イトシイトシト イウココロ
『人は口付けを交わすと喜ぶものなのだろう?』
魔王様よりお許しを頂き、晴れて隷属の身となった私に旦那様がそう仰られて口付けて下さりました。
魔族とは肌は重ねても情を交わす事は少ないそうでございます。
繁殖期は勿論、子を成す為に交わる訳ですが、繁殖期以外ですと道楽や娯楽の為に、食事の為にが主であって、心通わせた結果肌を重ねるという感情が薄いのだそうです。
中には人間のように互いに愛情を持つ間柄になる方もいらっしゃるようですが、情を持つといってもせいぜいが仲間意識が強まるといった所が殆どなのだそうです。
ですので、魔族の方は基本的に情に伴う触れ合いという行為を致しません。
人間であれば、久し振りに会った知人と握手を交わしたり、親しければ抱擁を交わしたり、頬を軽く合わせたりと挨拶しますが魔族の方達は致しません。
旦那様は、隷属となった私を労わり気遣って下さいます。
そのお気持ちだけで胸が一杯になります。
本当に素晴らしい旦那様の隷属となれて良かったと、お許し下さった魔王様、旦那様には感謝が尽きません。
「……なぜ、泣くんだ。嫌なのか」
顔を上げた旦那様は憮然とした表情で私を見下ろされました。
「嫌ではありません。嬉しいです。嬉しいのですが……」
「……ですが、何だ」
「なぜ、旦那様は人間が口付けを交わすと喜ぶとご存知なのですか?」
熱くなる両目を頻りに瞬いて堪えながら問い掛けて見上げた旦那様は、言葉に詰まられた様子で僅かに顎を引かれました。
「旦那様は、旦那様はっ……どなたか人間の娘と口付けを交わして喜ばせて差し上げたのですか?」
「違うっ!」
旦那様は思わずとばかりに声を上げられましたが、人間は痛い所を突かれると声が大きくなる事が多々ございます。
普段は寡黙で穏やかな声音で話される旦那様なのに、声を上げられるだなんて。
やはり人間の娘と睦まじくされていたのかと思うと、堪え切れずに涙が溢れて止まりません。
「泣くな! 違うと言っているであろうが!」
「ですが……」
旦那様は爵位を頂く程のお力をお持ちですので、繁殖期ともなれば数多の魔族と交わるのも承知しておりますし、人間であった頃はお忙しそうに繁殖期を過ごされていたのもよく見ておりました。
力ある上位魔族の努めである事は重々承知してますし、物心ついた頃から当たり前でしたので、旦那様が繁殖期に他の魔族と交わる事には抵抗はございません。
ただ、贅沢を言えるのであれば、繁殖期の内一日だけでも一度だけでも構わないので共に過ごせる時間があればと願うのみでございます。
不思議と魔族の方達と過ごされる事には何も感じないのですが、旦那様が私以外の人間の娘と仲睦まじくされていたのかと思うと、浅ましくも切なさで胸が張り裂けそうになるのです。
これが世に言う嫉妬という物なのでしょうか。
溢れてくる涙を俯き袖で押さえていた私を、旦那様が溜息を零しつつ胸元へ抱き寄せて下さいます。
隷属となったばかりでありながら、早々と旦那様のお心を煩わせてしまい呆れ果ててしまわれているのでしょうか。
そう思えば思う程、涙は止めようもなく溢れてしまいます。
「人とかつて口付けを交わした事も無ければ、肌を合わせた事も無い。お前だけだ。馬鹿者」
頭の後ろに添えられた大きな手は優しく感じるのに、旦那様を見上げようとしましたが全く動けません。
「……あの……」
「主の気持ちを察するのが隷属だ。逐一口にさせるな」
「……申し訳ございません」
現金ではありますが、旦那様のお言葉を聞いてピタリと涙が止まってしまいました。
同時に、早とちりしてしまった自分が恥ずかしくて頬が赤くなってまいります。
「余り泣くな。涙も魔力だ。お前はまだ、魔力が体に馴染みきれてないから、泣けば魔力が減る一方だ。早く魔力を身に取り込む事を覚えろ」
身を屈まれた旦那様が耳元で囁かれます。
私を抱き込まれる太い腕や、添えられる大きな手から伝わる温もりが心地良く、一方で旦那様の低く静かでありながらお腹の奥深くに響くお声に気恥ずかしさを覚え、身じろいでみましたが旦那様の腕は強くないのに動けません。
「旦那様……」
「察しの悪い隷属への仕置きだ。大人しくしていろ」
旦那様からその様に仰られてしまえば身動きする事も憚られ暫く大人しくしてはおりましたが、何やら動悸は早まってまいりますし、体は火照ってまいりますし、嬉しく思うべきなのか困り果てるべきなのか自分の気持ちをも持て余しながら、優しいお仕置きを受けて一晩を過ごしたのでございます。
後に気が付く事ではありますが、あの夜隷属となったばかりの私が泣き出してしまった事を気遣い、ただでさえ少ない魔力が減ってしまった為に旦那様がゆっくりと魔力を与えて下さったのでございます。
本当に素敵な旦那様の隷属となれて、私は幸せ者でございます。
隷属となって数年が経ったある日の事、旦那様のお部屋の掃除を猫族の女中頭であるエルヴィアーザ様と共に務めておりました際、旦那様には不似合いな桃色と白で装飾された本が本棚の隙間に落ちていたのを見つけました。
表紙は人間の男女が見つめ合い熱く抱擁をしている絵が描かれております。
「……人間の本?」
「おや。懐かしいねぇ……確か、お前さんが隷属となった頃に旦那様が魔王様から頂いた本だよ」
「魔王様から?」
手に持った本を見たエルヴィアーザ様が笑いながら教えて頂いた話によりますと、人間の女性の気持ちを少しでも理解するようにと、旦那様の為に人間界より魔王様がわざわざ取り寄せられた恋愛小説の内の一冊なのだそうです。
パラリと頁を捲って少し読みましたが、少々熱烈な内容のように思われます。
「魔王様から頂いたからと全てお読みになられたようだけどねぇ。面白そうだから私達も読ませてもらったんだが、人間ってのは本当にこういう事一々しているモンなのかい? もう、可笑しくって可笑しくって」
際どい恋愛小説のようですが、エルヴィアーザ様を始め魔族の方にとっては笑い話として読めたご様子です。
「暇な時にでも読んでみたらどうだい? 他の本も確か別の者が持ってたはずだから、言えば貸してくれるだろうよ」
止まった手を再び動かして掃除を済ませた後に、エルヴィアーザ様のお言葉に甘えて旦那様から本を譲り受けた女中の方に貸して頂きました。
旦那様がお戻りなられるまでの一時、ゆっくりと本を読み進めていく内にふと隷属になったばかりの頃を思い出してしまうのであります。
旦那様からの思い掛けない言葉や仕草に何度も涙を流しては困らせてしまいました。
再び文字に目をやると、思い合った男女が熱く口付けを交わしており、思わず頬が緩んでまいります。
その時、扉が開き戻られた旦那様が部屋へ入ってらっしゃいました。
「まだ起きてたのか。何をし…………」
旦那様は私が手にしていた本を見た途端に口を閉ざされ、いきなり踵を返されると部屋を出てしまわれました。
「旦那様っ。旦那様、どちらへ」
慌てて追い駆けましたが、心做しか顔を赤くして逃げるように屋敷から出てしまわれた旦那様は、その晩お戻りになられませんでした。
『人は口付けを交わすと喜ぶものなのだろう?』
戀という字を分析すれば いとしいとしと言う心
【糸し糸し(=愛し愛し)と言う心】




