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第2話 なれ合い友達からは⋯⋯

 ドアの前に立った瞬間、春生はほんの少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。夕方の光はまだ残っているのに、廊下だけは理由もなく薄暗く、古いアパート特有の匂いが空気に沈んでいた。

 呼び鈴を押すと、ワンテンポ遅れて、あの落ち着きのない足音が近づいてくる。


「はる、来るの早くない?」


 ドア越しの声は、夕方の空気よりも軽く、それでいてどこか探っているような響きがあった。

 小さな鍵の音がして、芽衣が顔を覗かせる。いつものように髪をざっくりまとめているのに、たぶん急いで整えたんだろう、前髪だけが妙に素直に揃っている。


「入っていい?」


「んー……ちょっと待って」


 そう言うやいなや、芽衣はドアを半分だけ閉めた。

 中から、なにかを慌てて隠すような紙の擦れる音や、布のかすかな引きずり音が聞こえてくる。

 春生は、細い廊下にひとり取り残されたみたいな感覚に包まれ、肩にかけていたリュックの紐を無意味に握り直した。


(隠し事、してるんだろうな)


 芽衣がそういう人間ではないことは知っている。

 本当は隠したいんじゃなくて、見せるのが恥ずかしいだけだということも。

 だけど、それを“隠し事”と呼んでしまいたくなるほど、春生の胸のざわつきは収まりきらなかった。


「ごめん、ごめん。ちょっと散らかっててさ」


 芽衣は、やっとドアを開けた。

 “散らかっている”というより――“散らかり終わる前に蓋だけ閉じられた部屋”みたいだった。机の脇には布で覆われた何かの山があり、床には読みかけなのか閉じたままなのか判断できない本が無数に転がっている。


「……片付け、途中?」


「途中にも届いてないかも」


 芽衣は自嘲気味に笑った。

 その笑い方が、春生の胸にまたひっかかる。

 笑うべき場所で笑っていないときの芽衣は、どこか少しだけ、息の仕方を忘れた人みたいになる。


「で、入っていいの?」


「いや……今日、部屋は貸せない」


「え?」


 言われてみれば、芽衣はドアを開けていても、身体だけは外側に残したままだった。

 春生は、曖昧な言い方を理解する前に、少しだけ傷ついたように首を傾げた。


「ごめん。いや、ほんとに……今日はダメ」


「掃除しなくていいよ。別に散らかってても」


「違うの。散らかりとかじゃなくて」


「じゃあ、何?」


 芽衣は短く息をつき、目を伏せた。

 春生の視線を受け止めるのが難しいとき、彼女はよくこうして一度まぶたの裏に逃げ込む。


「……気持ちが片付いてないんだよ、部屋よりも」


 その言葉は、春生の胸に思った以上に静かに落ちてきた。

 怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。

 ただ、誰にでも触れられたくない場所をそっと両手で覆っている――そんな声音だった。


「なんかあった?」


「ううん。なんか、ってほどのことじゃない。……ただ、今日は誰にも触られたくない感じ」


「触られないよ」


「ううん、はるだと触るよ。無自覚に」


 春生は言い返せないまま、思わず目をそらした。

 確かに、自分は芽衣に対していつも無自覚だった。

 距離が近くなると、つい甘えるようなことをしてしまう。

 それを芽衣が拒まないからといって、自分の振る舞いが彼女の内側を平気で踏んでいた可能性は、ゼロではない。


「……怒ってない?」


「怒ってないよ」


「嫌いになった?」


「はるを嫌いになるのって、相当エネルギー要るから無理」


 芽衣の言葉は軽いが、嘘ではなかった。

 少なくとも春生には、そう聞こえた。


「じゃあ……今日は帰ったほうがいい?」


「そうしてほしい。来てくれたのにごめんね」


 春生は、ほんの少しだけ息の位置を失った。

 拒絶でもなく、歓迎でもなく、その中間に浮かぶ“いまは貸せない”という言葉。

 それは、大切にされていないわけではなく、むしろ“大切だからこそ距離を置きたい”という丁寧な拒み方だった。


「……わかった。帰る」


「また明日ね」


 芽衣は小さく手をふった。

 その手の動きに“本当にまた来てほしいのか”という迷いがわずかに混じっていて、春生の胸に刺さったのは、言葉よりむしろその揺れのほうだった。


 階段を降りる途中、春生はふと立ち止まった。

 芽衣の部屋の前からは、もう何の音もしない。

 閉まったドアの向こうで、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。


(貸してくれなかった、か……)


 たったそれだけの出来事なのに、胸の奥に小さな穴が開く。

 でもその穴も、きっと明日には少しだけ塞がるのだろう。

 芽衣が素直に部屋を貸せる日が戻ってくる程度には、ゆるやかに。


 外に出ると、夕陽が沈む前のわずかな橙色が、街をかすめていった。

 春生はポケットに手を突っ込み、息を吐く。


「……明日は明日だな」


 今日貸してもらえなかった分まで、明日はきっと少しだけ温かい。

 そんなふうに思いたくなる空の色だった。

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