魔石異譚 ■ 肆
女を担いでいる男はヨースト程上背は無いものの、荒くれた力自慢に良く見る硬い筋肉に覆われた巨漢である。
その巨漢よりも二回り程大きな黒い影がゆるりと動き、声を上げる暇も与えず男の顔面を背後から鷲掴んだ。
「ったくアイツまで逃げちまったよ。いつからあんな腰抜け野郎になったんだかなぁ」
痩身の男だけが何も気付かず相方に話し掛けているが、当の相方は伸ばされた影の大きな掌で鼻と口を塞がれ、顎に沿って曲げられた中指と人差し指に気道を塞がれている。
不思議な事に、幾ら口を覆われていても通常であれば呻き声は上げられるはずなのに、これ程の距離でありながら呻き声一つ聞こえない。
辛うじて女を抱えながら男が顔面を覆う手から逃れようと藻掻くが、既に男の爪先は地面から浮き上がっている。
男が必死に浮いた爪先を前後へと掻いてにも拘らず、幾らか前に立っているとはいえ痩身の男は丸っきり気付かない。
「まぁ良いさ。アンタ等もそのまま大人しくしててくれよな? お互い怪我なんてしたか無ぇだろ?」
一人状況が分かっていない痩身の男は、軽薄な笑みを浮かべて手にした刃物を揺らしながらヨーストへと告げる。
しかし、バノドもヨーストも痩身な男には目もくれず、女を担ぐ男の背後を厳しい表情で見据えていた。
藻掻き浮いた爪先をばた付かせていた巨漢の男が微かに痙攣すると気を失ったのか一気に弛緩してしまう。
女を担いでいた腕がずるりと下がるが、女が肩から落ちる前に黒い影は手を伸ばしその体を容易く受け止め引き寄せる。
痩身の男も対峙するバノドとヨーストが歯牙にも掛けていない事に漸く気付き、怪訝な表情を浮かべながらも連れ合いの男へと声を掛けながら振り返り思わず息を飲む。
「おい。さっさとずらか…………なっ……なんだ、てめぇは!」
痩身の男は連れ合いの有様に声を荒げ、女を抱え直す黒い影へと刃物を向ける。
だが、黒い影は掴んでいた巨漢を後方へと振り払うようにして捨てると、返す腕に勢いを乗せて痩身の男を薙ぎ払う。
女を担いでいた巨漢の男よりも更に二回りも大きな巨体が払う腕は、勢いもあった為に痩身な体は容易く吹き飛び、狭い路地の壁へと強かに打ち付けられその場で崩れ落ちた。
歯が折れたのか、鼻の骨が折れたのか、痩身の男は口と鼻から血を流して呆気無くも昏倒している。
荒くれた男達に囲まれた時にでさえ余裕を見せていたバノドとヨーストであったが、張り詰めた緊張感を漲らせ黒い影を睨み付ける。
そこに立っているだけだというのに、総毛立つ程の存在感を示す黒い影。
戦場を駆けた事のあるヨーストでさえも、存在するだけで畏怖を覚える者と対峙するのは初めての事であった。
己の力では黒い影を切り伏せる事は出来ないも承知である。
圧倒的な力の差を見せ付けられながらも、命を賭して守るべきはバノドであり、バノドを逃がす隙を作らなければならない。
バノドを背に庇うように動くヨーストの摺り足に、砂利が耳障りな音を立てる。
しかし、今にも糸が切れそうな程の緊張感を破ったのは影に抱えられた女であった。
「お、お待ち下さい……」
女が微かに身じろいで見せると、黒い影は静かに女を下ろしてやる。
「バノド様、ヨースト様。この方は、私の知り合いでございますので、どうぞ刀をお納め下さいませ」
「知り合い?」
未だ警戒解け切らないバノドが怪訝な表情を浮かべながら、黒い影から女へと眼差しを移す。
「はい。主を同じくして仕える方でございます。……旦那様。私を助けて下さった方で、リオークア国はセネミアリナ様の弟君でらっしゃいます」
「……あの?」
笑みを浮かべてバノドに答えた女が、背後の影を振り返り告げると初めて影が一言漏らす。
「はい。あの、リオークア国です」
女が影に答えると、畏怖を覚える程に存在感を示していた空気が和らぎ、影が一歩踏み出す事で漸くその容貌が闇の中から現れた。
貴族が着るような上質な服の上からでも、人とは思えぬ巨体が鍛え抜かれているのが見て取れる。
太い首の上には頑丈な顎が張り出し、威圧感のある厳しい顔にも拘らず先とは打って変わった穏やかな赤い目が印象的な男であった。
「そうか。世話になった。この者に何かあれば主も悲しむ。主に代わり礼を言う」
先までの剣呑とした空気は既に無く、淡々とした低い声で男が礼を口にすると、警戒する気持ちは残しながらも漸くヨーストも刀を鞘へと納める。
「お困りのご婦人を助けるのは、男たる者当然であって礼を言われるような事ではないよ」
胸を張って答えるバノドに男は小さく『男?』と呟くが、誰もそれに言及はせず、寧ろ敢えて流す方向で女が男を見上げて問い掛けた。
「所で、なぜ旦那様がお迎えに来て下さったのでしょうか」
「こちらに用があったのでな。ついでに少々頼みたい事があって、迎えがてら寄ってみたのだ」
「私にですか? 何でございましょう」
「サロエナからこちらに珍しい菓子があると聞いた。主が喜びそうだから、代わりに買って貰おうと思い寄っては見たが、一向に戻る気配が無いので様子を見に来た」
「まぁ。お手を煩わせてしまって申し訳ありません。…………ですが、主の分だけで宜しいのですか?」
「…………」
納得したように頷いた女は、ふと悪戯めいた笑みを浮かべて何気に問うと、男は苦虫を噛み潰したような表情で黙してしまう。
そんな男の様子に、フフと笑った女は改めてバノドとヨーストへ向き直る。
「バノド様、ヨースト様。迎えが参りましたのでこの場で失礼致しますね。危ない所を助けて頂きましてありがとうございました」
腰を屈め深く頭を下げた女の礼は、バノドの礼のような形としての美しさは無いものの、心からの感謝を十二分に表したものだった。
その為、バノドは男が何者であるのか、男なら知り得る魔石の情報を問い質したい所ではあったが、ここで問えば野暮の極みに思えた為諦める。
ゆっくりと身を起こした女はバノドを見据えて柔らかな笑みを浮かべる。
「バノド様が魔石を求めるのであれば、いずれまたお会いする機会もございましょう。再びお会いする事があれば、僭越ではありますが私に叶う範囲でお助けしたく思います」
そう告げた女は傍らの男に寄り添い、バノドが意味を問う暇も与えず、女は男の転移術によってその場から消え失せてしまった。
事が過ぎれば余りにも呆気無く、張り詰めていた気が抜け落ち、暫し放心したかのように時が過ぎる。
「……これで、魔石鉱脈への手掛かりが無くなってしまったな」
ややして、吐息混じりに肩を落として呟いたバノドをヨーストが一瞥する。
「しおらしい振りをして見せても私には効果ありません」
淡々と返すヨーストへ白けた眼差しを向けたバノドは、聞えよがしな溜息を吐き出すと肩を竦めて大通りへと向かい歩き出す。
「全く、ヨースト少将は面白味に掛けるよ。もう少し人生楽しむ方法を覚えるべきだね! 何なら、この天才大魔術士である僕が直々に教えてあげても構わないよ!」
「結構でございます。人を煙に巻いて一人で行動するお積りでしょうが、父君のご命令があるまでお傍を離れる訳には参りませんのでお諦め下さい。あの者達はいかがなさいますか」
伸びている二人を気遣うかのような言葉を口にしつつも、バノドに続いて背後を振り返る気配も見せずに大通りへと向かう。
「命はあるのだから構わないだろう。僕は男を助ける趣味は無い! それに足を洗うには丁度良い薬にもなっただろうからね。所でヨースト少将」
「何でございましょう」
「ご婦人を助けるに辺り、僕達は痛快且つ颯爽であったと思うかい?」
ヨーストが逡巡したのは瞬き二度の時間。
「痛快且つ颯爽とは言い難いでしょう」
「ふむ。珍しく意見が一致したじゃないか、ヨースト少将! 世のお困りであるご婦人達の為にも、華麗痛快颯爽とお助け出来るよう邁進しようではないか!」
「その前に、バノド様自ら素行を改め、お困りになられているお父君をお助けしてあげるのが先決かと思われますが」
「さぁ! まずは屋敷へ戻って新たな旅立ちへ備えるとするよ!」
無表情で小言を述べるヨーストを気にも留めず、高らかに宣言したバノドは日傘を高く掲げて見せる。
人が扱うには難しいとされる転移術を容易く駆使したバノドは、ヨーストと共にその場から消え失せた。
後に稀代の大魔術師として名を馳せるバノドと、リオークア国の軍人であるヨーストに関する冒険譚は数多く残されている。
人の身で傑出した魔術も然る事ながら、口を開けば一どころか百まで語って尚止まらないと揶揄される饒舌さ、流れた浮き名は星の数と言われ、破天荒な人柄故に吟遊詩人の語り、活劇、娯楽書と後世に渡って尚人々を楽しませている。
しかし、バノド魔術師の専門家達によれば、それらの多くは創作であり、傑出したと言われる彼の魔術師がどれ程の力を有していたのかは、記録も殆ど残されておらず今尚解明されていない。
Twitter診断ネタです。
市太郎が書くラノベは『女装少年である主人公と、生真面目な軍人が、賢者の石(→魔石)欲しさに地下鉄で(→適当に)旅行する、痛快アクション』です。




