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私は見て、彼は見誤った

作者: 妙原奇天

 雨はやんでいたが、路面はまだ暗く濡れていた。

 街灯が作る円い光の中だけ、世界が少し明るい。円の外には何もない。そこに私の足音と、もうひとつの足音が続く。


 最初に彼を意識した夜から、私は歩き方を変えた。

 歩幅を半歩だけ縮め、角で必ず躊躇し、横断歩道の白線を踏む前に一拍置く。

 後ろの男は、必ず真似をした。距離は十メートル。縮まりすぎず、離れすぎない。私が作る“間”に、彼は安心して入ってくる。


 警察へは三度行った。

 名前は? わからない。接触は? ない。暴言は? ない。

 「気をつけて帰ってくださいね」と言った窓口の人は、まっすぐで優しい目をしていた。それがいちばん堪える。

 気をつける方法がない道で、どう気をつければいいのか。


 遠回りの路地へ入る。商店街のシャッターは濡れた金属の匂いを放ち、看板の反射が地面に長い帯を作っている。

 私は帯の上だけを踏む。

 彼も、そうする。

 視界の端で、スマホの光が明滅する。画面に映ったのは、駅前で振り返る私の横顔だった。撮られた覚えのない角度。

 喉の奥に氷ができる。

 ここ数週間で覚えた感覚――恐怖は足を速めるが、足音の主は必ず速さを合わせる。だから私は、速くしない。等速で歩く。呼吸だけを変える。吸う三拍、吐く二拍。彼の呼吸は乱れ、四拍になる。


 踏切まで、あと五分。

 私はそこまでの道を、ここ数日、回数を重ねて身体で覚えた。

 雨上がりに発光する横断歩道、ポストの赤、駅看板の青。

 そして――線路の向こうにある駅ホームのいちばん端。照明に照らされて、いつも人影があるように見える場所。

 じっと見ればただの光の塊。だが、薄目で見れば、誰かが立っているように見える。


 彼は視線を追う人間だ。

 信号待ちの間、私は斜め上の防犯カメラを見る。彼も見る。

 掲示板の落とし物コーナーを見れば、彼も見る。

 “向こう側”に目線を固定すれば、彼は必ず同じ方向を探す。

 そこに誰がいるのか、誰もいないのかの区別は、焦っている人間にはつきにくい。赤い光が点滅すれば、なおさらに。


 踏切が近づく。

 線路へ向かう風は、いつもひとつの匂いを運ぶ。砂鉄のような、冷えた鉄の匂い。

 私は、今夜は立ち止まらないと決めていた。

 いつもなら左右を見て、音を数え、行き交う人の気配を確かめてから渡る。それをやめる。

 黄色い線の手前、つま先が線の影に触れる直前――そこで、首だけを傾ける。

 線路の向こう、駅の端。

 誰かが待っていると信じたい人のための、視線の角度。


 最初の警報音が、雨水の残る地面を震わせた。

 赤い点滅が濡れた路面で増殖する。

 私は線の内側に入らず、線のぎりぎりに立つ。

 肩を落とし、体の向きをわずかに斜めへ。

 視線は向こう。

 彼が足を速める気配が背中で膨らむ。

 息がふたつ分、私の後ろで乱れた。


 遮断機が動き出す前に、彼は声を出した。

「そこ、誰がいるの」

 音に飲まれて、言葉は半分しか聞こえない。

 私は振り向かない。

 かわりに、視線をほんの少しだけ上げる。ホームの端の照明のにじみ――あれが、人影に見える光の縁。

 彼はもう一歩、近づく。

 私の肩の横に、彼の肩が並ぶ。

 遮断機が腰の高さに落ち、通路が切り取られる。


 彼は遮断機をくぐれる、と知っている人間の動きをした。

 私のすぐ脇、私と線路のあいだ――この数日、彼がいつも狙っていた距離。私の前へ出たい。私の見ている“誰か”を確かめたい。その欲が、足を線の上に運ぶ。

 私は半歩、横にずれる。譲る動き。

 彼が私の位置に入る。

 赤い点滅が彼の頬を濡らし、瞳孔がすこし開く。


 風が、来た。

 音より早く、線路からの風は首筋に触れる。

 私はわずかに身を引く。線から半歩、外側へ。

 彼は前を向いたまま、遮断機を手で押し上げようとする。

 私は、見ているふりを続ける。

 向こうに誰かが立っている。

 そんなふうに。

「誰だよ――」

 怒鳴り声は、次の拍で完全に飲み込まれた。


 光が、細かく切れる。

 長い金属の塊が、視界を黒く区切っていく。

 誰かの靴音、短い吸気、誰かの叫び。それらすべての輪郭が崩れ、音はひとつの帯になる。

 私は目を閉じない。

 線の外側に重心を置いたまま、ただ、世界が通り過ぎるのを待つ。


 最後尾の赤が遠ざかる。

 音が少しずつ戻る。

 遮断機はまだ下りたままだ。

 私の右側にあったはずの気配は、もうない。

 濡れた路面に、赤い点滅が薄く散っている。

 私は一歩だけ下がる。

 誰かが駆け寄り、誰かが「救急車」と叫ぶ。

 私は自分のコートの袖口を見つめる。雨粒が一つ。風のせいだ。そう思えば、そうなる。


 ***


 翌朝。

 踏切には規制線が張られ、警察官と鉄道会社の職員が検証をしていた。

 新聞には「視界不良による事故」と見出しが出ていた。


 近隣の住民が口を揃える。

 「夜は眩しいんですよ。ちょうどホームの端のライトが、線路の向こうに立ってる人影みたいに見えるんです」

 「しかも昨夜は雨上がりで、光が路面に反射して距離が狂う」


 その光が、彼の目には“誰か”に見えた。

 私が見ていたのは、ただの照明。

 けれど、彼には“男”だった。

 そう思い込むには、十分だった。


 警察官が言った。

 「カメラ映像が少し途切れていてね。南側の柱の影で、視界が死角になる」

 「遮断機が降りたあとにくぐる姿は映っていたが、その直前の動きは不明瞭だった」

 「彼女(=私)は線の外にいたようです」


 私はうなずいた。

 質問は淡々としていて、答えやすかった。

 怖くて、振り向けなかった。

 それが私の答え。

 事実の中に嘘はなかった。

 ただ、真実を全部言わなかっただけ。


 現場にいた警察官が、遮断機の影を指さした。

 「この位置、カメラが届かない。踏切の角度が少し歪んでるからね」

 「まあ、夜は判断を誤る人も多い。光が反射して距離が狂うんですよ」


 私は微笑んだ。

 「そうですよね、雨のあとって見づらいですし」

 それで会話は終わった。


 現場検証が終わるころ、風が吹いた。

 遮断機の鉄骨が鳴る。

 その音が、あの夜と同じ拍で響いた。


 誰も気づかないだろう。

 私がどの角度で立ち、どんな呼吸で視線を動かしたかなんて。

 風と光と錯覚の中で、彼は自分の意思で線を越えた。

 そう見える構図を、私はただ作った。


 ***


 夜、家に帰る。

 テレビでは事故のニュースが短く流れた。

 「雨上がりで視界が悪く、遮断機をくぐった男性が――」

 それだけ。

 私はリモコンで音を消した。


 窓を開けると、外の空気は少しだけ冷たかった。

 遠くで電車の音がした。

 私は、その音に呼吸を合わせた。


 カーテンが、風で少しだけ揺れた。

 その揺れ方を、私は知っている。

 誰もいない方向へ視線を送る。

 そして、微笑む。


 世界は今夜も、最初から静かだ。

 ただ、少しだけ静かすぎる。

 私は鍵を閉め、金属の音を聴いた。

 それが、終わりの合図だった。


【添付・踏切事故報告書 抜粋】


日時:10月18日 22時43分頃

場所:市道第3号線南踏切

概要:男性(35)遮断機作動中に進入、下り列車と接触。即死。

現場:雨上がり、照明強度高。線路南側に死角あり。

目撃者(女性)は線の外側に立ち、事故発生時は無動作。

推定原因:誤認による錯覚性進入。

備考:女性の供述一致。事件性なし。


風がまた吹く。

報告書の紙がわずかに揺れる。

私はその上に手を置き、静かに目を閉じた。

外では、また電車が通り過ぎる音がしていた。

私は数えなかった。

数えなくても、拍は身体が覚えている。


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