第6話 そしてまた行き違⋯⋯う
朝の光が低い角度で差し込むリビングに、湯気の立つカップが二つ並んでいた。片方はまだ手を付けられずに冷めかけており、もう片方は飲みかけで、縁についた口紅の跡が小さく乾いている。春の終わりの匂いを含んだ風がカーテンを揺らすたび、二人が昨夜どんな話をしたのかを、家そのものが無言で覚えているようだった。
「……で、結局どうするつもりなのタカは?」
彼女――茉央が、それほど強くない声で問いかけた。
彼——剛彦は曖昧に笑ってみせた。笑ったつもりだったが、どう見てもただ口の端が迷っただけの動きだった。
「どうする、っていうのは、どの……話だっけマオちゃん」
「全部よ。ぜんぶまとめて、って意味で聞いてるの」
視線を逸らした彼の肩に、朝の光が斜めに落ちていた。いつもなら彼はすぐに話を変える。天気の話でも、ニュースの話でも、コーヒー豆の挽き方の話でもいい、とにかく別の話題を見つけて逃げる。それが、ここ数カ月の彼の“癖”になっていた。
今日のタカヒコは、逃げなかった。逃げる場所を、少しだけ貸し借りの中で見失ったのかもしれない。
「……マオは、さ。俺に、何をしてほしいの」
その言い方は卑怯なほどやわらかかった。答えを委ねるふりをしながら、責任の半分をそっと相手に渡すような調子だった。
茉央はテーブルの端に置いた指先で、冷めたカップの取っ手をかすかに弾いた。
「してほしいことなんて、そんなにないよ。ただ……たまにでいいから、“心を貸してくれる”って感じが、ほしいだけ」
彼はその言葉をどう理解していいのか迷ったらしく、眉尻がほんの少しだけ落ちた。
「心ごと持って行けって言われるより、ずいぶん軽い要望に聞こえるんだけど」
「軽いでしょう? でもタカは、これすらたまに忘れるんだから」
皮肉ではあったが、刺すためのものではない。言ったあとで茉央がかすかに微笑んだことで、それが“怒りの代わりに渡す、小さな正直さ”だとすぐに分かる種類のものだった。
彼は息を吸い、吐いた。そのリズムは思いのほか静かで、諦めにも似ていたが、それ以上に、何かを決める前の深呼吸に近かった。
「貸すってさ。どうすればいい? 具体的に教えてよ。俺、下手だから、こういうの」
「バカなイケメンで背高いから下手なのは分かってるよ。でも……」
茉央は片手を伸ばし、テーブルの上で待っている彼の手をひっくり返すように掴んだ。
その仕草は“慰め”でも“確認”でもなく、ただの“合図”だった。
「聞いてくれれば、それで半分。もう半分は……返そうとか考えないで、とりあえず置いといてくれればいいの」
「置いとく?」
「うん。あなたの部屋に荷物を少し置かせてもらう、くらいの気楽さでさ」
彼は笑った。今度は本当に笑った。
いつものように照れ隠しではなく、ようやく分かった、という種類の笑いだった。
「じゃあ……今日のぶんくらいなら、貸せると思う」
「今日のぶんだけでいいよ。また明日、借りに来るから」
「明日は……貸せるかな」
「貸してよ。少しでいいから」
言葉だけ聞けばまるで冗談だが、二人の間に流れる空気は軽くなかった。
お互いに他に結婚している相手より今は、大切に、したいから。
むしろ、軽くしすぎないようにと、お互いが気を使いながら踏み出している最初の一歩のようだった。
朝の光は二人の間に、新しい線を引くように差し込んでいた。その線は、貸し借りの境界線のようでもあり、曖昧さを許すための緩衝材のようでもある。
彼はようやく冷めたコーヒーに手を伸ばした。
「今日のぶん、な。……返品不可でお願い」
「いいよ。そもそも返す気なかったし」
茉央の返事は軽く、しかしどこかで深く、心の棚にそっと置かれるようだった。
――今日もまた、少しだけ貸してもらえた。
その確かさだけが、静かに積もっていった。




