魔王様と窓の月・後
私を哀れむ一方で、思い留まらせ人間界へ戻るようにと猫の獣族である女中頭は、それは恐ろしい顔で諭すように『隷属』に付いて教えて下さいましたが、私に取りましては正に一縷の望み、一筋の希望でございました。
それからは必死に旦那様の隷属にして下さるようお願いを致しましたが、普段はお優しい旦那様が初めて厳しいお顔をされてお叱りになられました。
窓硝子に罅が入る程怒鳴られましたのも初めてでございます。
最初は全く取り合っては下さらない旦那様でしたが、少しでも私に情けを下さるなら、哀れに思って下さるのならばと、泣いてお願い致しました。
六歳の頃より襤褸を纏い攫われた身でございますので、形振り構う必要もありませんし、二度と旦那様とお会いする事も叶わなくなるのであれば、人間界へ戻った所で生きていく意味がございません。
幾度叱られようとも怒鳴られようとも、旦那様のお傍に居られるのであればいかようなお咎めでもお受け致します。
弱く脆い人間の私ではございますが、それでも決して譲れない物があるのです。
私の揺らぐ事の無い決心に、とうとう旦那様が折れて下さいました。
魔王様の許し無く隷属の契約を交わす事は禁じられている為、先ずは魔王様のお許しを頂く必要があると、主の命に従わない召使に渋面を浮かべ仰られました。
そして旦那様は厳めしいお顔に笑みを浮かべられ、更に私にこう仰られたのです。
「爵位があると言えど男爵止まり。誇れる程の魔力も無く、強く美しくもない俺に生涯を捧げるのか。況してやお前は、当初臨時食として面倒見ていただけと言うのにか?」
「存じておりました。幼心にも、旦那様や大旦那様が私達をただ面倒見て下さっていた訳では無い事を。それでも、ずっとお傍に居たいのでございます」
「愚かな人間の娘だなぁ」
その時の私の喜びをどのように表現したら良いのでございましょうか。
散々泣いてお縋りしていた為に瞼は腫れ、ただでさえ平凡な顔が一層見られない状態ではありましたが、そんな私を旦那様は優しくあやして下さったのでございます。
それから数日後、魔王様に謁見する機会が設けられました。
流石に、召使の衣服では問題あるとの事で、若草のように瑞々しい翠の色をしたドレスを旦那様より頂きました。
『お前の瞳も髪も一層映える』
顔を背けながら仰られる旦那様のお耳が薄く色付いていた事は、私だけの嬉しい秘め事でございます。
そうして緊張しながらも、これから旦那様と共に過ごせるかもしれない期待に胸を膨らませ、私は旦那様に連れられ魔王殿へと向かいました。
魔王様のご理解が賜れるか否かで、私の人生が決まります。
魔王の間では、取り成して下さいましたシャイアマティウ大公様と魔王様の宰相を務めていらっしゃるイシュアレナ大公様、そして玉座には魔王様がいらっしゃいますが、許しも無く顔を上げる事は出来ません。
魔王様、そしてシャイアマティウ大公様とイシュアレナ大公様へご挨拶をされます旦那様の低くも浪々とした声にうっとりと聞き惚れておりました所、恐れ多くも魔王様直々にお声を掛けて頂きました。
「えーっと……カレアーニャさん? 顔を上げて下さいな」
魔族の方々は大変誇りが高く、爵位を持たれる程高位な魔族ともなれば、その誇りは尚高くなるものでございます。
人間である私に敬称を付けられて呼ばわれる事にまず驚き、そしてそのお声が幼い事、尊大な欠片も無く私を気遣うような優しい響きである事に驚きました。
許しを得た私は顔を上げ、魔王様のお顔を拝見して更に驚いたのでございます。
正面の玉座に座るからには確かに魔王様なのでしょう。
シャイアマティウ大公様とイシュアレナ大公様が両脇に控えておりますから間違えようはございませんが、玉座にお座りになられている魔王様は、人間でも成人に満たない幼い子供のお姿をしていらっしゃいました。
子供特有の幾分高くも愛らしいお声で、魔王様は直接私に問い掛けていらっしゃいます。
「本当にゼシェアラル男爵の隷属になりたいの……かな? 人間界へ戻る不安があるのなら、生活が成り立つまでは面倒見るつもりでいるんだけど。魔族の隷属になるという事は、その命を支配される訳だし……もう少しじっくりと考えた方が良くない?」
「とんでもございませんっ! 旦那様のお傍に、常に、共に居られるのであれば、私の命を幾らでも捧げる覚悟はございますっ! 命捧げる覚悟も無く、純潔を捧げる事等できましょうか」
私の言葉に魔王様と大公様方の視線が一斉に旦那様へ向けられましたが、どうしても私は魔王様へご理解賜りたく、自分の立場も弁えるのを忘れて尚必死に訴えました。
「先のオルギア期では、泣いて縋る私を哀れに思われお情けを頂く事も叶いました。その時の旦那様のお優しい気遣いに、私は至福の喜びを得たと同時に、女の悦びも教えて頂いたのでありますっ! これ程までに旦那様をお慕いしていながら、何故人間界へ戻らねばならぬのでしょうか。例え人間界に戻ったとしても、旦那様以上の男性に等巡り合うはずもございませんっ! 純潔を捧げた際にも旦那様は優しく気遣って下さる所か、不慣れな私へ時間を掛けて女の悦びを手ずから教えて下さったのでございます。人間界でも、これ程お優しい方はおりませんっ! 女となった後も旦那様への恋しさ故に寂しく思う日は、閨へとお呼び下さるお心遣いをお持ちでらっしゃいます。叶うのであれば……叶う事ならば、私は旦那様のお子を授かりたいのでございますっ!!」
「カレアーニャ!!」
兎に角魔王様へご理解賜らねければとの思いの余り、力を込め訴えてましたが少々息切れと眩暈を覚えた所に、頻りに私を呼び掛けていらした旦那様が少々声を上げられ、はたと我に返り私は青褪めました。
立場を弁えもせずに、魔王様へ言い募ってしまいました。
魔王様にお叱りを受けるのではと旦那様を見れば、厳めしいお顔が珍しくも真っ赤となられ、その困ったような恥ずかしそうなお顔に私は目を瞠りました。
コホンコホンと聞こえる咳払いに正面を見やれば、顔を赤らめた魔王様が眉を寄せられ物憂いな表情をされておられます。
私の思いは未だ魔王様へは届いてないかと焦り、無礼を謝り改めて思いを訴えようとした所、慌てて魔王様が遮られました。
「やっ! 気持ちは十分、ほんとに十分っ伝わったから。うん……その、詳しい内容はゼシェアラル男爵と二人きりの時でお願いします」
一つ咳払いした後、魔王様は額を押さえられ『参ったな……』と呟かれておりましたが、何に参ったのでございましょうか。
「あー…………」
魔王様は言葉を探されているご様子でしたが、ほとほと困り果てた表情を見て、私はやはり人間界に戻されるのかと思い、知らず知らず涙が溢れてまいりました。
私の流れる涙に魔王様はぎょっとされ、切羽詰ったように口速に許可を下さったのでございます。
「許す! 許すから、泣かないでっ!!」
「魔王様っ!」
思い掛けない魔王様からのお言葉に嬉しい思いが募る私の隣では、旦那様が慌てたご様子で魔王様へ訴えますが掌で遮られておりました。
「隷属に付いては許可します。本人がこれ程望んでいる以上、許可をしない理由も無いし、馬にも蹴られたくないし。それにねぇ? …………………………ねぇ?」
異様に長い間を持たれた魔王様のお言葉に、旦那様が厳めしい顔を更に厳めしくされて首筋まで真っ赤に染められておられます。
生涯の内、一度見られるかどうかと思われる、非常に貴重な旦那様でございました。
何故か、お二人の大公様までも重々しく、そして深く頷かれていらっしゃいます。
「実際に、隷属とするかは本人同士で決めて? まぁ……アレよね。ここまで女に言わせたんだから、男の甲斐性を見せるべきじゃない?」
「……恐れ入ります……」
魔王様のからかい混じりのお声に、大きな体を小さくされて深く頭を下げられる旦那様。
誰も居ない閨であれば、今直ぐにでも抱き付いてしまいたい程愛らしい私の旦那様でございます。
「隷属した際には改めて報告するようにね。以上」
私は、魔王様への深い感謝を込めて頭を下げた後、旦那様に連れられ魔王の間を後にしたのでございます。
その後、私は晴れて旦那様の隷属となり、改めて魔王様へご報告した際に、魔王様が直々に魔力を注がれた首飾りをお祝いにと頂きました。
魔石となる鉱石は濃い翠に星の煌きが輝く、大変高価な物でございます。
隷属となりましても、死や寿命が異なるだけで他は人間と変わりございません。
万が一にも怪我を負わないようにと、魔王様のお気遣いで頂いた貴重な魔石でございます。
あの日から数年が経ち、未だ成熟は成されて無い魔王様が在位されてから始めて訪れたオルギア期。
四週間に亘る魔族の繁殖期では、片時たりと旦那様のお傍から離れる事も無く、至福の時間を過ごせたのでございます。
お陰様で、念願が叶い旦那様の子を宿す事が出来ましたし、旦那様も変わらず寡黙で厳めしいお顔をされておりますが、大変お優しくして下さる事も変わりがございません。
本当に、魔王様には感謝の言葉が尽きないのでございます。
サブタイトルは『人の恋路を邪魔する奴は窓の月さえ憎らしい』の都都逸より。
魔王が馬に蹴られるのも様にならないので、タイトルは窓の月と致しました。