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第5話 名前のつかない微妙な

 午後の光が、カフェの白い壁に斜めの線を描いていた。陽射しは冬のものらしく、輪郭がどこか頼りなく、それでもテーブルに置かれたカップの縁だけは妙にくっきり照らす。彼女――瑞季は、指先でそれを軽くなぞりながら、目の前の相手がなにを言い出したのかを、半分だけ信じて、半分だけ信じないまま聞いていた。


「だから、その……ちょっとだけでいいんだよ」


 向かいに座る悠真は、そう言ってから、まるで追加の説明書きがないと壊れてしまう機械みたいに、もう少し言葉を継ぎ足した。


「全部じゃなくていい。話せる分だけで。ほら、あの夜の、あれ……まだ、なんとなく気になってて」


 瑞季は、瞬きをひとつした。

 そして、ゆっくりカップに口をつける。熱は引き始めているのに、飲み口の金属がほんのわずかに冷たかった。


「気にしなくていいよ。大したことじゃないし」


「その“大したことじゃない”感じが、逆に大したことって、いうか」


「……決めつけないで」


 声は柔らかかった。

 瑞季の話し方はいつだってそうで、優しい分だけ距離を測りにくい。怒っているようには聞こえないのに、踏み込まれたくない時の彼女は、こうして声の温度だけで静かに境界を引く。


「ごめん。いや、なんか、あの時の表情がさ……」


「表情?」


「うん。へらって笑ってるのに、目だけ違う方向にいた感じ」


「いないよ、どこにも」


「いやいや、いたよ。ちょっと遠くに」


 瑞季は困ったように眉尻を下げ、視線をカップの底に落とした。

 “心を貸す”なんて、そんな大げさなことじゃない。ただ、胸の奥でまだ整理の終わっていないものを、無防備に机の上へ置けるかどうか――その一点だけが、いま彼女の中で引っかかっている。


「……聞いて、どうするの?」


「どうもしないよ。ただ、知っておきたいっていうか」


「知ってどうするの?」


「たぶん、安心する。意味もなく」


 彼の言葉は、説明としては破綻していて、でも不思議と正直だった。

 瑞季は「安心」という語の柔らかい響きに、ほんの少しだけ胸の奥を開ける感覚を覚える。


「そんなに気になるほど……変だった?」


「変というか……苦しそうだった。笑ってる時より、笑ってない時が穏やかな人っているでしょ。瑞季は、逆に逆なんだよね。笑うほど、不思議と痛そうに見える」


「痛そう……?」


「うん」


 悠真は、砂糖の入っていないコーヒーを一口飲んで、苦味に顔をしかめた。

 けれど、それ以上の説明は続けない。

 説明しないまま「感じたことだけを置く」のが、彼の不器用なところでもあり、瑞季が嫌いになれないところでもあった。


「……ちょっとだけなら、いいよ」


 その言葉は、机に置いたままの片手よりも、ずっと小さな声だった。

 悠真は、息を吸う音まで慎重にして、顔を上げた。


「本当に?」


「全部は無理だからね。少しだけ」


「少しで十分」


 瑞季は、視線をゆっくり壁の光へ向けた。

 あの夜のこと。あの帰り道で、ふっと胸につかえたもの。理由はまだ形になっていないけれど、説明できないまま抱えているものの輪郭だけは、言葉にしてもいいかもしれない――そんな気が、ほんの一瞬だけした。


「怖くなったんだよ」


「……うん」


「急にね。理由はわからない。でも、あの時、人の気持ちってこんなふうに急に変わるんだって……気づいちゃって」


「気づいちゃって?」


「うん。だから、少しだけ怖かった」


 悠真は、答えを急がなかった。

 沈黙が、ふたりの間に薄い毛布みたいにかかる。

 瑞季は、机の端をそっと指で押し、言った。


「でももう大丈夫。たぶん。……だから、少しだけ貸した。以上」


「ありがとう」


「礼はいいの」


 瑞季はそう言ったが、彼の“ありがとう”は、受け取りたくないほど重いものではなく、彼女の胸にやさしく置かれる程度の軽さだった。


 窓の外を、バスがゆっくり通り過ぎていく。

 その音に合わせるように、瑞季は呼吸をひとつ整えた。

 心を貸すというのは、結局のところ、貸した瞬間に借りているのと同じなのかもしれない――そんなことをふと思いながら。


 悠真は、笑った。

 これまでのどの笑いよりも控えめで、けれど瑞季がようやくまっすぐ見返せる種類の笑みだった。


「また少しだけ、貸してくれる?」


「気が向いたらね」


「気が向く確率は?」


「たぶん……天気次第?」


「曇りの日は?」


「貸してもいいかも」


「晴れの日は?」


「忙しいかも」


「雨は?」


「……考えとく」


 ふたりのやり取りは、他人から見ればただの冗談の応酬だったかもしれない。

 けれどそのどれもが、瑞季にとっては“まだ話せる余白がある”という証拠のように思えた。


 気づけば、冷めたカフェオレの表面に、陽射しがもう一筋だけ細い線を描いていた。

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