泣き虫の将軍(2)
「閣下、エラスモ将軍がお呼びです」
エウレアの声でメナスは目を覚ました。メナスはベッドの上で裸のままだったが、エウレアはすでに軍装に着替えた後だった。もはや昨夜の余韻は何も残っていない。
「エラスモ将軍がァ……?」
「はい。我が軍団に朝食の差し入れだそうです」
「で、我が軍団はそれをありがたく頂戴しちゃってるわけね」
「はい。……拙かったでしょうか?」
もちろん、王子の好意を気安く断るわけにもいかないから、この場合は頂戴する以外の選択肢はないのだが。高い朝食代を払わされなきゃいいけど、とぼやいてメナスは体を起こした。
メナスは身支度を済ませてから、エウレアを伴ってエラスモの元へ向かった。メナスの兵たちが、それぞれの天幕の前で旨そうな焼き魚やパンやスープにかぶりついていた。メナスを見つけると朝食を中断して起立する。部下の食事を邪魔しては悪いと、メナスは早足で兵士たちの前を通り過ぎた。
軍団の天幕が並ぶ中に、一つだけ見覚えのない派手な天幕が立っていた。エラスモが建てさせたものだろう。入口であの護衛が目を光らせている。
護衛に取り次ぎを頼み、エウレアを外に残してメナスは一人で天幕の中に入った。
そこにはエラスモだけでなく、リリッサも待っていた。二人の前には朝食の皿があった。
「おはようメナス将軍! 昨日はいささか飲みすぎて失礼した!」
すぐにメナスの朝食も運ばれてきた。メナスはコップに注がれた熱い茶をすすりながら、エラスモが本題を切り出すのを待った。
「さて、昨日の答えを聞かせてもらえないだろうか。つまり二人とも、俺に仕える気はないか? これは今すぐに返事が欲しい」
エラスモは昨晩のうちにリリッサにも声をかけていたのか? メナスがリリッサの顔を見ると、
「わたしはメナス将軍に従うよ」
と、逃げ場を封じるようにリリッサが答えた。
メナスはしばし黙った。自分の返事が、本当に正しいのかを検算していた。
「……いや? そうか、帰還命令」メナスは顔をエラスモに向けた。「あの命令、もしかして――」
「……ふふ、さすがだメナス将軍」
「どういうことだい?」
「つまりですね」メナスはリリッサに説明した。「王宮は長兄のレオンテ様が押さえています。そして王様の死を秘匿できるのは王宮を押さえているレオンテ様だけです。もしそれが公になれば王座をめぐる争いが起きます。そうなったとき、レオンテ様が真っ先に狙うのは、王都にいる他のライバル――つまりエラスモ様です」
「で、それと帰還命令がどう関係するんだい?」
「本来、私たちに命令を出せるのは王都のカッシアノ王だけです。しかしもし王様がすでに亡くなっているのであればレオンテ様が命じたということになるはず。しかし私たちの軍団が王都に戻れば、レオンテ様にとってはエラスモ様を排除する絶好の機会を失うことになります。レオンテ様がそんな、自分が不利になることをわざわざするはずがない。ということは、推測――命令を出したのはレオンテ様ではないということになります」
「つまり、身の危険を感じたエラスモ将軍が、命令を偽ってわたしたちを呼び戻したということか」
リリッサが睨んでも、エラスモは涼しい顔をしていた。
「他の将軍たちから見ると」メナスは言葉を選んだ。「私たちはエラスモ様を助けるために任地から勝手に帰還した――生粋のエラスモ派に見えるでしょうね」
「ふうん。つまり、今さら他の王子の側につこうとしても、もう手遅れということか」
リリッサはゆっくりと言葉にした。
空気が張り詰める。しかしエラスモは不敵な態度を崩さない。
「エラスモ将軍の身柄をレオンテ様に差し出すのは?」
リリッサが立ち上がって、話しながらエラスモの背後に回った。リリッサは帯剣していた。エラスモが叫べば外の護衛が駆け込んでくるだろうが、そもそもここはメナス軍団の宿営地のど真ん中だ。状況はメナスの側に有利と言える。
「……エラスモ様は、王になったらこの国をどうするつもりですか?」
「それはもちろん――」エラスモは立ち上がって、演説するように言った。「この国を世界でもっとも豊かな国にする!」
「……それで、その方法はどうするんですか、王様?」
「まだ考え中である!」
「……ま、そんなところでしょうね」
メナスはしばし沈黙し、思索を巡らせた。
リリッサは椅子に戻って足を組み、不貞腐れたようにそっぽを向いた。メナスは沈黙を続けて、返事をたっぷり焦らしてエラスモの反応を伺っていた。何もかもエラスモの手のひらの上というのは嫌なものだった。
エラスモの顔には徐々に不安が浮かび始めた。彼にとってのメナスの価値が吊り上がっていく。しかしあまり焦らして短慮を起こされても困る。
「……いいでしょう。そもそも私たちに選択肢はなさそうですし、ね」
「メナス将軍……!」
エラスモは立ち上がってメナスの手を握った。大げさなアクションに辟易して、メナスはやんわりとその手を振り払った。リリッサが肩をすくめたが、メナスの決断に異論は挟まなかった。
「それでエラスモ様、これからどうなさるおつもりですか?」
「無論、考え中である!」
エラスモは胸を張って言う。リリッサがイラついているのが分かった。
エラスモは取り繕うように続けた。
「しかし両将軍の力があれば、このまま王都に攻め上がることも可能だと思うが?」
「それは無謀でしょう。公式にはまだカッシアノ王は生きていますし、そうであれば私たちは謀反人ということになってしまいます」
リリッサも頷いて、
「王都を落としたあと、遠征地から帰国する他の軍団をわたしたちだけで防ぎきるのは無理だろうね」
と同意した。
「あくまで現時点ではカッシアノ王の死は噂であって、それを証明するものがない状態では、王様は生きているという建前で動くべきでしょうね。……というわけで、私たちはこのまま前線に戻ろうと思います。任地を放り出したままというのは、反乱と言われてもしょうがないのでね」
「待て待て待て、俺はどうなる!? 王都に戻ったら殺されてしまう」
「だったらこんなのはどうです? 前線で戦う我々が本国への援軍を要請し、それを受けたエラスモ将軍は軍団を率いて前線へ赴く……という感じで」
「なるほど! 理由をつけてメナス将軍の軍団に合流すればいいのか!」
「建前さえしっかりしていれば、王宮もそう簡単に私たちを追討はできないでしょう」
前のめりになるレオンテに対して、しかしリリッサは冷めた態度でメナスに質問する。
「今はそれでしのげるとして、その先はどうする?」
「これから先どういう情勢になるのかは分かりませんが、このまま外征を続けて、策源地を確保していくのがいいでしょう。戦うにしても交渉するにしても、先立つものは必要です」
「おお! 征服して力を蓄える! そして機を見て凱旋する! これだ!」
エラスモはいいとして――。
メナスの方針に、リリッサもとりあえずは納得したようだった。
「……んで、どちらが引き取ります?」
メナスとリリッサが見合った。リリッサは、腐った牛乳を口にしたかのような渋い顔をして、嘔吐するように口元を歪めた。
「さっき私に従うと――」
リリッサは首を傾けてメナスを睨んだ。
「……分かりましたよ。エラスモ将軍、我が軍団にようこそ」
「おお! メナス将軍と一緒であればこれほど心強いことはないな!」
「エラスモ将軍の第二軍団はまだ王都に残っていますよね。軍団はエラスモ将軍の意に従いますか?」
「それはもちろん! みな俺の腹心の部下よ!」
「ではわたしの第九軍団と合流するよう命令を出してください」
「よし、すぐに人を送ろう。なあに、我が軍団はすぐに動くさ」
将軍三人で事務的な打ち合わせを済ませたあと、エラスモを残して、メナスはリリッサを見送るために天幕を出た。わざわざ見送るような関係でもなかったが、リリッサと二人きりになるタイミングを作る必要があると感じていた。リリッサは悪い気はしないようで、メナスの隣を鼻歌混じりで歩いている。
「勝算はあるのか?」
リリッサは世間話のように切り出した。リリッサは自分の命にかかわるようなことでもそういう態度で扱う女だ。
「勝算がない方があなたの好みでしょう」
「それは誤解だよ。君はわたしのことを破滅主義者か何かだと思っているだろう」
リリッサがメナスの脇腹を人差し指で突いた。
「やめてくださいよ」
「ふふふ、くすぐったがりめ」
周りにはメナスの軍団の兵士たちの目がある。メナスはリリッサの指を掴んでやんわりと拒否した。
「まあ真面目に答えるなら、勝算はあまりないでしょうね」
「だとしたらなぜエラスモ将軍の口車に乗った? 君なら他の手はいくらでも思いつくだろうに」
「まあ、しばらくは様子を見たほうが良さそうな感じなんでね。エキシマスの伝説はご存じですか?」
「いいや。君たちの神々については疎くてね……」
「エキシマスというのは大昔、山の国に住んでいた大工ですよ。ある日、夢で大洪水があるというお告げを聞いて、彼は全財産をはたいて大きな船を作ったんですよ。みんなに馬鹿にされても船を作るのを止めなかった。そしたら実際に大雨が降って大洪水が起きて、国中の人がそれに乗って助かったという――」
「その伝説の教訓は? 『治水工事の手を抜くな』?」
「雨が降ってから船を作っても間に合わない」
「頼もしいね、船長」
二人はメナス軍団の宿営地の外れまで来た。
「なあ、うちの軍団まで寄って行かないか? もてなしの礼をしたい」
「ありがたい申し出ですが、こちらも撤収の準備やら、ボスリム攻略の作戦やら、色々と立て込んでいるんですよ」
――内戦は、確実に起きる。メナスはそう考えていた。
そのとき、メナス軍団が自由に動くためには、根拠地となる場所が必要だった。
難攻不落の城塞都市ボスリム――。
内戦の根拠地としては申し分ない。
ただし問題があるとすれば、内戦が始まる前にボスリムを落とさなければならない。しかも軍団の兵力を温存したまま。
これは難問だぞ、とメナスは思った。
「察しの悪い男だな、昨日の続きがしたいんだよ」
リリッサがぐっと体を近づけた。触れてもいないのに、彼女の熱をじりじりと感じた。
「……それに、ひょっとすると、こうして会えるのもこれが最後かもしれないだろう?」
「そうはなりませんよ」
「……うちの宿営地はすぐそこだよ」
リリッサがメナスの腰に手を回した。
メナスは信じていない。
この世のあらゆることを信じていない。
もちろんリリッサのことも、エラスモのことも、私的な関係を結んだ副官のことも信じていない。信じていない、というのは、正確に言えば、あらゆる可能性を捨てない、ということだ。
普通、人は、あらゆる可能性を捨てずに生きていくことができない。どこかで線を引いて、「あの人がそんなことをするはずがない」と切り捨ててしまう。そうしなければ心がその複雑さに耐えられなくなってしまうからだ。
メナスはそれをしない。
すべてのことが裏切り、変心し、出し抜き、偽証し、偽り、背信し、企む可能性を切り捨てない。
この世には、確かなことなど何もないのだ。
すべては変わりうる。
そして、その対象は他人だけではなく、メナス自身も含まれている。
短時間の熟慮の末、メナスはリリッサに身を委ねることにした。
美しいリリッサと情熱的に体を重ねている最中も、メナスの中には壁で仕切られた冷静な部分があって、興奮する二人のことを油断なく観察しているのであった。
結局、メナスの軍団が宿営地を引き払ったのは翌日になってからだった。
メナスの軍団は再び海路から任地へと赴いた。
エラスモの予想に反して――そしてメナスやリリッサの予想通り、エラスモ将軍の命令にかかわらず、彼の第二軍団は王都から動かなかった。
それからしばらく、メナスは機嫌を損ねたエラスモの扱いにも悩まされることになった。