…会いたい
私は今、1人きりの病室で来る筈もない家族を待っている。
2ヶ月前に会社の健康診断で腫瘍が発見され、手術を受けたのだ。
幸いにも発見が早かったので、腫瘍は全て摘出されたが、私は子供を二度と産めない身体になってしまった。
医師からの説明で覚悟はしていたつもりだったが、やはり辛い。
もう子供を産む事は出来ない、その現実は私の精神を苛み、容姿はすっかり衰えてしまった。
「…今日も終わりか」
今日も病室に来る人は無かった。
病気の事や手術の事、病院の名前等、全て実家の両親に手紙を書いたのだが、何の反応も無い。
電話やメールは拒否される、だから自筆の手紙と僅かな希望に縋ったが、やはりダメだった。
それだけ私に対する憎しみが大きいのだろう。
夫や娘を裏切り、不倫に走った愚かな女に…
「寂しいよ…一人は嫌…」
思わず弱音が口から溢れた。
せめて一目で良いから家族に会いたい。
出来れば旦那と最愛の娘に…
今更なのは分かっている。
こんなに後悔するなら、不倫をしなければ良かったんだって事も。
離婚して三年になるが、旦那や娘は絶対私に会いたくないだろう。
それだけ私は家族を苦しめてしまったのだ。
不倫の切っ掛けは5年前。
当時32歳の私は新卒で入った会社にずっと勤めていた。
結婚8年目で、娘は6歳だった。
仕事と子育ての両立は大変だったが、旦那は家事に協力してくれていたし、近くに住んでいた私の両親もフォローをしてくれた。
素直な優しい娘、温厚な旦那、私生活は充実していた。
旦那は私の両親と良好で頻繁に実家で過ごしていた。
両親も一緒に住もうと、二世帯住宅の計画までしてくれていた。
今思い返しても本当に幸せな家庭だったと思う。
それなのに私は不倫に溺れ、全てを叩き壊した。
悪夢の始まりは会社から下された、新しく立ち上げる地方の支社へ二年間の出向だった。
娘も小学校に入るし、少し余裕も出来た。
それに出向が終われば、また本社に戻れる。
キャリアアップに繋がると私はその話を受けた。
『ママ、頑張ってね』
『ごめんね、出来るだけ帰って来るから』
出発の朝、娘は寂しそうな顔で言った。
早く支店を軌道に乗せようと必死で頑張った。
時には会社に泊まり込み、先頭に立ち続けた。
やりがいがあった。
スタッフは私を頼り、責任感は心地よかった。
…その中に不倫相手となる男、伊藤満夫がいた。
奴は私より三歳下で別の支店から私の補佐として来た人間だった。
『伊藤君、全然帰省しないけど寂しくないの?』
私は休暇の度、実家に帰っていたが、奴は全く帰らないのを気にして聞いてみた。
結婚しているのを知っていたからだ。
『…妻と上手く行ってなくって』
『ちゃんと奥さんに寄り添ってあげてる?』
飲み会の席で愚痴る後輩の相談に乗ったのが事の始まり。
心に余裕が出来ていた。
自由な一人暮らし、給料の管理は別々だったから、好きな物も買える生活。
束の間の独身気分。
それは大きな勘違いだ、私には何より大切な家族が居るのに。
奴が給料を全部妻に送金し、小遣いにも困っていると聞けば食事に誘い、気づけば金銭すら渡す様になっていった。
『山内さん…俺、貴女の事が』
『ダメ…私には家族が』
いつしか後輩は甘えた口調で私を口説くようになっていた。
もちろん最初は拒んだ。
そんな事を言うなら、もう相談に乗らないからと。
…出来なかった。
女として求められる感覚は、忘れかけていた私の中に眠る何かに火をつけていたのだ。
『…一回だけよ』
とうとう私は一線を越えてしまった。
それから堕ちるのは早かった。
家族を裏切っている背徳感は肉体に与える快楽を倍増させる。
理性を失った私は実家に戻る事も減り、家庭を疎かにするようになっていた。
私は何も気づかなかった。
夫や両親、なによりも娘がどれだけ寂しく過ごしていたかに。
不倫が始まって半年、破滅は突然訪れた。
その日は土曜日だった。
休日出勤を終えた私達はいつものホテルで逢瀬を済ませ、彼の運転する車で一人暮らしの自宅まで送って貰った。
『あれ?』
『ん?』
部屋に入り、電気を点けるとテーブルに並ぶ沢山の料理。
隣に立ち、私の肩を抱いていた満夫も唖然とする。
『…史佳』
『え?』
突然名前を呼ばれ、振り返る私の前にいたのは、
『あなた…美愛も…なんで?』
顔を真っ赤にした旦那と娘の姿。
旦那はカメラを構え、娘はクラッカーを手にしていた。
『嘘…なんで?』
『…今日はお前の誕生日だろ』
『あ!!』
旦那の言葉に私は叫んだ。
去年までは実家で一緒にお祝いをしていたんだ。
『ママ……どうして?』
娘の手からダラリとクラッカーが落ちる。
母親が見ず知らずの男と一緒に帰宅したのだ、この異様な光景に説明はいらない。
『し、失礼しました!
それじゃ家族で楽しんで下さい!!』
全てを察した後輩は慌てて逃げ出す。
私の肩を抱いていたのを見られていたのに。
『逃げても無駄だ!
今迄の光景はカメラで全部撮影したからな!!』
『…な!』
旦那の言葉に奴は崩れ落ちた。
『…美愛、帰ろう』
『…うん』
動けない私を残し、旦那と娘は部屋を出ていく。
気づけば男の姿も無い、静かな部屋に一人取り残されていた。
『な…私は何を…』
テーブルの料理は料理が得意な旦那が作ったのだろう。
『この不揃いな野菜は美愛が手伝ったのかな?』
サラダの野菜に呟く。
きっとサプライズで二人は来たのか。
そういえば、この一ヶ月電話すらしてなかったし。
『上手く書けてる…』
傍らに置かれていた紙袋。
中に入っていた1枚の色紙。
それを見た私の目からは涙が流れだした。
[おかあさん、たんじょうびおめでとう!]
[だいすきだよ!みちか]
クレヨンで真ん中に書かれている似顔絵は私。
隣は旦那と美愛、後ろは私の両親。
『みんな笑ってるね…』
その日は夜通し泣き叫び続けた。
翌、日曜日。
私は朝一番の電車で実家に向かった。
昨夜から何度も電話やラインを送っていたが、全て無視されていたので、帰るしか思いつかなったのだ。
男からは一通ラインがあった。
[僕と貴女は何も無かったでお願いします]
即座にブロックした。
この期に及んで逃げられる筈がないのに。
『…ただいま』
『入りなさい…』
到着した実家。
私が帰ればいつも笑顔で迎えてくれていた家族。
今日はお父さん一人だけ。
無言で歩くお父さんの後に続く。
お父さんは元々無口な人、しかし怒りの感情は痛い程伝わって来た。
昨夜から必死で言い訳を考えてきた。
反省の態度を取れば、赦して貰える。
一度だけの過ち。
これ以外、浮気をした事は無かった。
これは初めての過ちなのだ。
『座りなさい』
『………』
自宅のリビング。
促されるままテーブルを挟んで座った。
『…みんなは?』
静かな室内。
いつもの温かな空気は無い、ずっと笑顔で溢れていた家。
『母さんは美愛と政志君を連れて出てる』
『なぜ?』
なんで?
どうしてよ、話も出来ないじゃない!
『あんなのを見せられた孫の気持ちが分からないのか!!』
『ひ!!』
激しくテーブルを叩くお父さん。
涙を浮かべ、憤怒の表情で私を睨んだ。
『ごめんなさい!』
私は土下座で叫んだ。
言い訳の言葉は全て消え失せてしまっていた。
あの現場を押さえられたという事は、早晩に浮気の証拠は掴まれてしまうだろう。
『…何が不満だったんだ?』
無言で私の土下座を見ていたお父さんは絞り出すように言った。
『不満なんかありませんでした、魔が差したんです!!』
『魔が?』
『はい…もう二度とこんな事は』
私は床に頭を擦りつける。
涙が止めどなく溢れた。
『…言い訳にもならん』
『…お父さん』
冷たく突き放すお父さん。
だが、本当にそれだけなのだ。
大切なのは家族、最愛の宝物なのに。
『覚悟するんだ、私もお前を娘ともう思えん』
そう言ってお父さんは立ち上がった。
激しい後悔また一人、今度は幸せだった家に私は取り残されてしまった。
その後、私は離婚となった。
話し合いは全て弁護士を通して行われた。
慰謝料は200万、養育費は月に5万。
そして娘の面会は…
『今は難しいです』
『そんな…』
『ご家族から今は娘さんのケアにと』
弁護士は静かに言った。
娘は私を激しく拒絶しているらしい。
性格も暗くなり、しばらくは難しいだろうと。
「バカみたいね、私の人生」
会社の処分は直ぐに決まった。
私は降格、奴は左遷。
私との不倫がバレ、奴は私の旦那と妻からそれぞれ250万の慰謝料を請求されて、向こうも離婚となった。
私は奴の妻から150万請求され、支払った。
他にも口説いていた女がいたらしいが、興味もない。
それ以来、奴と会っていない。
会いたくもない。
「はあ………」
傷口が痛む。
ベッドに置いてある携帯はずっと同じ番号。
だが、家族からの連絡は届かない、この先一生。
私は出向が終わったが、同じ支店に居る。
もう地元には帰れない。
支店の仲間から白い目で見られているが、それも罰だ。
実際、同僚は誰一人見舞いに来ないし。
家族はどうしてるだろう?
旦那は42歳になった筈だ。
娘は10歳、いや11歳か…
ああああ!!
会えない!
娘の成長を見届ける事も出来ない。
不倫は全てをぶち壊す。
そんなのは分かっていたのに、なぜ私は。
今更のように込み上げる絶望。
私はベッドの上で叫び続けた。
人生は続く。