2話 Normal?
「ほんっとにありがとな!!」
諏訪は勢いよく頭を下げ、両手で握った炭酸飲料の缶を甘井呂に捧げた。
もう人がいない食堂入り口の自動販売機の前。
運動部特有の鍛えられた発声が廊下に響き渡る。
他の部員はすでに部活を始めていたが、諏訪はサッカー部の窮地を助けてくれた甘井呂に礼をすると言って抜けたのだ。
ジュースを献上されている甘井呂は本気でうるさそうに顔を歪め、両手を耳に当てていた。でも声の反響が収まれば、貰えるものは貰うと言って缶を受け取る。
「つーか、何回目だよ。一生分のありがとう言われてるわ」
いつまでも下げたままの諏訪の額に、甘井呂はコツンと缶の角をぶつけてくる。
「ひょっ」
痛さよりも冷たさに驚いて、諏訪は間抜けな声と共に顔を上げた。反射的に額に手を当てて甘井呂を見上げると、整った顔がくしゃりと歪む。
(あ、笑った)
Play中の大人っぽい微笑みとは違う、年相応な表情。それはついこの間まで中学生だったんだと納得させられるあどけなさだった。
「飲む前で良かった……っ」
「そ、そんな笑う?」
「咄嗟にでねぇよ……っそんな声」
「咄嗟だから出たんだよ!」
この諏訪の台詞も、どうやらツボだったらしい。
甘井呂はちょっと噴き出したどころではなく、顔に缶を当ててずっと肩を震わせている。あんまり笑うものだから、諏訪はバシンと厚い胸板を叩いてやった。体だけは、本当に立派だ。
噛み締めていた口を開けて、スーッと深く呼吸して落ち着いた甘井呂は、ようやくポーカーフェイスを取り戻す。
(カッコつけてももう遅いぞお前)
カシュっとプルタブが開く音を聞きながら、諏訪は腰に手を当てて甘井呂を観察する。
覗いていた時の胸の昂りはもうない。
一体何だったのかと、気怠さが僅かにマシになった頭を掻いた。
「そもそも、奢るのはあんたじゃなくてあのDomの役目な気がするけどな」
諏訪の不躾な視線を気にした風でもない甘井呂だったが、ふと思い出したように眉を顰める。
あのDomとは、間違いなく唐渡のことだろう。
今日はボールを触らせないと言われ、不貞腐れながら筋トレしていた後輩の顔を思い出して諏訪は苦笑する。
「んー、確かに。でも、あいつも相当しんどいだろうから……あんまり追い詰めるのも」
「珍しいな」
「ん?」
「Sub dropを目の当たりにして、Domの心配もするやつ初めて見た」
甘井呂が宇宙人にでも出会ったような目で見てくるのを、諏訪も珍獣を発見したかのように目を瞬かせた。
「だって、あんな状態にしたのが自分だって思ったら怖い……怖くないか?」
ぐったりと動かなかった佐藤を見た時は、もちろんゾッとした。今思い出したって、二度とあんな状況に遭遇したくない。
それと共に、部室中に響く声で怒鳴っていた唐渡も真っ青な顔をしていたことを思い出す。
「唐渡が一番ショックだったと、思うんだよな……っ、て、なに?」
突然ポンっと頭に何か触れた。
何の脈絡もなく、甘井呂の大きい手が乗ったのだ。
「なんとなく」
わしゃわしゃと遠慮なく撫でられて、体が揺れた。頭を押さえつけられながら目線を上げると、何だか嬉しそうに口角が上がっていて訳がわからない。
それなのに、甘井呂に撫でられるのが心地よくてまた頭がぼんやりしてくる。
「そういや」
「んー……?」
低音ボイスも耳に幸せで、諏訪は知らず知らずのうちに自分から甘井呂の手のひらに擦り寄っていた。夢と現実の間をフラフラしているような感じだ。
「大丈夫かあんた」
「うん、きもちぃ…………おわぁ!?」
声が妙に近く感じてうっすらと目を開けると、まつ毛が長く鼻筋が通った美顔がドアップになっていた。
諏訪は即座に覚醒して飛び退く。勢い余って自動販売機にぶつかり、背中が痛かったが気にしている場合ではなかった。
自分がしたことが信じられない。
「ご、ごごごめん!! 何やってんだ俺! 寝不足で眠いのかも!」
両手を合わせながら取り乱している諏訪を、甘井呂は不快そうでもなく静かな表情で見つめてくる。
「あんたもPlayするか?」
「え……?」
Playと聞いた諏訪の頭に、部室での光景が蘇ってくる。
優しい瞳、柔らかい口元、脳を撫でるような深い声。身体を包み込む逞しい腕に包まれて、褒められたら。
想像して頷きそうになったところで、諏訪は我に帰る。
(ちょっと羨ましいとか思ってたのがバレてる!?)
Playに誘ってくるなんて、覗き見ていたのが甘井呂に気付かれていたのかもしれないと血の気が引く。引き攣った顔で首が痛くなるほど左右に振った。
「み、みてないぞ!」
「は?」
訝しげな甘井呂の反応で、諏訪は完全に墓穴を掘ったことに気がつく。ピタリと動きを止めて、ロボットのような動きで甘井呂に背を向けた。
いたたまれない。
「な、なんでもないデス。ではそろそろ部活戻りま」
「さっきのPlay見てたのか」
甘井呂はうやむやにして見逃してはくれなかった。はっきりと誤解を生まない質問をしてきたので、諏訪は観念する。
改めて甘井呂の方に向き直るが、罪悪感から両手で顔を覆う。
「ごめん……心配で」
嘘はついていない。
Playを覗いた時の諏訪は邪な気持ちはなく、純粋にチームメイトを案じていた。しかし、甘井呂の好意を疑ったことを白状する形になったので気まずい。
「俺が気軽に連れてきて巻き込んだのに、ごめ」
「なら話は早いな。あんな感じでよければいつでも」
「ほぁ?」
「あんた、出てくる声がいちいち面白いな」
「だって普通、NormalをPlayに誘ったりしないだろ? 間抜けな声も出るって」
Play出来るのはDomとSubだけなのは常識だ。
第一、NormalはPlayで体調が良くなったりはしない。
そう伝えると、口元を押さえて笑みを隠していた甘井呂の眉間に皺がよった。
「Normal……?」
Normalにも個人的な趣味としてソウイウ行為が好きな人はいるだろうが、諏訪には分からない世界だった。
甘井呂には諏訪が興味津々に見えていたのだろうか。いや、確実に見えていただろう。
疲れていたとはいえ、ソウイウ趣味だと思われても仕方がない行動をした自覚が諏訪にはある。
「あ、もしかしてお前を離さないからSubだと思ったのか? 俺は純粋に入部してほしいだけだぞ!」
「……」
諏訪は何とか誤解を解こうと、大袈裟に明るい声を出してバシバシと広い背中を叩く。無抵抗に揺れながら、甘井呂はジッと諏訪を見下ろしていた。
何の言葉もない時間で、全てを見透かされているようで。
諏訪の笑顔が引き攣りそうになった時、
「……入るわけねぇだろ」
たっぷり間をとった後、小さく息を吐いた甘井呂がジュース缶の中身を一気に煽る。
波打つ喉と、飲み終えた後に唇を舐める舌の動きに目を奪われる。
それは一瞬の出来事で、諏訪はすぐに我に帰った。
出会ってからの短い時間で、何度も甘井呂に見惚れてしまっている。
こんなことは初めてだ。
かわいい女子を目の前にしたって、ここまで意識を持っていかれることはない。
「じゃあな」
ゴミ箱の中で缶と缶がぶつかる乾いた音をBGMに、甘井呂が背を向けた。
諏訪は、条件反射のように手を伸ばす。
「待って……!」
やはり立ち止まってくれた甘井呂は、「なんだ」と目だけで問いかけてくる。
Domは威圧的だが面倒見が良いタイプが多いから、甘井呂もそうなんだろう。
肘を掴んだことに理由は無かったが、諏訪はなんとか場を繋ごうと必死で口を動かした。
「あの、ほら! せっかくだから、部活見学してけよ!」
「離せ」
「はい」
部活の話題を出すと外見通り冷たい甘井呂の言葉。諏訪は何故かそれ以上は何も言えなくなって、手を下ろした。
「素直な良い子だな」
甘井呂が目を細めただけで、胸がひとつ、大きく鳴る。
どう考えてもおかしい。
だが思考が停止してしまっている諏訪は、自分の体や心の反応を無視する方法しか思いつかなかった。
「い、言っとくけど、俺のが先輩だからな!?」
「あんた、ちゃんと病院いけよ」
必死の虚勢をスルーされて肩透かしをくらう。
流石に初対面の一年生に心配されるほど体調が悪いとは思わず、諏訪はへらりと頭を掻いた。
「しつこい風邪だけど、時間ないんだよなー」
「放課後行けよ」
「部活を休むって選択肢はない!」
諏訪は手を突き出してきっぱりと言い切ったものの、DomはNormalにも影響を及ぼすのだろうか。「行け」と言われたら「行かなきゃならない」と胸がざわめく。
頑なに譲らない諏訪を見て、甘井呂はハーッと大きくため息をついた。
全く理解できないと呆れの滲む顔に書いてある。
「体育会系、意味わかんねぇ。忠告はしたからな」
大股でさっさと立ち去っていく後ろ姿を眺めて、他人に冷たくしきれない優しい奴なんだとぼんやり思う。
(……病院行ったら、褒めてくれんのかな……)
頭に触りながら、手の温もりを思い出す。
あの手に抱きしめられたら、どんなに気持ちがいいんだろう。
「って、何考えてんだ俺はもー!! いい加減にしろっ」
胸の燻りを発散させるように叫び、両頬をバチンッと挟む。
ジンッとした痛みのおかげで頭がはっきりする。
気合いを入れ直せたと満足して、部活に戻ろうと方向転換すると。
丁度呼びにきたらしい後輩が驚いて固まっていた。
お読みいただき、ありがとうございます!