湿った空気の隙間を、少年少女の声が行き交うそのざわめきは、ちょっとした夕立みたいに突発的で、気まぐれで、そして少しだけ寂しい。


 そんな音の残り香がまだ漂う廊下を、澪の靴音だけがゆっくり進んでいた。

 彼女は、階段の踊り場に立つ黎斗に気づくと、首をかしげたまま小さく笑った。


「珍しいね、こんなところで」


「ちょっと待ってた」


「私を?」


「他に誰がいるの」


 言い方は淡々としているのに、その奥で少しだけ照れている気配がある。黎斗のそういうところを、澪は嫌いになれなかった。


「で、どうしたの?」


「声を貸してほしくて」


「声?」


 澪は困ったように笑い、鞄を持ち直した。

 “声を貸す”なんて、まるで寓話の一節みたいな言い方だと思う。それでも話を促すように階段の手すりにもたれ、黎斗の言葉を待った。


「今日のスピーチ、さ……俺、あんまり上手くいかなくて」


「ああ、聞いてたよ。そんなに悪くなかったけど」


「澪が思う“悪くない”って、たぶん他の人の“すごく良い”くらいなんだよ」


「そんなことないでしょ」


「あるんだよ」


 黎斗は小さく息を吐き、続けた。


「で……その、練習付き合ってくれないかな。澪の前だと、不思議とちゃんと話せるから」


「へえ、理由は?」


「わからん。でも、澪に向かって話してる時は、変に構えなくていい気がする」


「私、そんな効能あったんだ」


「あったんだよ、たぶん生まれつき」


 黎斗の軽口は普段よりずっと柔らかかった。

 澪はため息交じりに笑いながら、でもその頼り方を悪くは思わなかった。必要とされたというよりも、“頼る相手として選ばれた”という手触りが、胸の奥で微かに温かかったから。


「いいよ。貸すよ、声」


「ほんと?」


「うん。ただし条件付き」


「条件?」


「変な借り方したら、利子つくよ?」


 黎斗は一瞬だけ黙り、そして吹き出した。


「なんだよそれ」


「声ってさ、返ってくる時に形変わってたりするから。ほら、誰かを励ましたつもりが逆に相手を傷つけたり、逆もあったり」


「……あるな、そういうの」


「だから、丁寧に使ってねってこと」


 澪の言葉は柔らかいのに、妙に核心を突いていた。

 黎斗は頷き、階段の下の小さな空き教室へ向かって歩き出す。


「じゃあ、借りる」


「どうぞ。好きなだけ」


「いや、好きなだけは困る。返せない」


「返さなくていいよ」


「なんで?」


「あなたのスピーチがうまくなるなら、それで充分」


 そんなふうに言われたのは初めてだった。

 褒められるのとも違う、慰められるのとも違う。

 ただ、ささやかな“肯定”を受け取ったような気持ちになって、黎斗は喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 空き教室は、夕方の光が斜めに差し込んで、机の上を薄金色に照らしていた。

 澪は椅子を引き、手の甲で頬を支えながら、言った。


「じゃあ、どうぞ。聞いてるから」


「いくよ……」


 黎斗は深呼吸をした。

 そして、澪の前だけでは不思議と素直になれる声で、ゆっくり語り始めた。


 言葉を探すたびに、澪の視線が“急がなくていいよ”と伝えてくる。

 声が震えそうになる瞬間には、小さく頷いてくれる。

 話が途切れたときは、少しだけ微笑んで“続けて”と促してくれる。


 ああ、これだ――と黎斗は思った。

 自分が“声を貸してほしい”と思った理由は。

 ただ、上手く話したいからじゃない。

 澪に向かっているこの瞬間だけ、自分の言葉がまっすぐに落ち着く。それが心地よくて、手放しがたかっただけだ。


 五分ほどで話し終えると、澪は「うん、良かったよ」と淡々と言った。

 それは褒め言葉というより、本当に事実だけを渡してくれるような、余計な熱のない言い方だった。


「本当に?」


「うん。今日よりずっと良かった」


「そっか……」


「ねえ、黎斗」


「ん?」


「声、また貸してほしくなったら言ってね。利子は、まあ……気分次第にしとく」


 黎斗は、顔を上げた。

 返事をする代わりに、静かに頷いた。


 外では、校庭のどこかでサッカー部がボールを蹴る音が響いていた。

 その律動に合わせて、澪は机の天板を指で軽くトントンと叩きながら言った。


「じゃあ、次の人、どうぞ?」


「次の人?」


「あなたの“声”が届く相手。クラスに何人かいるでしょ。ほら、あの子とか」


「……やめろ、急に刺す方向でくるな」


「刺してないよ。ただの観察」


 その会話に、ふたりは同時に笑った。


 その笑い声こそが、たぶん誰にも貸す予定のなかった――

 でも結果的に相手へ預けてしまった、小さな心の一部だった。


      *


 その笑い声こそが、たぶん澪が一番「貸したかった声」だったのだろう、と黎斗はあとになって思う。

 練習だとか、スピーチだとか、理由はいくらでも添えられるけれど――本当はただ、誰かと共有できる溶けるような声が、どこかに少しだけ必要だったのだ。


 窓の外の日が傾き、教室の床に落ちる光の帯が細くなっていく。

 澪は鞄を肩にかけ、振り返って言った。


「じゃあ、今日はここまで。返却期限は……そのうちでいいよ」


「期限、ゆるいな」


「声ってさ、期限つけちゃうと濁るから」


「濁るの?」


「ええ。私の声も、あなたの声も。あんまり急かすと、音が固くなる」


「……なるほど」


「だから、いまのままでいいの」


 そう言って澪は軽く手を振った。

 その声はまるで“また明日”という普通の挨拶のようでいて、少しだけ特別な気配をふくんでいた。


 黎斗はその気配に気づかないふりをしながら、けれど胸のどこかにそっとしまった。

 貸し借りというほど大げさではない。

 ただ、自分の言葉が誰かにまっすぐ届く瞬間があるということ――それだけで、黎斗は嬉しかった。

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