魔王様付侍女の記録 ■ 03
蛇族カナワシル侯爵家シアンゼーカの章
ワタクシの名は、蛇族カナワシル侯爵家当主の第一子シアンゼーカと申します。
我が長は蛇族のみではなく、獣族、鳥族、淫魔族を除く他の一族をも取り纏められておられるお方でございます。
その数は三大公配下の数を合わせても優に超え、その数からしていかに我が長が束ねる能力に優れ、且つ魔王様より信を得られているかがこれだけでも伺い知れるというものでございます。
また、魔王様のお口に運ばれる物、身に纏う全ても我が長が采配を振るっております。
時折、魔王様と我が長、そして魔王様の料理を作るサロエナと席を設けては話し合われるなど、他三大公のいずれよりも最も魔王様に近しき存在であると言えましょう。
魔王様が成熟された暁には、一番に寵を賜るのは我が長であること違いございません。
基本、魔王様がお召しになる衣服や、滅多に身につけられませんが装飾品の数々は我が長が手配した物でございます。
中には他の大公より贈られる衣服もございますが、それらの中から本日のお召し物を選びますのは我々魔王様に侍る侍女の務めございます。
当初、魔王様のお召し物を選ぶ際、魔王様の御前にてはしたなくも諍いをしてしまいました為、魔王様の取り計らいで以降は持ち回りで務めております。
他、魔王様がお休みになられてました寝台も毎朝壊れてしまいますので、補修及び整える役目も持ち回りでございます。
魔王様はその稀有なる魔力にて、人間のように栄養を補う為と食事をする必要はございませんが、味を楽しむ行為として一日に三食召し上がれます。
その配膳の用意を致しますのは、犬族オーボール侯爵家クレアティヌの務めであり、三時のおやつなるものを用意致しますのは、鷹族シニエル侯爵家サナレアイの務めであり、そしてお休みになられる際の寝衣を用意致しますのが、淫魔族ステアーナ侯爵家リリアーレの務めでございます。
これら己の務めとし、他の侍女は一切手出しができないよう協定を結んでおります。
他、細々としたものに関しては臨機応変にて務めております。
ワタクシだけの務めとして与えられましたのは、魔王様の湯殿を用意する事でございます。
魔王様は、こと食事と湯浴みに関しましては並々ならぬ関心をお持ちであられ、お休み前とお目覚めの後に湯浴みをする習慣がございます。
その熱意たるや魔王様直々の命令にて、魔界領で天然に湧き出る湯を探させているほどでございます。
よほど湯浴みがお好きなのでございましょう。
それは侍女の務めを魔王様自らがお決め下さり、ありがたくもワタクシが湯殿のお世話を任された初日の事でございます。
魔王様が湯浴みを済まされた後の片付けは皆で行う事となっていたのですが、湯殿に入った途端、クレアティヌが鼻を押さえて「キャン」と鳴き声を上げました。
クレアティヌは犬族なので殊更鼻が利くのを失念しておりました。
「どうしました、クレアティヌ」
リリアーレが怪訝な顔でクレアティヌに問います。
隣に並ぶサナレアイもリリアーレ同様の表情です。
「どうしたも何も……この臭いは耐えられませぬ。……っ……無理ですっ!」
クレアティヌは何とか堪えようとしたようですが、眉間を険しくしたまま涙目で湯殿から逃げ出してしまいました。
修行が足りませんね。
と見送っていたところ、リリアーレとサナレアイが胡乱な眼差しでワタクシを見ております。
「シアンゼーカ、魔王様の湯殿はお前の務めであったな。何をした」
「何をしたとはまた不躾な物言い。魔王様のお心安らぐ香を混ぜたまで」
「……その香とやらはどこから?」
リリアーレに続き、サナレアイが更に眉を潜めて問い掛けてきました。
「我が長自ら配合した……」
皆まで言う間もなくリリアーレとサナレアイは口と鼻を瞬時に押さえ、瞬く間に湯殿から出ていってしまいました。
全く、歳の割りには落ち着きがありません。
「シアンゼーカ! こちらに参られよ!」
しかも、湯殿の外から呼びつけるとは何様でございましょうか。
侍女頭であるリリアーレの言葉ですので仕方なくワタクシも湯殿から出ました。
「魔王様のお心安らぐ香と申すが、クレアティヌが逃げ出すような物がお心安らぐ物とは思えぬ。ましてや毒大公であらせられるガルマエアータ大公自ら配合した香がただの香であるはずがなかろう! 何を湯殿に混ぜたか正直に申せっ! 事と次第によっては我が長を始め魔王様にも申し上げるぞっ!」
激昂するリリアーレと剣呑に睨みつけるサナレアイ、その後ろではまだ鼻を押さえて蹲っているクレアティヌが「逃げ出したわけではない!」と吼えております。
内密に進めるつもりでおりましたが、クレアティヌの鼻を誤魔化すには少々無理があるようです。
致し方ありません。
「過去、お姿を現された魔王様は皆成熟されておりましたが、現魔王様におかれましては不思議な事に未成熟のままでございます」
「その様な事は言われずとも承知しておる」
「よって、魔王様には一日も早く成熟されますよう、促す香を配合致しましたは我が長の配慮でございます」
ワタクシは勿論、我が長が魔王様へ害を成そうなどと露とも思うはずはございません。
一重に魔王様への思いゆえでございます。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
束の間の沈黙でしたが、リリアーレが再び口を開きました。
「以降、湯浴みの用意と片付けはシアンゼーカが務めるとよい。クレアティヌは鼻が利きすぎるゆえ湯殿への立ち入りは免じる」
当然ながら異を唱える者はおりませんので、その後は何事も無かったようにそれぞれの務めに戻った次第です。
しかし、その日から我が長の配合した香を混ぜた湯を浴びておられる魔王様ではございますが、一向に成熟する気配もなく、我が長の力を以ってしても魔王様は影響を受けない揺るぎないお方と思い知らされる日々でございます。
我が長の苦慮を思えば少々残念ではございますが、それだけのお力を有する魔王様にお仕えできるのもまた望外の喜びでございます。
そんなある日の事でございます。
湯殿におられた魔王様の悲鳴が上がり、我等はすぐさま湯殿へ駆けつけました。
駆け込んだクレアティヌは足を踏み入れた瞬間、再び鳴きながら湯殿より逃げ出してはおりましたが、その心意気は買いましょう。
クレアティヌはさておき、思わず我等は唖然といたしました。
雀です。
そう、魔界では捕食されてしまい見ることのなくなった、人間界ではまだ見る事のできるあの小さい鳥でございます。
ただ、茶色ではなく魔王様のお色である真っ黒な小鳥が必死に湯船で羽ばたいております。
「お、溺れるっ。溺れるっ!」
その時、我等の思いにブレはなかったと思います。
いえ、一つとなったと言えるでしょう。
色は違えど雀と思わしきその丸々と膨らんだお姿といい、円らな瞳ながらも必死さが窺える様子といい。
日頃、魔王様が仰られている、これが萌えと言われるものでございますねっ。
敬慕いたします魔王様の丸々としたお姿に、はしたなくもワタクシは思わず丸呑みしてしまいたいとう衝動と葛藤してしまいました。
その隙を突かれ、逸早く動いたのは悔しくもサナレアイでございます。
湯船より掬い上げたサナレアイは、瞬くまに湯殿から退避してしまいました。
盗人猛々しいサナレアイの行動に、罵りの言葉を漏らしたリリアーレもすぐさま湯殿から駆け出していきます。
先を越されてしまった以上、今から追いかけたところで致し方ありません。
現にサナレアイはリリアーレの引き留める言葉も聞かず、サナリラナイア大公の下へ移動してしまいました。
それに愛らしいお姿ではございましたが、我が長へお見せした場合を思いますと丸呑み以外は想像できません。
魔王様とサナレアイについては諦めることにして、早々に己の仕事に取り掛かります。
魔王様が浸かられた湯を瓶に移し、湯殿の片づけを済ませて出て行きますとリリアーレが何か騒いでおりましたが毎度のことですので気にいたしません。
「先日の猫といい、今回の小鳥といい! 何ゆえ淫魔のお姿になられぬのかっ!」
魔王様は元々淫魔の属性ですので、お姿が変わるとは思えませんが、しかしリリアーレもたまには良い事を言うものです。
我が長に進言してみましょう。
サナリラナイア大公が魔王様をお戻しになられるはずはありませんので、その日の我等の務めは終わりでございます。
「小鳥かぇ? ……失敗と取るべきか、成功と取るべきか判断尽きかねるのぅ」
湯の入った瓶を振りながら我が長が呟かれました。
香を混ぜた湯に魔王様のお力が加えられた変化を、我が長は毎回こうして確認しているのでございます。
「成熟を促すつもりが何ゆえ変化となられるのか、まこと魔王様は不思議なお方よ。先代、先々代の魔王様へ調合した物は効果は薄いながらも問題なく効いておったのにのぅ。とは言え、先代様、先々代様へは成熟を促す物をお試しになったわけではないゆえに効果もまた異なるやもしれぬなぁ」
今宵も期待した成果は得られなかった為に、我が長の機嫌が世辞にも良いとは言いがたい状況でございます。
「長様」
普段であれば早々にお暇すべきところではありますが、これだけは我が長の為にもお伝えしなければなりません。
差し出がましくも口を挟みますと、機嫌の余り宜しくない長が流し目にてこちらを見られました。
少々胸の辺りが痛み息苦しさを覚えながらも進言を試みてみます。
長であれば必ずやワタクシの言葉に同意して下さるはずです。
「黒く美しい鱗を持つお小さい蛇はいかがでございましょうか」
「…………」
胸の痛みも息苦しさも晴れました。
「下がりや」
長のお許しを頂き、その場をお暇したワタクシでございます。
近いうちに、愛らしい蛇へ変化した魔王様が見られるやもしれぬ期待でワタクシも頬が緩んだ夜でございました。
そんな遣り取りがされているとは露知らず、大鷲の頭の上で寒気を覚えた黒い雀が全ての羽を目一杯膨らませ、挙動不審に左右を見回していたのはここだけの話。