-10- ド忘れ
老年でなくてもド忘れすることは、よくある。倉岡もそんな一人だった。
行楽の春が巡ろうとしていた。倉岡は陽気に誘われてフラフラと旅に出た。家を出る前には、ある程度の行程を頭にイメージしていたのだが、ウキウキ気分が昂じ、うっかりド忘れしてしまったのである。その忘れた場所は、すでに動いている列車内だった。切符を見れば、毛並線の馬糞駅までの切符だった。馬糞駅までは小一時間の距離だったが、その馬糞駅で下車してからの行動パターンを倉岡はド忘れしてしまったのである。
『まあ、いいか…』
何がいいのか自分にもよく分からなかったが、とりあえず倉岡は馬糞駅で降りることにした。
『馬糞ぉ~~馬糞ぉ~~~鹿尾線は乗り換えですぅ~~~』
鼻が詰まったようないい声で流れる駅員のアナウンスを聞きながら、倉岡は、はて? と頭を巡らせた。ひょっとすると、鹿尾線に乗り換えてどこかへ向かうつもりだったのか…。いや、それでは鹿尾線に乗り換えて降りる駅までの切符を買ってるはずだ。やはり馬糞で降りるか…と。
馬糞の改札を出た倉岡は、とりあえず駅の待合所のベンチへ腰を下ろした。ショルダーバッグの中を何げなく探すでなく掻き回していると、行動のヒントになる一枚のチラシ広告が目に留まった。そのとき倉岡は、その後の行動パターンをすべて思い出したのである。倉岡は馬糞駅で販売されている駅弁を買いに出たのである。過去、遠方へ旅したとき、乗り換え前に買い求めたのが馬糞駅の構内販売されている駅弁だった。その駅弁の味がふと甦り、倉岡はフラフラと旅に出たのだった。要するに、駅弁を買い求めるためだけにうっかり飛び出た旅だったのである。^^
倉岡さんのド忘れを思い出させた味覚は、相当、美味なものだったのでしょう。^^
完




