13話 第二性
試合前のように、手に汗が滲む。
昼休み開始のチャイムが聞こえてくると、諏訪は勢いよく立ち上がった。隣の席の生徒が驚いてこちらを見たので、ごめんと手を合わせる。
「林ー! 今日、昼練行かねぇからよろしくなー」
教室を出る前に、同じく教室を出ようとしている林の肩を叩くと、化け物でも見たかのような顔をされた。
「雹どころか豹が降るかもしれん」
「降ってきたら逃げ切れよ」
片目を瞑って手を上げると、林は止めることも理由を聞くこともなくヒラヒラと手を振ってくれる。
廊下を歩く生徒と生徒の間をぶつかることなく走り抜け、階段を駆け上がる。
昨日の夜、
『明日の昼休み、屋上の扉のとこで待ってる』
とメッセージを送った。
相変わらず読んだ様子もないし、来てくれるかは分からない。でももし今日ダメなら明日、直接教室に行こうと考えていた。
(謝るくらいはしないと……っ)
気持ちが逸るままに全速力でたどり着いた先には、
「……やっぱだめかぁ……」
ただ薄暗い空間だけがあった。
急激に重くなった足を持ち上げて、甘井呂と話した場所まで上がる。
「いや。まだ昼休みになったばっかだし」
焼けるような喉から長い息を吐いて座りながら、諏訪は自分で自分を励ました。
足を伸ばして、早くなった心音を聞く。
鍵の掛かった扉の隙間を通った風が、汗の滲む頬を撫でた。
静かな空間で祈るようにスマートフォンを握りしめた時。
着信音が鳴り響く。
「甘井呂……っ……」
期待に満ちた顔ですぐに開いた画面に表示されているのは「佐藤」の文字。
「じゃない……」
人が見ていないのをいいことに、心のままに諏訪は落胆した。
でも、わざわざ電話をかけてくるなんてあまりないことだ。昼練で緊急事態が発生したのかもしれないと思い至り、諏訪は電話に出ながら立ち上がる。
「どうしたんだ、さと」
「諏訪……っ今すぐ教室に戻って!」
音量を落としている佐藤の、焦ったヒソヒソ声が聞こえてきた。諏訪は思わず階段を降りようとした足を止める。
「え? 教室? グラウンドじゃなくて?」
「諏訪のクラスの教室!」
最後にそれだけ告げられ、電話が切れた。
佐藤は違うクラスなのに、どうして諏訪のクラスなのか。
疑問は色々あったが、ただ事ではない様子だ。
諏訪はポケットにスマートフォンを片付けると、すぐに教室に戻った。
◆
(なんだこれ)
世界はこんなに歪んでいただろうか。
もっと、優しかったはずだ。
諏訪は自分の置かれている状況を飲み込めずにいた。
「よー、諏訪。お前やるなぁ」
「誰でもいいなら俺が相手してやるよ」
「いやいや、Normalはお呼びじゃねぇだろー」
そう言って、教室までの廊下ですれ違いざまにニヤニヤと笑いかけられてから嫌な予感がしていた。
教室の引き戸の前で、自分の机の周りに人だかりができているのを見て腹の奥をギュッと掴まれた感じがした。
諏訪の姿に気づいた有象無象がバラバラと散っていって、机の上に置いてある「何か」を見ていたことが分かる。
近づくとそれが何枚もの紙、いや、写真だということが分かった。
まず目に入るのは諏訪と甘井呂が二人でPlayルームのある建物に入っていく写真。
「……っ」
全身の血の気が引いて寒気がする。
悪いことをしている写真を撮られたわけではない。
それでも、人に見せびらかしたいものなわけもなかった。
甘井呂との写真の他に、Dom性の教師を手伝って準備室から出たところや、Dom性の生徒たちに声をかけられていたところ。
おそらく部活終わりの夜、唐渡と二人で部室から出てきたところまで。
一枚一枚はなんの変哲もない写真なのに、甘井呂と並ぶ写真の背景のせいで全てが意味深に映る。
(なんのために、こんな……)
明らかな悪意を感じて、眩暈がした。
テーブルに手をつき、なんとか冷静でいようと深く息を吸おうとする。
それでも上手く呼吸ができなくて目を閉じると、近くに立ってオロオロしていた佐藤が顔を覗き込んできた。
「諏訪、大丈夫? 土曜日の写真まであるなんて気持ち悪いよね」
「甘井呂のはともかく、他のは別に話してただけなんだけどな」
「そ、そうだよね! 昨日は相談があっただけって唐渡が言ってたし!」
目線を合わせずに写真を睨みつける諏訪に、佐藤はフォローするように言い募る。
それが逆に、諏訪の胸を締め付けた。
諏訪はギリっと歯を食いしばり、眉を下げている佐藤の方を見る。
「……なぁ佐藤。これ撮ったのお前だろ」
「え? 何言ってるの」
「なんでこの写真が土曜日で、こっちが昨日って分かるんだよ」
諏訪は片手で額を抑えながら、甘井呂と唐渡の写真を順番に指差した。
甘井呂と出会ってから、Playルームへ行ったのは土曜日だけではない。
唐渡と話す時、林よりも諏訪の方が穏便に済む。必要があるときに唐渡と二人で部室に残ることだって、一回や二回ではなかった。
流石に諏訪にすら分からない日にちをはっきりと告げられれば、違和感があるというものだ。
「俺がSubだって噂ばら撒いたのもお前?」
こんな憶測、周りに人がいる状態で発してはならないと思った時には、すでに声に出てしまっていた。
「変なこと言うね」
謝らなければと思うのに、佐藤は肯定も否定もせずに無表情で諏訪を見ている。
違うと一言言ってくれれば、謝って済むのにさせてくれない。
周りは興味津々にこちらに意識を向ける者や、見ないふりをしてそっぽを向いている者など様々で。
教室からそそくさと出ていくクラスメイトの姿も目の端に映る。
もしかしたら写真を置いたのが誰なのか、知っている生徒もこの教室にいるのかもしれない。
特に、一緒に写真に写っているにも関わらず何も言わずに口角を上げているDomの男子生徒は、全てを知っているだろうと諏訪は確信した。
だがその生徒を問い詰める前に、佐藤が諏訪の腕を掴む。
「僕も諏訪に聞きたいことがあったんだ」
爪が立つほど強く握られるが、振り解こうとすると佐藤を怪我させる気がして諏訪はそのまま耐えた。
「なんでSubだってこと、黙ってたの?」
「自分の第二性を知らなかったんだよ」
「でも、分かってからも黙ってたでしょ?」
見上げてくる暗い目は、まるで諏訪が裏切ったとでもいうように責めてくる。
診断でNormalだったことは揺るぎない事実で、はっきりと言い切れた諏訪だったが。
Subなのだとほぼ確信していたのに隠していた理由は、現実を飲み込めていなかったからだ。
だから、この後に続いた佐藤の言葉には精神を揺さぶられた。
「きっと諏訪はさ、Subは気持ち悪いって思ったんだよね」
佐藤が言いたかったのは、一番気にしていたのは、これだろう。
諏訪は金槌でぶたれたような衝撃を受けながらも、強く首を振って否定した。
「そんなこと思ったことない」
「じゃあ何で言わなかったの? 自分がSubなのが、嫌だからでしょ? 見下してたんだよね?」
違和感があっただけで、嫌だなんて思っていない。
Subが自分よりも下だなんて、考えたこともない。
嘘のない気持ちのはずなのに、声に出すことができなかった。
否定の言葉が喉に張り付く感じがする。
佐藤の言った通りならば、辻褄が合ってしまう。
病院に行く勇気が出ないのも、家族にすらまだ伝えられていないことも。
諏訪は自分の気持ちが全く分からなくなった。
「ねぇ、そう思うよね?」
動揺して答えられなくなった諏訪を鼻で笑った佐藤は、周りの生徒たちに目線を向ける。ずっと諏訪たちを囲んで見物していた数人は、何が楽しいのかゲラゲラ笑い出した。
「Subって、従うしか脳がないもんな」
「そりゃ自分がそんな変態っだって認めらんねぇよ」
「おい……っ」
諏訪は一番近くにいた生徒の首元を掴み間近で睨み付ける。
教室に居るSubは諏訪と佐藤だけではない。
だが相手の生徒は薄ら笑いを浮かべたまま、諏訪の手首を掴む。
「なんだ、相手してほしいのか? 誰でもいいんだもんな。ここでPlayしてやるよ」
「ぐ……っ!」
諏訪は手を捻り上げられ、床に強く叩きつけられた。
上手く受け身を取れずに全身に痛みが響く。
痛みに耐えて体を起こして見上げると、目の前に立っている生徒からは確かにDomの気配を感じた。
この生徒は、「ここ」でPlayをしてやると言った。
「要らないに決まってんだろ」
諏訪は吐き捨てるように言うと、意地で立ち上がる。
不良に囲まれた時は訳わからないまま漠然と嫌だったけど、今回ははっきりと心が拒絶する。
頭の中で、甘井呂の優しい声が「こいつを拒否しろ」と言っている。
(俺のDomはこいつじゃない)
この場をどう切り抜けるかと諏訪が考えている中で、Dom性の生徒はまるでショーでも始めるかのように高らかに声を上げた。
「拒否権があると思ってんのオモシレェな! どうする? とりあえずKneelにするか?」
問われた佐藤は、諏訪の机に座って足を組む。
散らばった写真へと視線を落としながら、さして興味もなさそうに口を動かした。
「ぬるいんじゃない? Stripとかどう? Subなら嬉しいよ」
「へぇ。ほんと気持ち悪ぃなSubって」
「ふざけんな! 佐藤、お前何考えてんだよ」
聞こえた単語に寒気を覚え、諏訪は声を荒げてしまう。
甘井呂なら絶対に使わないCommandだ。
そもそもPlayは人が見ているところでするものではないのに、その上でStripなど。
本気で諏訪を恥ずかしめる気だ。
佐藤が佐藤自身を貶めるようなことを言っているのも、許せなかった。
諏訪の剣幕に怯む様子のない佐藤は、見たことのないどす黒い表情をして、聞いたことのない低い声を出す。
「自分だけ素知らぬ顔でいい人ぶってた罰だよ」
「第二性を隠そうがどうしようが俺の勝手で、俺の権利だ。自分の八つ当たりを正当化すんな」
もし誰かが第二性を公表せずに生活していたとして、諏訪はその人を責めたりはしない。実際に、そういう人もいると知識にはある。
諏訪は気持ちで負けそうになるのを、なんとか自分の状況を客観的に見ることで踏み止まったのだ。
「第二性とか関係ない! でも、今のお前らは間違いなく気持ち悪い!!」
教室に反響し、廊下にまで響く声で言い放つ。
その場の全員の時間が、一瞬止まる。
だが一番に我に帰った佐藤が立ち上がり、諏訪に向かって鬼の形相で手を振り上げた。
「……っ」
衝撃に備えて諏訪は目を瞑る。
が、想像していた痛みは来ない。
「……え?」
恐る恐る目を開いた諏訪は、固まった。
そして、ゆっくりと足元を見る。
真っ青な顔をした佐藤が、息も絶え絶えな様子で倒れていた。
佐藤だけではない。
先ほどまで諏訪を嘲っていたDom性の生徒も、周囲で野次馬をしていた生徒たちも。見て見ぬ振りをして過ごしていた生徒たちも第二性に関わらず皆、床に這いつくばっている。
異様な光景に、諏訪はジリジリと後退りした。
「なに、何があった……?」
「おい、諏訪」
恐怖しかない状況で、優しく深い声が後ろから聞こえる。
今一番、助けを求めたかった人の声だ。
振り返れば、いつも通り涼しい顔をした甘井呂が立っていて。
我慢できずに抱きついた諏訪を、ぐらつくことなく受け止めてくれた。
「悪い、拗ねてた」
「……! 俺も、疑ってごめん……っ」
しっかりと抱きしめ返してくれる腕のおかげで緊張の糸が切れて、鼻が熱くなってくる。
このまま二人だけの空間にしてしまいたい。
だが今の状況を無視するわけにはいかない。泣かないようにと目頭に力を込め、諏訪は甘井呂に教室の様子を示した。
「何が起こったか分かんないんだけど……っ! 先生、呼ばなきゃ……!」
「そうだな。よく分かんねぇけど一大事っぽいな」
甘井呂は教室内を静かな目で見渡すと、淡々と頷いた。冷静すぎて違和感があるほどだ。
(不良同士の喧嘩ってこういう状況よくあるのか!?)
頭の中に疑問符を並べながら、諏訪は甘井呂の手を引いて教室を出た。
「諏訪くん! 大丈夫ですか!?」
職員室へ向かおうと廊下を走り出した途端、前方から担任の教師が血相を変えてやってきた。
どうやら途中で教室を出た生徒が呼んでくれたらしい。
「俺は大丈夫なんですけど!」
諏訪が教室を指さすと、担任の教師が驚愕する。
その隙に、甘井呂は教室の前に留まろうとした諏訪の手を引いてその場を離れた。
強い力に抗えずに諏訪は焦った声を出す。
「ちょ、甘井呂! なんかやることあるかも」
「断言するがそれはお前のやることじゃねぇ」
「でも」
「お前のケアが先だ」
しっかりと握られた熱い手に逆らえるはずもない。
珍しく全く聞く耳を持ってくれない甘井呂に連れられて、諏訪はまた階段を上る羽目になった。
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