餌食
追う事に馴れている男と、恐怖に脅え逃げ惑う娘。
どちらに利があるかと言えば男であった。
必死で走るも繰り返し振り返っていては逃げ切れるはずも無く、やがては追いついた男に髪を掴まれ引き倒される。
それでも尚抵抗する娘の腹に馬乗りになった男は、躊躇いもなく握った拳を娘の顔に打ち付けた。
一打で悲鳴を上げた娘は途端に抵抗を無くしすすり泣き出す。
『狩り』で獲物を仕留められた高揚感に男は興奮し気も昂ぶっていた。
娘の衣服を乱暴に引き千切り、まずは己が獲物の味見をしようと露にした白い肌に貪りつく。
「えーっ。こんな不味そうなのに当たるなんて、ラーニャの今日の運ってば最悪ーっ」
日は沈み夜の帳が下りた暗い林の中、男と娘以外の人気は無かったはずにも拘らず、突如場違いな程気の抜けた声が響き渡り、男は慌てて背後を振り返ろうとした。
「がっ!!」
しかし、男は相手を確かめられないまま股間を手加減無く蹴り上げられ、跨っていた娘から地へと転がり余りの痛みにのた打ち回るハメとなる。
突如押さえ込まれていた重みな無くなり、戸惑いながらも娘は慌てて破れた衣服を掻き合わせながら身を起こす。
窮地から救い出してくれた人物を探した娘の目に一番強い印象を与えたのは鮮やかな紅蓮の髪であった。
まだ月の明かりも届かぬ暗い林の中でさえも、篝火よりも尚赤く輝く豊かな髪に娘は目を奪われた。
白磁を思わせる白い肌は滑らかで、思わず触れてみたくなる程美しい。
自分の日に焼けて荒れた肌とは比べようもなく、恥ずかしさに頬が赤らみそうになる娘であった。
猫を思わせるような大きな目は闇の中に灯した火のような橙色をしている。
娘を見下ろす紅蓮の髪を持つ女は豊かな胸にくびれた腰、張りのある尻と魅惑的な体の線を惜しげも無く、寧ろ見せ付けるような露出の高い白い衣服を纏っている。
同性と承知していながらも、娘は鼓動が自然と早まり、女へ跪き何を求めているのか分からないまま何かを請いたくなる淫蕩さがあった。
闇に浮かぶ火に集まる虫のように、抗いがたい誘惑に女へ縋り付きたくなる娘は、そこで漸く女が何者であるのかを悟る。
魔族であると思い至った瞬間、先の男に襲われていた方がまだマシだったという絶望感に襲われた。
「もぉぅ! ラーニャ、不味い男って嫌いなのにぃ。どうせ食べるなら、可愛い女の子の方が良いのになぁ。残念っ!」
少々舌っ足らずに喋る女は娘を見ながら、子供が物欲しげな仕草を見せるように人差し指を唇に添えて一人ごちる。
この状況で誰を指して残念がっているのか否応無く悟らされた娘はビクリと身を竦めた。
しかし、魔族の女は体を小さくし震える娘に頓着せず、未だ蹲ったまま呻いている男へ向き直ると、林の暗がりへ向けて足蹴に転がしていく。
蹴り付けられるたびに男は痛みを堪え切れず声を上げ、娘はその都度ビクリと身を竦ませる。
魔族が男に気を取られている内に、娘は少しでもこの場から離れなくてはと思いはするが、先に男へ引き倒された際に足を挫いた為思うように立てず、更には魔族と遭遇してしまった恐怖で腰もろくに立たない有様であった。
茂みの奥まで蹴飛ばされた男の姿は見えなくなり、魔族もその男に覆い被ってしまって娘が座り込んでいる場所からはその様子は伺えない。
虫達でさえもが鳴りを潜めた静けさの中、男の荒い息遣いと呻き声、魔族の罵倒する声だけが聞きたくもないのにはっきりと聞こえる。
「ちょっとー! 何勝手に小さくしてんのよっ! 人間の小娘相手に元気が良くて、淫魔であるラーニャ様相手で萎えるって何事ー?! 近年稀に見る不味さの上に感じ悪っ!」
「やめっ……ちょっ……ぁ……ぅ!」
経験は無いもののそれなりに年頃の娘である。
男が娘に何をしようとしたのか、姿の見えない茂みの向こうで何が行われているのか見当はつく。
男の切羽詰った声や魔族の艶めいた声に、逃げる事もできない娘はただただ顔を赤らめ耳を塞ぐしかできないでいた。
どれ程時間が過ぎたのか、然程時は経っていないと思われるのだが、当初は耳を塞いで尚聞こえていた男の声が今では聞こえない事に娘は気付く。
訝しく耳から両手を下ろすと、男の息遣いだけが微かに聞こえてきた。
しかし、その息遣いは羞恥を誘う物とは程遠く、今にも息絶えそうな弱々しさであった。
小さな呻き声を最後に、衣擦れの音もしなくなってしまった。
次は自分の番だと脅えた娘は身動きが侭成らないながらも、必死に体をずらしその場から後退ろうとするが、さして進みもしない内に茂みから不機嫌な表情を浮かべた魔族が立ち上がる。
「全く。不味いってだけでも気分悪いってのに、腹の足しにもならないじゃないのよっ。使えないわねっ!」
忌々しそうに男を蹴り付けた魔族は、ふと視線を転じて娘に目を向ける。
「あらぁ? アナタ、まだそこにいたの? ……やっだー! もしかして、この男と番だった? 襲われる『ゴッコ』してる最中だったとかぁ?」
未だ居る娘を不思議そうに見た魔族は、はたと目を見開くと茂みの中に倒れている男を指差して問い掛けてきた。
問われた娘はギョッとしながらも慌てて頭を振る。
「あぁ、びっくりしたぁ。そうよねぇ。この男不味いものね。番になろうって気にもならないわよねぇ。もぅ、番ですなんて言われたら魔王様に怒られちゃう所だったわっ。あれ? ……じゃぁ、何でアナタまだそこにいる訳ぇ?」
そして、当初の疑問に立ち戻った魔族は再び不思議そうに娘を見るも、娘は脅え切ってまともに受け答えもできないでいる。
堪えようとしても堪え切れない震えに歯はカチカチと鳴り響く。
そんな娘を見ていた魔族は、目を細めて笑みを浮かべる。
娘にとっては、目の前の獲物を甚振り楽しむ方法を見つけたとばかりの笑みにしか見えない。
悲鳴は声にならず、いっそこのまま気を失ってしまえば楽になれるのにと涙を流しながら、近寄ってくる魔族を見つめる娘であった。
「あっはぁん。足挫いたから動けない訳ねぇ。魔王様がねぇ、女子供老人と困っている人間には優しくしろって仰るのよぉ。暴力振るってる人間だったら、女子供老人関係無く好きにして良いんだけどねぇ。どぅ? 痛いの治った?」
捻った足首に魔族が翳していた手を引くと、痛みは嘘のように無くなっている。
驚きに瞬きを繰り返しながら娘は魔族を改めて見つめた。
人間を助ける魔族など聞いた事が無い。
「あ……あの、ありがとう……ございます……っ!」
慌てて立ち上がり礼を告げるも足元が覚束ずによろけると、透かさず魔族が手を伸ばし支えてくれる。
畏怖べき魔族の、しかも同性に抱き寄せられて娘は頬が赤らんでしまう。
「うふっ。あんな不味いの食べた後だから、余計に凄く可愛いわーっ! やぁん! 食べちゃいたいっ!」
恥らう娘の仕草に弾んだ声を上げて悶える魔族に、娘は赤らんだ顔が一気に青褪める。
「でもぉ、摘み食いなんてしたら魔王様に怒られちゃうしなぁ。アナタ、美味しそうなのにホント残念っ。大体、何で人間に優しくしなくちゃいけないのかしらねぇ? 味が美味しくなるから?」
どう思う? と、真顔の魔族に問われても娘には答えられない。
寧ろ答えたら色々と墓穴を掘りそうで怖くて答えられない。
「まぁ、魔王様以上に美味しい方なんていらっしゃらないんだけどぉ。聞いてくれるぅ? この間、初めて魔王様とお会いしたんだけどねぇ、もう本当に素晴らしいのっ! 魔王様に見つめられた瞬間雷が落ちたって感じぃ? 目が合っただけなのにぃ、もう体の芯からゾクゾクしちゃうって言うかぁ、イっちゃうって言うかぁ、イっちゃったんだけどぉ! やんっ! 恥ずかしい事言わせないでっ! でもね、でもねっ! ラーニャ、普段はそんな事ないのよ? 魔王様だけなのっ!」
頬に手を添えて恥じらいを見せる魔族を娘は唖然として見上げている。
そんな娘に構う事なく、魔族は延々魔王様の素晴らしさについて聞きもしないのに語ってくれた。
平然と娘を青褪めさせる事を言ったかと思えば、蠱惑的な眼差しや仕草で惑わされ、かと思えば魔王様がいかにどうであるかといった話に同意を求められれば娘には肯定以外の返事は出来るはずもなく、肯定し掛けた傍から魔族は勢いづいて魔王様の素晴らしさを語ってくれるという悪循環は空が白みだすまで続けられた。
いっそ一思いにと何度娘は思った事だろうか。
辛うじて死は避けられたようであるが、ある意味極限状態を一晩強いられた娘は、朦朧としながらも魔族の語らいに必死で、そして健気に頷き続けた。
まだ語り足りない様子の魔族であったが、流石に空が明るくなってきた様子に渋々と魔王様自慢を止めて娘を家まで送ってくれたのであった。
その後も、娘の中では魔族は変わらず近寄っては成らない存在であり続けている。
命を脅かす存在以上に、極度の精神的疲労をもたらす存在となったからである。
余談であるが、男は辛うじて一命を取り留めた。
しかし、その姿は一晩にして老人のように変わり果て、嘗ての男を知る者が擦れ違っても分からない程に様変わりしていたそうである。