第3話 期限にモヤッと
週の真ん中の水曜日、陽射しは弱く、曇り空の下で風だけが軽やかに流れていた。紗耶は駅前のベンチに腰を下ろし、スマートフォンの画面を何度目かもわからないほどスワイプしていた。
予定を詰め込みすぎたわけでも、特別な約束があったわけでもない。むしろ今日はぽっかり空いている。ぽっかり空いているからこそ、どこか落ち着かない気分が紗耶を上ずらせていた。
「ねえ」
隣に座る彼は、飲みかけのペットボトルを指先で転がしながら顔を向けた。
「ん、どうしたの」
「今日……予定、ある?」
「ないよ。午後からちょっと仕事するくらいで」
「ああ、やっぱり……じゃあ、少しだけ貸してほしいんだけど」
「予定を?」
「そう。ほんのちょっとでいいから」
彼は瞬きをしてから、少し笑った。
予定を貸す、という表現がどうにも可笑しかったのだろう。だが紗耶は真剣な顔だった。
「えっと……貸すって、どういう感じ?」
「なんかね、自分のスケジュールを自分だけで抱えてると、急に“今日はぜんぶ無駄になるんじゃないか”みたいな気分になる日ってあるじゃない? 多分そういう日なの、今日」
「なるほど。『このままだと一日が溶ける日』ってやつね」
「そう、それ。それをちょっと防ぎたいの」
紗耶は自分でもうまく説明できない焦りを抱えていた。
仕事も人間関係も破綻しているわけではないのに、時間がぽっかり空いた瞬間に、自分という存在まで薄くなってしまうような感覚――誰にでもあるが、言語化しづらい種類の不安だ。
彼は紗耶の手元のスマートフォンに目を落とし、画面に表示されたスケジュールをのぞき込むように身体を少し寄せた。
「じゃあ、俺の予定をちょっと分けるよ。午後の散歩と、夕方の買い物。どっちがいい?」
「選べるんだ?」
「貸し出しサービスだからね。返却義務はないよ」
「返さなくていいの?」
「予定に返却制度はないでしょ」
そんな言い方に紗耶はやっと笑った。
笑ったことで、胸の奥に詰まっていた膜がふっと薄くなる。
「散歩のほう、借りてもいい?」
「もちろん。どのくらい歩く?」
「あなたがいつも歩く距離でいいよ」
「それ、結構長いけど大丈夫?」
「むしろ長いほうが助かる」
紗耶はベンチから立ち上がり、バッグの紐を肩にかけながら言った。
「今日ってさ、なにもしないでいると、自分が何にも属してない気がしてくるの。仕事にも、生活にも。“どこにも入ってない箱”みたいな感じで」
「……紗耶」
「だから、ちょっとだけ誰かの予定に混ぜてもらえると、箱の外に出られる気がするの。変な理屈だけど」
「変じゃないよ」
彼はすぐに否定した。
否定というより、その考えをそっと包むような声だった。
「俺だってあるしね、そういう日。自分の時間なのに持て余して、自分という物体を持て余すみたいな」
「あるんだ?」
「あるよ。たまにね。でも、誰かと歩くと不思議と消える」
紗耶は少し安堵したように息を吐き、彼の後を歩き出した。
駅前の雑踏を抜けて並木道に入ると、風が木々を揺らし、葉のこすれる音が静かに世界を薄めていく。人の声よりも自然の音が多い場所だった。
「ねえ、さっきから思ってたんだけど」
「うん?」
「予定ってさ、自分のためにあるんじゃなくて、誰かの『外側』になるためのものでもあるんだね。こうして一緒に歩いてると、そう思う」
「外側?」
「うん。自分だけだと狭い箱の中にいるみたいなのに、誰かのスケジュールと重なると、途端に窓が付く、みたいな……変な感じ」
彼は少し考えてから言った。
「それ、けっこう本質な気がする」
「本質なの?」
「俺たちって多分、予定そのものより、『誰かが自分の時間を分けてくれた』っていう事実のほうが大事なんだよ。貸し借りって、そこにあるんじゃないかな」
「たしかに……そうかもしれない」
ぽつりとつぶやいた紗耶の声には、さっきまでの落ち着かなさが残っていなかった。
歩幅が合い始め、無言の時間が続いても気まずくならない。むしろ無言のほうが、借りものの予定がやさしく馴染んでいく。
「ねえ」
「ん?」
「今日の散歩、どこまで行く?」
「俺のいつものコースだと……川の手前まで」
「じゃあ川まで行こう」
「いいよ。川、好きだもんね」
「うん。予定借りたから、今日は好きなところまで行ける気がする」
紗耶はそう言って微笑んだ。
貸し借りというほど重くもなく、遠慮もいらない。
ただ、誰かの時間の一部をそっと受け取り、自分の空洞に当てはめてみる――それだけで、一日の輪郭はこんなにも変わる。
川に近づくにつれて風は涼しく、空の色は少しだけ明るくなっていた。
時間を借りるという行為がこんなにも気持ちを軽くするものだと、紗耶は今日初めて知った。
そして、返さなくていいと言われたその予定は、彼女の中で静かに形を変え、
――“今日が無駄にならない何か”へと変換されていった。




