第1話 大家のジャッジは?
引っ越しを考えはじめたのは、朝の光がやけに部屋の隅を白く照らしていた日だった。
ワンルームの狭さに飽きたわけではない。
ただ、あの部屋が、自分の身の丈に対して妙に“余裕のなさ”を映すようになったのだ。
新しい物件を探しに不動産屋へ行くと、担当の女性・中村が書類を揃えながら柔らかく笑った。
「こちら、人気の物件でして……今日もすでに問い合わせが何件か」
「大家さんって、どんな感じの人なんですか?」
「うーん、そうですね。慎重な方、です」
その微妙な言い方に、
“貸すか貸さないかはわからないけれど、
とりあえず見に行ってみましょう”というニュアンスが透けていた。
物件は駅から徒歩八分。
建物は古いが、廊下には植物が並べてあり、誰かが丁寧に住んでいる空気があった。
案内されたのは角部屋だった。
窓から入る風は静かで、壁紙には小さな影が柔らかく揺れていた。
「ここ、いいですね」
そう言うと、中村は少しだけ戸惑うように笑った。
「気に入っていただけたなら嬉しいんですが……
実は、この部屋の大家さん、
審査で“人柄”をすごく気にされるんです」
「人柄?」
「そうなんです。書類だけじゃなくて、
お人柄を見て判断されるタイプで……今日はお会いできます」
案内された先には、白いシャツを着た高齢の大家・大森がいた。
品のある顔立ちで、目は優しそうだが、
何かを判断する癖を長く続けてきた人特有の沈黙をまとっている。
「どうぞ」
その一言だけで、貸す意思があるのかどうか、まだどちらにも転ぶ余地があるのがわかった。
「お仕事は?」
「会社員です」
「勤務は長い?」
「六年です」
大家はうん、と頷きながら、言葉よりも間を慎重に扱っているようだった。
「騒がしいのは好きじゃなくてね」
「静かに暮らすつもりです」
「夜更かしは?」
「……まあ、ほどほどに」
その答えに、大家は薄く笑った。
“正直かどうか”を試していたのだと気づく。
「良いですね。正直なのは、安心します」
中村が横で小さな安堵の息をついた。
—ああ、この部屋、貸してもらえるかもしれない。
そんな期待がふと胸に浮かんだ、そのときだった。
「もうひとつだけ」
大家は真剣な顔でこちらを見た。
「人を、頻繁に泊めたりはしませんね?」
予想より深く突っ込んだ質問に、返事が一瞬遅れた。
その“間”を、大家は敏感に受け取ったらしい。
「いえ……まあ、たまに」
「たまに?」
「月に一度あるか、ないか、くらいで」
その曖昧さを含んだ答えを、
大家は黙って噛みしめるように聞いていた。
「——今回は、見送らせていただきます」
静かに、しかし揺るぎなく、そう言った。
「え……」
中村が声を失う。
こちらも言葉がすぐには出てこなかった。
「すみません。
部屋というのは、貸す側と借りる側の“距離感”が大事なんです。
あなたは、正直で良い方だと思う。
でも……“自分だけの生活”と“他人との生活”を
きっちり分ける感覚が少し薄いように見えた」
核心を淡々と突かれた。
痛いほど静かな拒絶だった。
断る理由を、人格否定になるほど強い言葉で言わず、
しかし逃げ道も残さない“やわらかい拒み方”。
その技術を長く磨いてきた人の言い方だった。
「僕は……そんなに迷惑かけないつもりですが」
「迷惑とは限らないのですよ。
ただ、私の物件はそういうことに敏感な方が多くてね。
ごめんなさいね」
ごめんなさい、と言われたのに、謝っているようには聞こえなかった。
その丁寧な拒絶の空気の前で、こちらは何も言えなくなる。
貸してもらえなかったのに、 理不尽に怒るほどの理由もない。
だけど、静かに胸の奥を押されるような痛みだけが残った。
「行きましょうか……」
中村がそっと促し、二人で建物を出た。
外の風は妙に明るく、期待がひとつ消えたあとの空いた場所をやけに軽く撫でていった。
駅へ歩く途中、中村がつぶやいた。
「すみません……ほんとに、惜しかったんですが」
「僕の答え方が、悪かったんですね」
「いえ……正直に答えてくださったの、私は良かったと思います。
あの大家さん、“曖昧さ”をすごく嫌うんです。
少しでも見えない部分があると、不安になるタイプで」
東山はゆっくり息を吐いた。
貸す・貸さないの境目は、必ずしも良し悪しで測れるものじゃない。
ただ、その人の尺度に合うかどうかだけなのだ。
「……まあ、縁がなかったんですね」
そう言うと、中村は微笑んだ。
「きっと、ぴったりの場所ありますよ。
“たまに”を許してくれるところが」
その言い方が、ほんの少しだけ救いになった。
その夜、今のワンルームに帰ると、部屋の狭さが前より少しだけ優しく思えた。
拒まれた痛みは残ったままだが、それが不思議と、
“生活のほうが自分を選び直した”みたいな感覚に変わる瞬間があった。
借りたい場所に拒まれる日もある。
でもそれは、自分が悪いわけではなくて、ただ、その部屋が“違う人を待っていた”というだけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、
電気をつけずに、しばらく窓の外の光を眺めた。




